運河で旅するヨーロッパ(後半)

5 ノーベルの遺産?

ヨータ・カナル(スウェーデン)

スウェーデンの「ブルーのリボン」と呼ばれるヨータ・カナルは、私の興味を引きつけずにはおかなかった。それはこの運河完成の時期が、大発明家アルフレッド・ノーべルの活躍した時代とオーバーラップし、この運河建設に、彼が何らかの役割を果たした可能性があるのではないか?ちょうど運河創成期のレオナルド・ダ・ヴィンチのように…。

 

これまでの運河とは違い、ヨータ・カナルを航行するには通行料がいる。

通行料が高いのは、この運河はヨータ・カナル・カンパニーという会社が経営しているからである。

 

ヨータ・カナルはその全てが人工的に造られた運河ではない。スウェーデン国内に点在する9万6000もの湖沼を利用して、それらを運河でつなぐようにルートが設定されている。

 

スウェーデンは酒飲みに実に冷たい国で、酒やビールは特別な店でしか手に入らず、税金も値段も高い。ドイツから車で来ると、タダ同然のビールが(筆者の偏見)デンマークに入ると倍くらいになり、スウェーデンに入るとさらにその2倍、禁止的価格となる。だからデンマークからスウェーデンに渡るフェリーの中は格好の免税酒場と化し、1日中酒をあおる酔っぱらいが目につく。北欧共通の悩み、長すぎる冬、長すぎる夜がアルコール依存症へと導くらしい。

 

ヨータ・カナルの橋は全て可動式である。その恩恵で、全長10mを越えるヨットでさえも、マストを立てたまま、運河の全行程を航行することができる。この可動式の橋を操作しているのがロックキーパーである。彼らは車で先回りして次々と橋を動かし、ロックを操作して船のサポートをしながら目的地まで行動を共にする。

 

真夜中近く、突然ヒューヒューという音とともに辺りが明るくなった。窓から外を見ると、町外れのあたりから次々にロケット弾がヴェッテルン湖に向かって発射されていた。スウェーデンを舐めてはいけない。この国は筋金入りの武装中立国なのだ。

フランス周辺の運河



6 ヨーロッパ最古の運河探検記

セーヌ川からロワール川へ(フランス)

ご家族ではなく「運河の旅人クラブ」での旅行

この旅行では〈ペニシェッテ〉と呼ばれるフランス独特の運河用チャーターボートを利用した。

 

セーヌ川は歴史上幾度となく氾濫し、人々に苦痛を味わわせてきた。その結果17世紀以降セーヌは徹底的に改修され、16の堰堤で流れがせき止められ、流量が調節された。各堰堤の脇には船が航行するための水門が造られ、ペニッシュと呼ばれる平底の運搬船が行き来するようになった。こうしてセーヌは完全に「運河化」されたのである。

 

ロワン川はヨンヌやオワーズと同じくセーヌの支流のひとつである。しかし先の2つの川に比べると川幅も狭く流れも緩いこの川が歴史的な注目を浴びたのは17世紀。フランスいやヨーロッパ初の分水嶺越え運河(当然世界最古である)が計画された時、セーヌ側の入り口として選ばれたのである。この川を遡り、分水嶺越えの運河がロワール河畔のブリアールに抜ける。すなわちセーヌとロワールの谷をつなぐ画期的運河計画が、当時フランスに滞在していたイタリアの天才、レオナルド・ダ・ヴィンチによってフランス国王、フランシス1世に進言された。彼は運河の切り札、二槽式閘門(水門、ロック)の考案者とも言われ、そのシステムを最大限に用いて この運河計画を作成したのだった。

1604年、ブルボン王朝最初の国王アンリ4世は、セーヌとロワールを結ぶ運河の着工を命じた。直ちに工事は開始されたが、

1610年に王が暗殺され計画は行き詰まった。

1638年になってやっと工事が再開され、

1642年、世界最初の分水嶺越え運河が完成したのである。

この運河の完成によって、運河輸送は新時代を迎えた。それまで灌漑や小舟が下るだけの機能しかなかった運河がついに分水嶺を越え、大河と大河が水路で結ばれる時代が始まった。近代的運河時代の幕開けである。計画を描き、ヨーロッパ内陸水路網にロマンを抱き続けたが、その実現手段を最後まで見出せなかったローマ人の夢が、ついにこの時実現したのである。

 

オルレアン運河はオルレアン公の命により1692年に完成し、ブージュからロワール河畔のオルレアンまで74kmを29のロックでつないでいたが、流量の安定しないロワール川の水路輸送が衰退した結果廃止される運命をたどった。

一方ブリアール運河は、その後ロワール川に沿って建設されたロワール側設運河とつながり、さらに中央運河か(カナル・デュ・サン卜ル)と結ばれて地中海への輸送ルートとして発展した。同時代に共に完成した運河でありながら、一方は打ち捨てられ、もう一方は現代まで生きながらえてプレジャーボートが走る。

 

7 東西の架け橋を旅する

エルベ川(旧東ドイツ、チェコスロバキア)

エルベは長い間「鉄のカーテン」の背後に隠され、運河としての水上輸送も完全に衰退してしまった。

ベルリンの壁崩壊後、45年ぶりに自由航行が可能な河川となった。

 

ここ数年のヨーロッパ、特に中欧では異常ともいえる暑い夏が続き、ことに水源に氷河を持たないエルベの流れは、90年以来異常渇水が恒常化していて、水路輸送に重大な影響が出ていると聞く。

 

インフレータブル・ボート

日本では通称ゴムボートと呼ばれているが、材質はゴムだけではなく、様々な素材を組み合わせて強靭性と軽量化が図られた表皮の中に、空気を入れて膨らませるボートで、ヨーロッパでは軍事用、救難用として多方面にわたって利用されている。また折りたたんだ状態での運搬の容易さと大きな浮力による安全性、走破性といった利点を用いて、驚くべきアドベンチャー・クルーズを実現している。

 

ハンブルクの港は北海に面しているとドイツでも信じてる人々がいるというが、実はハンブルクは内陸港であり、エルベに面した港なのである。

 

船外機、英語でアウトボード・エンジンという機械は、出力発生源とそれを伝えるギア、それに推進部分のプロペラまでが一体化されて、さらに上部に燃料タンクまでが着いている便利極まりない水上用エンジンで、これを手漕ぎボートに取り付けるだけでモーターボートに早変わりする。

この便利極まりない機械を考え出したのはアメリカ人エビンルード氏、恋人にアイスクリームを届けるのに、手で船を漕いでいては溶けてしまうので、こんな動力を発明したそうだ。

 

チェコに入るとエルベ川はラーベ川と名前が変わる。そして見事なばかりに堰堤と水門で運河化されているのである。ここでは水路は常に一定の水位に保たれ、活水の影響もない。チェコの河川改修が東ドイツより一歩進んでいたのである。

ドイツ周辺の運河



8 ヨーロッパをひとつに

ライン・マイン・ドナウ運河(ドイツ)

ラインを遡りドナウを下る。北海から黒海までヨーロッパ大陸4000キロを横断する運河の構想を最初に描いたのはローマ人だといわれている。

そして15世紀にイタリアで二槽式水門が考案され、ヨーロッパが運河黄金時代を迎えようとしていた17世紀になっても、ラインからドナウへのルートはつながることはなかった。しかし

1845年、バイエルンの王フリードリッヒ1世は、 ドナウの支流アルトミュール川とラインの支流マイン川を全長150キロの運河で結び、初めてラインとドナウが繋がった。この運河はフリードリッヒ運河と呼ばれ、当時の運河輸送に大いなる貢献を果たした。しかしこの運河には輸送量に限界があり、当時ヨーロッパの主流となっていた300トン級のパージに比べ、半分の大きさの船しか航行できなかった。結果輸送量は年とともに減少し、ついに

第二次世界大戦終結と同時に廃棄されてしまった。

約30年の年月と膨大な資金を投じて1992年9月25日、ついに運河は完成した。文字通り北海から黒海まで、ヨーロッパ大陸を横断する一大水路が実現したのである。

豊かな自然の中に巨大運河を通すとなれば環境破壊は否めず、環境保護を唱える様々な団体からの指摘で工事は遅れた。

 

私はチェコびいき 大人のための旅案内

私はチェコびいき 大人のための旅案内 表紙

私はチェコびいき

大人のための旅案内

大鷹節子 著

朝日新聞社 発行

2002年6月5日 第1刷発行

 

以前このブログで取り上げさせていただいた『チェコとスロバキア』を全く違った角度から書き直した(というよりも新たに書いたと言った方が正確である)のが本書、ということです。

内容は「チェコとスロバキア」と一部重複してるところがあります。

 

Ⅰ プラハへの第一歩

 

Ⅱ プラハつれづれ

私が知っていた時代のプラハで、一番話したくない外国語はロシア語であった。次に嫌われた言葉はドイツ語である。しかし英語を話したくないと私に言った人もいた。1938年9月、飛行機を降り立ちミュンヘン協定書を見せながら、「私は平和を持ち帰りました」と誇らしげに言った時のイギリス首相チェンバレンのあの言葉を聞いたからである。チェコが同盟国イギリスに裏切られて、国境地帯の領土をドイツに併合されたショックは消えなかった。

 

以前は ウクライナ人もロシア人も十把ひとからげでソ連人と見ていたが、ウクライナが独立した現在、プラハの建築や道路工事のような肉体労働に携わっているのはチェコ人ではなく、ウクライナ人とアルメニア人が多い。

 

日本ではあまり知られていないが、チェコには日本語に堪能な人がたくさんいる。日本から遠くへただったチェコで、なぜこのように日本への関心が強いんだろうか。その理由は、チェコはオーストリア帝国に属していた時代から、明治、大正の日本近代化政策のためにオーストリアから派遣された技術者や貿易商の中にボヘミア出身のオーストリア人、すなわちチェコ人がいたからである。

 

Ⅲ プラハそぞろ歩き

プラハの最大の魅力は、ヴルタヴァ川を挟んで、天へ向かって数限りなく描き出される「百塔の都」と呼ばれる美しい街の佇まいである。プラハは建築様式の博物館であるとよく言われる。古くはロマネスク、ゴシック、ルネサンス、バロック からアールヌーボー、キュービズムに至るまでの多様な建築が渾然と立ち並びながら、しかも互いに調和してるのがプラハである。

 

チェコの国歌の最後の音からスロヴァキアの国歌が始まる、かつてのチェコスロヴァキアの国歌を私が聞き慣れていたからだ。チェコ国歌であるシュクロウブ作曲『故郷はいずこ』の抒情的なメロディーと、全く違うスロヴァキアの民族的メロディの二部でチェコスロヴァキアの国歌は成り立っていた。

 

ボヘミア国王であり、同時に神聖ローマ皇帝であったカレル4世は、ヨーロッパ最古のイタリアのボローニャ大学と同様の神学部、法学部、哲学部、医学部から成る総合大学を1348年、中央ヨーロッパとしては初めてプランに設立した。カレル4世がプラハ大学(後のカレル大学)を創設した目的は、「ボヘミアの自分の民が、勉強するためにわざわざ遠いところまで行く必要がないようにするため」だった。

 

パリ通りから真正面のヴルタヴァ川の向こう岸のレトナの丘には、第二次世界大戦後スターリンの銅像が建っていた。スターリン批判が始まった60年代、銅像は爆破されて取り除かれ、私がプラハについた1983年には台座だけが残っていた。1989年の民主化以降、いつの間にか銅像の台座には、お世辞にも美しいとは言えない大きな赤いメトロノームが取り付けられ時を刻み始めた。

 

プラハ城前の広場の一角に新しく初代チェコスロヴァキア大統領トーマシュ・マサリクの銅像が置かれた。生誕150周年の2000年3月7日、ハヴェル大統領とチェコ出身のアメリカのオルブライト国務長官(当時)の手によって除幕された。建国のために奔走したマサリクの名は、彼が社会主義について批判的であったために、共産党政権の時代には歴史教科書から消されていたが、実はヨーロッパ諸国から尊敬を集めた立派な人物であった。

 

ストラホフのバロックの図書館は珍しい本も展示されている。例えば表紙が木でできている9世紀の写本には、いくつもの宝石がはめ込まれている。チェコ語の一番古い聖書や、1cm四方ほどの小さい聖書など、本の内容が読めなくても、字体と表装の美しさを鑑賞するだけでも価値がある。

 

ロシア議会は68年の「プラハの春」自由化の軍事介入に対するロシア政府の謝罪の意を示すため、軍事介入30周年にあたる98年8月20日、自由化の指導者たちをモスクワに招待した。

当時チェコ市民に80名余の死傷者がでたが、ソ連兵は1人も殺傷されなかったことに、ロシア側は感謝したそうである。また軍事介入に反対して投獄された当時のソ連の反対制派の人たちとも語り合ったが、そのような人たちがいたことを知ったことは大きな収穫だったと私に話してくれた。

 

立派な胸像が据えられたドヴォザャーク(ドボルザーク)の墓である。それにひきかえ、スメタナの墓は簡素である。それでも毎年5月12日のスメタナの命日になると、大統領や文化大臣の花輪が捧げられるので、探さなくてもすぐそれとわかる。スメタナの墓への献花の後、「プラハの春」音楽祭が始まるからである。

 

Ⅳ プラハを出ると

日本でもよく知られている「ヴルタヴァ」は、日本の学校では、「モルダウ」というドイツ名で教えられる。川は川なのだから何と呼ぼうと大した問題ではないと軽く思う人もいるが、チェコ人にとってはこの川の名を何語で呼ぶかは大事な問題である。チェコの地名の多くはかつてチェコ名とドイツ名を持っていたが、ドイツ語名のモルダウ川という呼び方は、外国支配を彷彿とさせる名称なのだ。

 

13、4世紀にプラハは輝かしい繁栄をした。その財源はプラハから東にある国王直属のクトナ・ホラ銀山である。現代のヨーロッパ共通通貨・ユーロにも匹敵するほどヨーロッパに広く流通したプラハ銀貨が鋳造されたのは、クトナ・ホラの王宮内のイタリアン・コートである。イタリアから技術者を招いたことからついた名前らしい。

 

トルストイの小説『戦争と平和』に描かれたオーストリアとロシア対フランスの三帝会戦の舞台になったのが、ブルノの東の近郊、ドイツ名アウステルリッツ、チェコ名スラフコフである。ロシアとオーストリア軍はこの時ナポレオンを率いるフランス軍に大敗を喫した。1805年のことである。麦畑の中濃い霧の中から突然フランス軍が現れたブラチェの丘には、三帝会戦の大きな平和記念碑が建っている。

この有名な戦場を訪れるのは、国境が近いオーストリアの客ではなく、フランス人が多いので、フランス語で書かれた説明書の方がよく売れると平和記念碑の管理人は言っていた。

 

チェコの温泉は、医者の処方箋に従って鉱泉のプールに入って何日間が滞在治療する場合以外、鉱泉を飲むのが普通である。普通のコップで飲むと強すぎるので、吸い口のついた陶器のカップで鉱泉を少しずつ飲むのだが、いくら胃にいいとからと言われても、鉱泉の味はとても一気にたくさん飲めるおいしさではない。

 

冷戦終結後、チェコ人のロシア人に対する憎悪がなくなり、ロシア人は大資本家に変身してカルロヴィ・ヴァリに登場している。カルロヴィ・ヴァリは、昔ドイツ系住民が多く住んでいたので、ドイツ名はカールスバードと呼ばれ、大戦直前、チェコ人が無念の涙を飲んでドイツに割譲させられた地帯なのだが、今や新しい時代を迎え、ここはロシア人資本家の活躍の舞台の一つになっている。

 

 

 

姉・米原万里 思い出は食欲と共に

姉・米原万里 思い出は食欲と共に 表紙

姉・米原万里 思い出は食欲と共に

井上ユリ 著

文藝春秋 発行

2016年6月5日 第2刷発行

 

米原万里さんの妹で、井上ひさしさんの妻である井上ユリさんによる、米原万里さんのエピソード集です。

ご家族というだけあって、ご両親の話とかも大変詳しいです。

 

卵が大好き

汲み取り式のお便所に三度落っこちた万里さん

 

米原家の大食い伝説

プラハの黒パン

アメリカに亡命したロシア人2人が、故郷の食べ物へのノスタルジーを書いた『亡命ロシア料理』より

“アメリカのパンほどまずいものはない。ロシアとアメリカという2つの超大国の間で一番大きく違っているのが、このパンという食品の扱いである。ロシアでパンは愛されていた。「パンは命と同じくらい大切」とは、ソ連共産党の政治局員たちの、アメリカの穀物を輸入しながらの賢明な発言。[…]

アメリカ人が作る、あの綿のようにふわふわした代物。一体どうしたら、あんなものができるのだろうか。それはアメリカ人がパンを憎んでいるから、としか説明がつかない。本人たちはあれをパンと呼ぶが、まともな人間にはとてもそうとは思えない。”

 

クネードリキ

ロシアのスープというと、日本人はボルシチを思い浮かべるが、これは、元はウクライナ料理だ。ロシア人にとって最も大切なスープは、シチーというキャベツの漬物で作るものだ。

 

ソビエト学校のキャンプ

赤いエリートの避暑地

大人になって料理を勉強するようになってから、ヨーロッパの高級レストランやホテルを随分見て回った。ホテルに泊まらなくても、ロビーやティールームには入れる。なるべく良いもの、良いサービスを知るようにした。

しかし、子供の時、平等であるはずの社会主義で体験したほどの贅沢は、市民社会の歴史が長い西ヨーロッパには存在しなかった。しかもその贅沢は一般市民の目も届かないところにあった。やはりソ連は潰れるべくして潰れたのだと思う。

高い理想を掲げて、皇帝や領主の圧政から人々を解放したはずだったが、新しい権力者の振る舞い方のお手本が、自分たちが倒したはずの君主たちだったということか。

 

父の料理、母の料理

大好きな写真

米原万里が詩人だったころ

職業は「踊り子」

ゴルバチョフが登場し、ソ連でペレストロイカが始まってから、それまで暇を持て余していたり、干上がったりしていた人たちの多かったロシア語通訳業界はにわかに活気づいた。この時からソ連崩壊を挟んだ10年の間、万里は目まぐるしい忙しさで、荒稼ぎした。いつ倒れてもおかしくないほどで、例えば成田に帰国して、家に戻らないまま、数時間後またロシアに飛び立つ、なんてこともあった。そうして得た資金で、鎌倉に大きな家を建てることができた。

通称「ペレストロイカ御殿」だ。

 

きれいな一重まぶた

飲まない万里のまっ茶な真実

1度目のお茶会に同行した通訳者に再びお声がかかったのだが、万里さん以外全員が断った。

普段はズボラでガサツこの上ない人種ということが分かり、逆に万里さんは茶道と華道に対する根強い劣等感から解放された。

 

毛深い家族

わたしは料理の道へ

大阪に行って、真っ先に嬉しいと感じたのは、街で見る女の子たちの開けっぴろげな振る舞いだった。プラハから戻って、万里も私も、女の子はこうふるまうべしという、世間の了解事項のようなものに違和感を覚えていた。

 

ユリさんが手打ち麺の店を出そうとした時、店舗用の物件について相談に応じた人は、万里さんの『魔女の1ダース』に出てくる、オペラ好きになった不動産屋のNさんだった。しかしその人が逮捕されたことにより開店計画は頓挫した。

 

いつも本を読んでいた

プラハのソビエト学校では、とにかくロシアの誇る詩人、文豪の文章をたくさん暗唱させるのだ。

日本の学校のように読書感想文を書かされることはない。その代わりに何が書かれているのか、内容の大筋を話す。

日本の学校も、あの読書感想文というのをやめればいい。子供が本をどう感じたかを問うだけで、本への理解が深まるとも、本が好きになるとも思えない。それに、人の心を覗き込むことで、読書嫌いをむしろ増やしていることに気がついてほしい。

(小学校の時、教科書の詩はやらずに、高村光太郎の『智恵子抄』を暗唱させた先生がいたことを思い出しました。また自分は読書感想文が苦手だったことも思い出しました)

 

1日30冊ぐらいのペースで本を読んでいた、井上ひさし曰く、

“本で何かを調べる時には、まず目次を読んで、その本で著者が言いたいことを探ります。日本の学者は、大抵結論を最後に持ってきますから、まず最後の方を見るのです。そこに思ったほどのことが書かれていなければ、その本は前半もそれほどではないだろうと勝手に考えます。逆に、一部を読んで面白かったら全体を読んでいきます。”

 

「旅行者の朝食」

この缶詰は、ソ連時代にかなり大量に生産されていた旅行者用の携帯食なのだが、あまりのまずさゆえ、ロシア人は得意の小咄をたくさん作った。

 

 



地球の細道 安西水丸 著

安西水丸 著 地球の細道 表紙

地球の細道

安西水丸 著

エーディーエー・エディタ・トーキョー 制作・発行

2014年8月25日 発行

 

以前、安西さんの文・イラストによる日本の城下町巡り『ちいさな城下町』を読みましたが、こちらの『地球の細道』は、日本国内だけではなく、ヨーロッパやアメリカなど世界各地の訪問記を、92編載せています。

元々は、GA JAPANという雑誌に1999年1月から2014年3月にかけて連載されたもののようです。

安西さんは2014年3月に亡くなられました。

 

3 永遠のローマはベルニーニが創った

ぼくのローマでの旅は、このベルニーニにはじまり、ベルニーニに終わったといってよかった。

 

6 スノードーム。そして暗黒街の帝王と天才ライト

スノードームが生まれたのは1889年のパリ万博だという。新しいもの好きなパリの職人たちが、パリ万博のシンボル、エッフェル塔を掌サイズのガラスのドームに閉じ込めたのがはじまりらしい。

(昔、職場の英語サークルでプレゼント交換会を行った時、自分はスノードームを買ったことを思い出しました。自分が何をもらったかは忘れました(笑))

 

7 来日したフランス人技師 F・レオンス・ウェルニーは28歳だった

ウェルニー(ヴェルニー)は明治政府の要請で灯台建設に携わることになる。

ぼくが野島崎灯台をおもう時、胸の奥に常に設計者であるフランス人技師、フランソワ・レオンス・ウェルニーの笑顔がある。

 

9 チェコ人の建築家は20世紀を代表する歴史の承認を設計した

プラハを歩いていて気づいたのだが、あちこちに広島の原爆ドームに似た屋根が多いことだった。それで帰国していろいろ調べていたところ、原爆ドームを設計した建築家がヤン・レツルというチェコ人であることが解り納得した。

 

21 ポルトガルのふしぎ

シントラ山系のペーナ城は何ともおかしな城だった。

イスラムはあるは、ゴシックはあるは、マヌエリーノ、ルネサンスと様々な様式がごちゃ混ぜになっていて何ともふしぎな城だが、ものは言いようで、幻想的といえばいえなくもない。

 

23 トルコとタウトと達磨寺の洗心亭

建築家のブルーノ・タウトはケーニヒスベルグ(現カリーニングラード)で生まれトルコで亡くなった。

ケーニヒスベルグは、哲学者カントが一生過ごした土地で、タウトは生涯この偉大な哲学者を尊敬していたという。

 

30 侠客と建設の関係

山岡鉄舟と清水の次郎長の出会いは、明治元年、鉄舟が勝海舟の江戸城の無血開城を願う手紙を持って、駿府へ西郷隆盛に会いに行く途中のことで、この任務の途中を次郎長が色々手助けをしたことがきっかけだという。

 

32 左甚五郎の謎、左甚五郎から学ぶもの

クリエイターの人気というものは、上手い下手ではなく、その人物の名前とか、謎めいた部分が造り出す得もしれないムードにあるのではないかというおもいに至るのだ。

 

39 紀州に水利土木の鬼才有り。井沢弥惣兵衛のこと

見沼代用水と荒川をつなぐ時の問題は 水位の違い(3mほどあったらしい)で、弥惣兵衛は、通船堀の途中に2つの関を造り、関内の板を積んだり外したりして水位を調整したという。この方法は「閘門式」といい、中国やヨーロッパでは昔から応用されていたらしいが、日本ではこの見沼通船堀が初めての閘門式運河になった。

 

42 エッフェルは鉄のスペシャリストだった

東京タワーはせいぜい紋取りの梯子だが、エッフェル塔は美女の網タイツのように美しい。

 

43 突然現れて消えた用水工事の天才

「伏せ越しの理」、つまり「逆サイホン」は、水路が障害物である塀や川、道路などに当たるため、その下をくぐらせるパイプのことを言うらしい。一旦パイプの中を下った水は、逃げ場を失って上昇することになる。これは当時の人々にとって実に神秘的なことであって、この方法の発案者が板屋兵四郎なのである。

逆サイホン原理の象徴は、今も兼六園の霞ヶ池にある噴水で、これが日本最古の噴水だという。辰巳用水工事は、当時としては最高の技術だったのだ。

ちなみに水管(はじめは木製だったらしいが、故障が多く石に変えた)は、富山の金屋産の凝灰岩をくり抜いて作ったという。

 

57 「神秘の仔羊」を求めて

ブリュッセルのグラン・プラスは世界的に知られた広場だ。あのヴィクトル・ユーゴはここを「世界で最も美しい広場」と言い、ジャン・コクトー「豊穣なる劇場」と賞賛したという。しかし、間もなく20代が終わろうとしている異邦人、つまりぼくには、「巨大な位牌を並べた重苦しい広場」であった。

 

81 パリからアンリ・ルソー生誕の地ラヴァルへ

マイエンヌ川の対岸は丘になっていて、その斜面にラヴァルの旧市街の家々が積み重なっている。家々には中世の面影がある。

(川沿いを歩いて、橋を渡って、石畳の坂を上って旧市街にも行きましたが、アンリ・ルソーの生誕地とは知らなかったです)

 

85 マルセイユのシェパード事件

1994年の5月にマルセイユを訪問

旧港から船が出るというので乗り込んだ。10分ほどで着くはずの船はイフ城を左手に見て少し離れるように旋回した。

あれこれはイフ城を一周して見せる船かな。失敗したな。

はじめはそんな風に思ったが、船はどんどんイフ城から離れていった。船客を見てみると、あまり観光客らしい人たちはいない。何とも心細い気分になった。

20分ほどして船は全く知らない島の港に入った。ぼくはみんなと一緒に船を降りた。降ろされたと言っていい。

ぼくはぼんやり降りた場所に立っていた。前方に丘があり、丘の上には廃墟のような城が見えた。丘への細い道を上がると遠くにイフ城、そして マルセイユの旧港やノートルダム・ド・ラ・ガルド寺院が眺められた。絶景だった。

そんな時だった。廃墟の陰から1匹の巨大なシェパードが現れぼくの周りをぐるぐると廻り出した。僕は世界的な犬恐怖症である。一瞬 これで人生が終わると感じた。震えることすら忘れて立ちすくんだ。

そんな時、ヒューという口笛が鳴ってシェパードの動きが止まった。二人の若者を従えた紺色の作業服を着た男が現れた。

「ここはフランス海軍の要塞の島なのでビデオ撮影は困る」

このフランス海軍の要塞の島は何というのだろう。島名はいまだにわからない。マルセイユの謎になっている。

(Google マップを見てもよくわからなかったのですが、おそらくイフ島の裏にある、ラトノー島かポメーグ島ではないかと思われます)

 

ヨハネス・ケプラー 天文学の新たなる地平へ

ヨハネス・ケプラー 天文学の新たなる地平へ

オックスフォード 科学の肖像

ヨハネス・ケプラー

天文学の新たなる地平へ

オーウェン・ギンガリッチ 編集代表

ジェームズ・R・ヴォールケル 著

林大 訳

大月書店 発行

2010年9月21日 第1刷発行

 

コペルニクスの後に続く天文学の碩学、ケプラーの一生が分かりやすく述べられています。

 

第一章 彗星

1571年12月27日、ドイツのヴァイル・デア・シュタットでヨハネス・ケプラー誕生。

1577年、歴史上とりわけ壮観な彗星の一つが現れた。

 

1517年にマルティン・ルターがカトリック教会とたもとを分かった後、しばらくの無秩序が支配していた。

 

ケプラーはまず普通のドイツ語学校に通ったが、たちまちラテン語学校に移った。これは、ドイツ語学校と並行して存在する、大学につながる学校制度の一部だった。

その奇妙な結果の一つに、ラテン語では実に優雅な文体で書いたのに、母語で同じようにうまく書くことはついにできなかったということがある。ケプラーは真面目な本や手紙は全て、ドイツ人宛の手紙さえ、ラテン語で書いた。

 

ケプラーに数学と天文学を教えたのはミヒャエル・メストリンだった。

メストリンは、太陽中心の体系が実際に成り立ってると考える数少ない人たちの一人だった。だがそれでも、初心者である学生たちに古い地球中心のプトレマイオスの天文学を教えていた。

 

はるか北のヴェン島でデンマークの貴族ティコ・ブラーエがすでに1577年の彗星について徹底的で精密な観測を行っていた。その結果、これも月より上にあることがわかった。彗星があると考えられていた、月のすぐ下にある、火の領域にあるのではなかった。

 

第二章 宇宙の秘密

1594年4月11日、ヴュルテンベルクからオーストリア南部、シュタイアーマルクの首都、丘の上にある砦の町グラーツに着いた。ヴュルテンベルクが揺るぎなきルター派の国だったのと違って、シュタイアーマルクではカトリックとプロテスタントがぎこちなく共存していた。

 

ケプラーは学校の先生としての職務に加えて地区の数学官にも任命された。こちらの職務は暦を作り、来たる年についての占星術的予測を立てることだった。ケプラーには人生を通じて占星術をめぐって複雑な思いがあった。それが「ばか者の迷信を助長する」ことを嫌っていた。だがその一方で、惑星が一列に並ぶことは人と自然に、微妙だが重要な影響を及ぼすと心から信じていた。

 

ケプラーは、特にこの無名の人物の名前を面白がった。ファーストネームがラストネームと、こだまのようにそっくりだった。その名はガリレオ・ガリレイ。ケプラーは、公にコペルニクスを支持するようガリレオを急ぎ立てた。

 

第三章 新しい天文学

1600年1月11日ケプラーは、ティコ・ブラーエに会うためグラーツを発った。そして神聖ローマ皇帝の本拠地であるプラハに着いた。

1600年2月4日のケプラーとティコの出会いには科学史上並外れて深い意義がある。2人は、この上なく違っていた。ティコは貴族で自信に満ち、居丈高で喧嘩好きだった。ケプラーは平民で誠実で思索にふけることが多く、争いを好まず、もったいぶらなかった。それでいて2人は錠前と鍵のようにお互いにぴったりだった。35年にわたる天体観測の結果という一生の業績を20巻の本にまとめていたティコが観測家だった。そして、憶測という面が強い、薄いものだったが本を出すという業績を上げていたケプラーが若き理論家だった。2人とも目覚ましい才能の持ち主で、各々の技能がもう一方の技能を補っていた。

 

火星の軌道を、その部分に沿って少し潰し、面積あるいは時間を軌道の他の部分に再分配しなければならないということだ。ケプラーの言い方を借りれば、太いソーセージを握って、真ん中のところを潰し、肉を両端に押しやるようなものだった。こうしてケプラーは物理学的な直感で、軌道は完璧な円というよりむしろ卵のような形をしているに違いないという結論に至った。

 

1610年3月15日、飛び上がるような知らせがプラハに届いた。ガリレオが新たな惑星を4つ発見したというのだ。

 

ケプラーの最初のふたつの法則

・惑星は、焦点の一方が太陽にある楕円軌道を描いて進む

・惑星と太陽を結ぶ線分が一定時間に描く図形の面積は一定である

 

第四章 世界の調和

1611年7月3日妻バルバラが死亡

ケプラーが新しい花嫁を見つけるまでの、苦しみに満ちた道のりは、名前の示されていない友人の貴族にあてた手紙に記録されている。色々な候補が番号だけで表され、嫁探しが滑稽にも数学のような感じを帯びた。

 

天体暦には、その年の1月1日の惑星それぞれの位置を示す表が含まれている。天体暦は占星術師と航海士にとって欠かせない参考図書だったので、ケプラーの時代の天文学者は、これで大儲けができた。

 

ケプラーの第三法則

惑星の周期の2乗を距離の3乗で割ると、魔法のように全ての惑星でほぼ同じ値になる。

 

第五章 魔女裁判

1618年5月23日「プラハの窓外投擲事件」で三十年戦争が始まる。

1620年の秋、ケプラーはリンツを離れてヴュルテンベルクに戻る。

 

第六章 夢

本当に新しい惑星運行表はヨーロッパの歴史でケプラーのそれがやっと3つ目だった。

コペルニクスとプトレマイオスの表はだいたい同じくらい正確で、ケプラーの表の正確さはその50倍ぐらいだった。

 

シュトラスブルクで行われたケプラーの娘の婚礼にケプラーが行かなかったわけは、距離と年齢、59歳という年齢に加えて、妻のズザナが妊娠8ヶ月だったからである。

 

ケプラーの最後の本『夢』

別の世界の架空の状況を描写するための、細かい枠組みを作るのに、ケプラーが科学的知識を用いている点で『夢』は、サイエンスフィクションのはしりとして重要だという人もいる。

 

1630年11月15日、ケプラー死亡

 

エピローグ 証明

天文学者たちは、1631年11月7日に水星の太陽面通過を観測しようと望遠鏡を据え付けた。ケプラーの予測はわずかに外れたが、太陽面通過は予測の時刻の6時間以内に起こった。

 

チェコとスロバキア 歴史と現在 4 チェコスロバキアと私

チェコのプラハ城の遠景

4 街角は歴史の舞台 チェコスロバキアと私

1 私の大事な散歩道

プラハの空港に出迎えてくれた車の運転手にちょっと遠慮がちにロシア語で話しかけてみると「ロシア語で話すなんてとんでもない」という英語の返事。

著者はプラハに到着するまでこの国は政治的にもソ連に密着しているし、言語もスラブ語系のチェコ語を話す親類同士だから、ロシア語は当然使われているだろう、という漠然たる先入観を持っていたから、プラハの土を踏んだ途端に自分の認識の甘さを思い知らされた。

 

名目上の本職の仕事が終わって、大急ぎで駆けつけるアルバイト先で、彼らの能力は最大限に発揮される。体制の網にかからない個人的な仕事では、自由競争の原理が作用していたようである。

(『コーリャ 愛のプラハ』で主人公の音楽家が副業に勤しんでいたのを思い出す)

 

郊外からの帰り道、古い街並み保存に対する行き届いた配慮に、私はいつも感心させられた。ハイウェイを自動車で走ってプラハ市に近づくと、遠くに白い団地が浮かび上がってくる。古い町から隔てられた団地は、プラハを走る市電、バス、地下鉄の終点にあたる通勤地域に建てられているので、プラハ城から眺める広大な市街のパノラマは、はるかに白い影を視野にとらえるだけである。

 

一体どこを指してプラハ城と呼ぶのかと改めて自問しても、何か漠然とした返事しか浮かんでこないほど、多様な建物が渾然と並んでいる。新旧宮殿、大聖堂、教会、中庭、どこをとっても城の中心のように思えてくる。実際にプラハ城は「城」という概念から外れた、意表をつく面白さがあって、足を運ぶたびに必ず新しい発見の喜びと満足感を私に与えてくれた。

 

2 住んでみたプラハ

ロシア語を話せるかと尋ねても、まともに返事をするチェコスロバキア人に私は出会ったことがない。いつでも「余計な面倒に巻き込まないで」と言われるのがせいぜいである。

 

1989年末、チェコスロバキアに民主化革命が起こり社会主義体制が崩れるとすぐ、北朝鮮人たちは潮が引くように大挙して帰国した。ベトナム人労働者も、最近ついに引き上げることになったと聞いている。

 

一般的にチェコスロバキアでは、西側諸国に行く一番の近道は、一流の音楽家かスポーツ選手になることだと言われた。

 

3 隣接諸国と国境線

チェコスロバキアは東端にソ連、北にはポーランド、北西には当時の東ドイツ、西側には西ドイツ、そして南にはハンガリー、オーストリアと長く国境線を接していた。

東西に延びた細長い国であるチェコスロバキアの東端ウクライナ・カルパチア地方は、もともとハンガリー領だったが、1918年の建国独立とともにチェコスロバキアに帰属した。ところが第二次世界対戦後、ウクライナ・カルパチア地方は、尻尾のように切り落とされて、ソ連のウクライナ共和国領となった。

 

我が家の西ドイツ製の自動車のイグニッションキーが壊れてエンジンがかからなくなった。プラハには西ドイツ製自動車の部品がないので、緊急に西ドイツまで車を持って行く必要があった。

プラハを出発する前に電線をプラグに直結して、故障車のエンジンがかけられた。そのままずっと、国境検問所でもエンジンを切らずに、国境を越える。

 

当時チェコスロバキア人が自由に旅行できたのは、ポーランド、ハンガリー、東ドイツなどのワルシャワ軍事条約機構加盟国だけであった。加盟国以外でも比較的簡単に許可されたのが、例外的に社会主義国ユーゴスラビアだけである。毎年夏といえば、ユーゴスラビアのアドリア海岸で海水浴というのが、チェコスロバキア人の合言葉かと思うほど、皆よく出かけた。

 

ブラチスラバのわずか3キロ西にはオーストリアとの国境。川の流れの方向である南へ15km走るとハンガリーに入る。ブラチスラバは三国国境の接点、そして東西対立の分岐点に位置していた。

チェコスロバキアが独立する1918年以前、この地点はドナウ君主国とも呼ばれも呼ばれ、オーストリア・ハンガリー帝国領内であり、もちろん国境はなかった。

 

東ベルリンでの公演を終えた日本民族舞踏団が、プラハにも公演に立ち寄ったことがあった。東ドイツマルクで受け取った公演料をプラハ滞在費に当てる予定だったが、東ドイツ・マルクはチェコ通貨とは交換できなかった。

 

ユダヤ人はチェコ人やスロバキア人とよく同化した。当時チェコスロバキアでは民族別に登録をしなければならず、ユダヤ人という民族登録がないため、ユダヤ人はチェコ人、スロバキア人またはドイツ人として記載登録した。実際には彼らは建国独立からまだ一世代しか経っていない、若い祖国に貢献するチェコスロバキア人としての意識が強かったと思われる。

 

ポーランドでチェコスロバキア大使を務めた外務省の高官は、私の夫に苦々しげに語ったそうである。「カトリック教会があんなに強く、農業の集団化が進められていないポーランドは、とても社会主義国とは言えませんよ」と。

 

プラハからドレスデン、そしてベルリンへと向かう道は、ゲーテ、ベートーヴェン、モーツァルトが通った文化ルートでもある。

 

4 プラハの人びと

遥か離れた未知の世界であるがゆえに、かえって日本に対する好奇心と旺盛な知識欲が燃え、チェコスロバキアの日本研究が始まったということである。

その上チェコスロバキア人が元来、言語学のように細かい分析、根気のある積み重ねの学問に向いていることもあって、プラハ大学は伝統的に比較言語学に優れ、日本学科に有用な人材を生み出している。

 

プラハは昔ながらの純粋なドイツ語が残っているので、わざわざ日本から「ドイツ以外で使われているドイツ語」の研究に来る留学生がいたほどである。

 

5 ホルプ先生からの手紙

オランダとチェコスロバキアの歴史は、17世紀に大きな関わりを持っている。チェコから逃れたプロテスタント教徒の落ち着き先の一つが、宗教に寛容なオランダだったからである。

 

6 ついに訪れた春

優秀な言語学者であるホルプ先生でさえ、ロシア語だけは拒絶反応を起こして、どうしても勉強する気になれず、ロシア語の学習時間にはいつも日本語をこっそり勉強していたと言っていた。

 

プラハの変貌  エピローグ

旧市街広場脇で生まれ、生涯のほとんどをプラハで過ごしたカフカに関する情報は、ビロード革命までプラハでは何も提供されていなかったので、カフカに興味を持つ多くのアメリカ人、日本人などは失望させられていた。

 

国に没収された土地、建物を隅から隅まで元の所有者に返還したり、補償するのは想像するだに至難の業だ。

 

〈付〉チェコスロバキアの日本研究 (執筆)ブラスタ・ウインケルへーフェローバ

18世紀の後半にスロバキア出身のペニョスキー伯爵がロシアに対する反乱に加わったので、ロシア皇帝の命令によってカムチャッカ半島に追放されたが 、1771年に カムチャッカから出奔して、船に乗って日本に密入国した。四国の阿波と土佐、九州の薩摩を訪れ、長崎の出島のオランダ商人と文通した。

 

チェコとスロバキア 歴史と現在 2・3 1918年~ビロード革命後

チェコとスロバキア 歴史と現在 裏表紙

2 民族国家チェコスロバキアの誕生 1918〜68年

1 共和国の建国独立

第一次世界大戦でロシアに投降した大勢の兵士をまとめ、チェコスロバキア軍団を組織したのが、建国の父マサリクである。

戦闘最中のヨーロッパを通って軍を南下させることは、どう見ても不可能であったので、はるかシベリアからアメリカを経由するルートで、軍団をヨーロッパ西部戦線に移動させた。

チェコスロバキア軍団はロシア極東の港ウラジオストクにたどり着き、そこで乗船してアメリカへ向かったが、そのうち1万5000人の軍団兵士は日本を経由している。

 

オーストリア・ハンガリー帝国政府の時代 、チェコから分離の動きを見せていたドイツ人居住地帯は第一次世界大戦後、チェコスロバキア領となることが決定され、ウクライナ・カルパチア地方もハンガリーから、チェシンもポーランドから、チェコスロバキアに割譲された。

1918年の第1次世界大戦の終結とともに誕生したチェコスロバキア共和国内のドイツ人民族問題は、その20年先の1938年、チェコスロバキアの上に大きくのしかかってくる難題の萌芽として内蔵された。そしてハンガリー、ポーランドとの領土問題も第二次世界対戦戦後まで尾を引くことになった。

 

マサリク初代大統領やチェコスロバキア軍団に関する記述など、チェコスロバキア建国独立に関わる重要な歴史の内容を、共産党政府が政治目的で書き換えたという事実自体、歴史に記されるべき出来事である。

 

第一次世界大戦後、健全な民主主義の中にも問題を生み出す不幸な目が隠されていた

・1921年には最大多数を占めていた社会民主労働党が左右に分裂し、また連立政府に加わることがなかったとはいえ、共産党が初めて登場してきた

・チェコスロバキア国内の少数民族ドイツ人の態度が政府に協力的かどうかが、政局上の重要な鍵になり始めた

 

2 ナチス・ドイツの影

ミュンヘン協定後、チェコスロバキアは ポーランドへ チェシン、ハンガリーへカルパチア・ウクライナを割譲することになる。

その結果チェコスロバキアは領土の3分の1、全工業力の40%を失うことになった。

 

西側同盟国のいわば「裏切り」に対する深刻な失望は、チェコスロバキアが大戦末期からソ連へ傾き、やがて 社会主義体制の統合圏内に組み込まれていく原因の一つとみなされている。

 

チェコがドイツの保護領となった1939年3月、ドイツの保護国としてチェコから分離独立したスロバキア共和国はソ連、イギリス、フランスを含めた27カ国によって承認されている。

 

ナチス・ドイツ軍による占領時代、チェコ人は強制的にドイツ語を習わされた。ドイツ語を話すとこの恐怖の時代が思い出されるので、ドイツ語がわかっても、なるべく喋りたくない人が多いのはこのためである。

 

3 第二次世界対戦後の苦渋

38年のミュンヘン協定とナチス・ドイツによる占領で失ったズデーデン地方は、解放の翌6月、チェコスロバキアに返還され、38年とは逆にドイツ人がズデーテン地方から追放または移動させられた。カルパチア・ウクライナはソ連へ割譲、ポーランドとはチェシン領土分割について合意がなされ、チェシン市は両国に分割された。

第二次世界大戦によってチェコスロバキアは敗戦国ではなかったにも関わらず、領土の約9%、 人口約20%を失っている。スロバキアの東端カルパチア地方がソ連領となったため、ルーマニアの代わりに新しくソ連・ウクライナと国境を接することとなった。

 

戦わずにドイツに占領されたので、チェコスロバキアは他の西欧諸国に比べて戦争による被害が少なく、比較的早く経済復興へと向かうことができた。

 

3 自由ゆえの試練 1968年〜ビロード革命後

1 「プラハの春」自由化運動

1977年に結成され、人権擁護に関する最終文書の条項遵守を訴え続けたプラハの「憲章77」のグループは、まさに西側のCSCE(全欧安保協力会議)創設の思惑に呼応した文化人層の反体制運動である。それは80年代後半の活発な運動を経て、最終的には旧体制を打倒するビロード革命の原動力へとつながる重要な役割を演じた。

劇作家バーツラフ・ハベルはその発起人であり、スポークスマンでもある。

第二の反体制派として、多数の亡命者のグループがあげられる。

第三の反体制運動の戦士となったのは、宗教人口の77%を占めるカトリック教会である。

 

2 ビロード革命

15世紀の戦闘的なフス戦争以後、チェコスロバキア人は伝統的に流血による問題解決を嫌い、平和的な忍耐強い抵抗手段を取ってきた。最も穏やかに、かつ迅速に共産党政権を倒した優雅な革命を、フランスの新聞は「ベルベット革命」と名付け、一方日本では「ビロード革命」と呼ばれることとなった。

 

3 陶酔の後の課題

92年の選挙では民営化、市場経済への移行などの急進的経済改革を支持したチェコと違って、スロバキアでは経済改革の減速、そしてスロバキアの強い主権を主張しているのが支持を受けている。

 

一番の難関はなんといっても大規模国営企業の民営化問題である。

 

何よりもスロバキアが長い間ハンガリー支配を受けていたことは無視できない。9世紀から約100年間、チェコとスロバキアは大モラビア帝国下で統一されていた共通の歴史を持っているが、大モラビア帝国が滅亡した10世紀以後、1000年もの間スロバキアはハンガリーの支配下に置かれ、1918年のチェコスロバキア建国までチェコとは全く異なった歴史をたどった。

 

チェコがナチス・ドイツに占領された1939年から45年までの6年間、ティソに率いられたスロバキア民族主義者がナチス・ドイツと結びついて、ヒトラーの傀儡ではあったものの、スロバキアは独立した共和国であった。 しかし第二次世界大戦後の1945年、チェコとスロバキアはナチス・ドイツから解放されて社会主義共和国として再び合体した。

 

1989年11月からスロバキアにはチェコと違った変化

・全体主義の拘束から逃れて、改めて長い間埋没していた民族主義的な表現の自由が掘り起こされた

・チェコスロバキアで始動した自由主義経済を目指す急進的改革は、チェコとの経済格差という歴史的背景に起因する問題をもさらけ出すことになった