
4 街角は歴史の舞台 チェコスロバキアと私
1 私の大事な散歩道
プラハの空港に出迎えてくれた車の運転手にちょっと遠慮がちにロシア語で話しかけてみると「ロシア語で話すなんてとんでもない」という英語の返事。
著者はプラハに到着するまでこの国は政治的にもソ連に密着しているし、言語もスラブ語系のチェコ語を話す親類同士だから、ロシア語は当然使われているだろう、という漠然たる先入観を持っていたから、プラハの土を踏んだ途端に自分の認識の甘さを思い知らされた。
名目上の本職の仕事が終わって、大急ぎで駆けつけるアルバイト先で、彼らの能力は最大限に発揮される。体制の網にかからない個人的な仕事では、自由競争の原理が作用していたようである。
(『コーリャ 愛のプラハ』で主人公の音楽家が副業に勤しんでいたのを思い出す)
郊外からの帰り道、古い街並み保存に対する行き届いた配慮に、私はいつも感心させられた。ハイウェイを自動車で走ってプラハ市に近づくと、遠くに白い団地が浮かび上がってくる。古い町から隔てられた団地は、プラハを走る市電、バス、地下鉄の終点にあたる通勤地域に建てられているので、プラハ城から眺める広大な市街のパノラマは、はるかに白い影を視野にとらえるだけである。
一体どこを指してプラハ城と呼ぶのかと改めて自問しても、何か漠然とした返事しか浮かんでこないほど、多様な建物が渾然と並んでいる。新旧宮殿、大聖堂、教会、中庭、どこをとっても城の中心のように思えてくる。実際にプラハ城は「城」という概念から外れた、意表をつく面白さがあって、足を運ぶたびに必ず新しい発見の喜びと満足感を私に与えてくれた。
2 住んでみたプラハ
ロシア語を話せるかと尋ねても、まともに返事をするチェコスロバキア人に私は出会ったことがない。いつでも「余計な面倒に巻き込まないで」と言われるのがせいぜいである。
1989年末、チェコスロバキアに民主化革命が起こり社会主義体制が崩れるとすぐ、北朝鮮人たちは潮が引くように大挙して帰国した。ベトナム人労働者も、最近ついに引き上げることになったと聞いている。
一般的にチェコスロバキアでは、西側諸国に行く一番の近道は、一流の音楽家かスポーツ選手になることだと言われた。
3 隣接諸国と国境線
チェコスロバキアは東端にソ連、北にはポーランド、北西には当時の東ドイツ、西側には西ドイツ、そして南にはハンガリー、オーストリアと長く国境線を接していた。
東西に延びた細長い国であるチェコスロバキアの東端ウクライナ・カルパチア地方は、もともとハンガリー領だったが、1918年の建国独立とともにチェコスロバキアに帰属した。ところが第二次世界対戦後、ウクライナ・カルパチア地方は、尻尾のように切り落とされて、ソ連のウクライナ共和国領となった。
我が家の西ドイツ製の自動車のイグニッションキーが壊れてエンジンがかからなくなった。プラハには西ドイツ製自動車の部品がないので、緊急に西ドイツまで車を持って行く必要があった。
プラハを出発する前に電線をプラグに直結して、故障車のエンジンがかけられた。そのままずっと、国境検問所でもエンジンを切らずに、国境を越える。
当時チェコスロバキア人が自由に旅行できたのは、ポーランド、ハンガリー、東ドイツなどのワルシャワ軍事条約機構加盟国だけであった。加盟国以外でも比較的簡単に許可されたのが、例外的に社会主義国ユーゴスラビアだけである。毎年夏といえば、ユーゴスラビアのアドリア海岸で海水浴というのが、チェコスロバキア人の合言葉かと思うほど、皆よく出かけた。
ブラチスラバのわずか3キロ西にはオーストリアとの国境。川の流れの方向である南へ15km走るとハンガリーに入る。ブラチスラバは三国国境の接点、そして東西対立の分岐点に位置していた。
チェコスロバキアが独立する1918年以前、この地点はドナウ君主国とも呼ばれも呼ばれ、オーストリア・ハンガリー帝国領内であり、もちろん国境はなかった。
東ベルリンでの公演を終えた日本民族舞踏団が、プラハにも公演に立ち寄ったことがあった。東ドイツマルクで受け取った公演料をプラハ滞在費に当てる予定だったが、東ドイツ・マルクはチェコ通貨とは交換できなかった。
ユダヤ人はチェコ人やスロバキア人とよく同化した。当時チェコスロバキアでは民族別に登録をしなければならず、ユダヤ人という民族登録がないため、ユダヤ人はチェコ人、スロバキア人またはドイツ人として記載登録した。実際には彼らは建国独立からまだ一世代しか経っていない、若い祖国に貢献するチェコスロバキア人としての意識が強かったと思われる。
ポーランドでチェコスロバキア大使を務めた外務省の高官は、私の夫に苦々しげに語ったそうである。「カトリック教会があんなに強く、農業の集団化が進められていないポーランドは、とても社会主義国とは言えませんよ」と。
プラハからドレスデン、そしてベルリンへと向かう道は、ゲーテ、ベートーヴェン、モーツァルトが通った文化ルートでもある。
4 プラハの人びと
遥か離れた未知の世界であるがゆえに、かえって日本に対する好奇心と旺盛な知識欲が燃え、チェコスロバキアの日本研究が始まったということである。
その上チェコスロバキア人が元来、言語学のように細かい分析、根気のある積み重ねの学問に向いていることもあって、プラハ大学は伝統的に比較言語学に優れ、日本学科に有用な人材を生み出している。
プラハは昔ながらの純粋なドイツ語が残っているので、わざわざ日本から「ドイツ以外で使われているドイツ語」の研究に来る留学生がいたほどである。
5 ホルプ先生からの手紙
オランダとチェコスロバキアの歴史は、17世紀に大きな関わりを持っている。チェコから逃れたプロテスタント教徒の落ち着き先の一つが、宗教に寛容なオランダだったからである。
6 ついに訪れた春
優秀な言語学者であるホルプ先生でさえ、ロシア語だけは拒絶反応を起こして、どうしても勉強する気になれず、ロシア語の学習時間にはいつも日本語をこっそり勉強していたと言っていた。
プラハの変貌 エピローグ
旧市街広場脇で生まれ、生涯のほとんどをプラハで過ごしたカフカに関する情報は、ビロード革命までプラハでは何も提供されていなかったので、カフカに興味を持つ多くのアメリカ人、日本人などは失望させられていた。
国に没収された土地、建物を隅から隅まで元の所有者に返還したり、補償するのは想像するだに至難の業だ。
〈付〉チェコスロバキアの日本研究 (執筆)ブラスタ・ウインケルへーフェローバ
18世紀の後半にスロバキア出身のペニョスキー伯爵がロシアに対する反乱に加わったので、ロシア皇帝の命令によってカムチャッカ半島に追放されたが 、1771年に カムチャッカから出奔して、船に乗って日本に密入国した。四国の阿波と土佐、九州の薩摩を訪れ、長崎の出島のオランダ商人と文通した。