サンジェルマンアンレーから見たラ・デファンスの夕焼け

f:id:jetmk43:20201025071006j:plain

夕焼けのラ・デファンス

 

サンジェルマンアンレーを離れる前、再びラ・デファンスを眺めていました。
この間にはセーヌがU型に流れています。
セーヌに育まれた豊かな緑の上に、パリらしからぬ未来都市が浮かび上がっていました。
緑も高層ビルも、平等に夕陽を浴びています。
パリの新市街は、静かに燃えていました。
RERに乗り、たそがれの旧市街に戻ります。
 

十五の夏(下) 佐藤優 著

f:id:jetmk43:20201024065155j:plain

十五の夏(下) 表紙
十五の夏 下
佐藤優 著
幻冬舎 発行
2018年3月30日 第一刷発行

上の方は東欧中心だったのに対し、下の方はソ連のモスクワ、サマルカンド、ブハラ、タシケントハバロフスク、ナホトカを訪問しています。
東欧と違い、地元の住民との接触は無く、インツーリストの職員や、日本人旅行者との会話が目立ちます。
食事も美味しそうに描かれており、インツーリストの職員の世話も行き届いていて、他のソ連旅行記に見られるような不快さは、わりと少なく描かれています。

第六章 日ソ友の会
ソ連での抑留や北方領土に関する国会答弁

 

第七章 モスクワ放送局
モスクワ放送局の日本課長のレービンさんとの出会い。インタビュー。

空港で出会ったドイツ人
東欧とソ連は全然違う。見た目は大きく違わないが、ロシア人は中東の人たちに近い感じがする。

第八章 中央アジア
学生運動に幻滅し、高校の教師になった人
政治には固有の悪がある。個人を利用するという発想。学生運動ではセクトの影響が強まって、その都合に付き合わされることになる。p364

第九章 バイカル号
元北大生にそそのかされて、関税をごまかしてしまう筆者。
バレてしまい反則金を払う羽目になる。

第十章 その後
著者自身や、旅で出会った人たちのその後について

再考 柳田国男と民俗学

f:id:jetmk43:20201021211945j:plain

再考 柳田国男民俗学 表紙

再考 柳田国男民俗学

播磨学研究所 編

神戸新聞総合出版センター 発行

1994年12月10日 第1刷発行

 

この本は1992年8月から11月にかけて開催された播磨学講座「柳田国男没三十周年をしのんで・三十年の光彩」をもとに構成したものです。

 

もともと峠は旅人の行く先を明示するようにお互いに呼び名が違っていたということも大いに考えられる。

モスクワのキエフ駅、レニングラード駅、パリのリヨン駅のように。p17-18

 

《海岸の的方(的形?)あたりを朝立ちすれば、十時ごろまでには鮮魚が届く所であるから、辻川の思い出には必ず魚売りたちが伴って想起される・・・》

この「故郷七十年」の回想風景は、辻川の象徴ともいうべき十字路が、四方からの情報が集まってくる受信基地であったことの象徴的記述でもある。p72-73

 

日光寺山はクニョハン(柳田国男)が、村人について海を見に登り、初めて世間の広さを実感したところ。

家島群島の島影や帆船のいる風景を「夢の塊り」のような感じだったと、「海女部史のエチュウド」という文章に書いている。p79

 

柳田さんが農商務省に入ったのは明治33年(1900)7月だった。

その直前の3月に「産業組合法」という法律が議会を通っていて、それを施行するために役人として採用された。

産業組合とは、今の農協(JA)のルーツにあたるもの。p91

 

柳田さんのすぐれた独自の農政理論。

その考え方の基本にはドイツの経済学者フリードリッヒ・リストの国民経済論の考え方がある。

「農商工鼎立併進論」一国の経済が発展していこうとするためには、農業、商業、工業の三つの産業が鼎の足のようにバランスをとっていくことが重要、という考え方。p92

 

柳田さんの商人資本に対する批判。

もともと金貸しや高利貸を「悪」とするような考え方。

ヨーロッパの宗教改革をリードしたカルヴィンが金貸しや商人でも勤勉であれば神の祝福を受けることが出来ると説く。

一種の「悪人正機説」。日本で親鸞が説いたのと軌を一にするところがある。p102

 

国木田独歩の「武蔵野」

ツルゲーネフの「あひびき」から「散歩」というものを知り、「武蔵野」という文学作品に反映させる。

柳田は武蔵野から水と道路の問題に関心を持つ。

 

大正十年代という時期、また戦後の十年間、沖縄が非常に阻害されていた二つの時期に、沖縄を自分の手で自分のもとに引き寄せる、そのことを学問の形でやったのが柳田だった。

時代の先端のなかに入っているというか、時代の最先端の問題とともにあるのが民俗学。p248

 

地名というのは最も堅固で古い固有名詞。

地名は日本人の共同感情の最小単位。

地名の研究の先鞭をつけたのは、ほかならぬ柳田国男

 

梅棹忠夫の指摘

日本の民俗学にはどのようなポテンシャリティがあるか、日本における思想の発展に日本民俗学はどんな風に役立つことが出来るか。

・日本文化のもつさまざまな特質を正当に理解するための科学的な拠り所を提供する。

・日本民俗学は、思想が、日本の国土の上で空転することを避けるための、有効な接地点を提供する。

・日本民俗学は、まったく新しい思想が生まれる基盤になる可能性がある

 

 

 

 

サンジェルマンアンレー城から見た風景

f:id:jetmk43:20201018082658j:plain

サンジェルマンアンレーのシャトーから見た風景
サンジェルマンアンレーのシャトー(城)に入ります。
この中は現代は国立考古学博物館になっています。
ここに行った時はまだ塩野七生先生のローマ人の物語や、カエサルガリア戦記を読んでいませんでした。
読了した今ならこの博物館も、もっと楽しめると思います。

 

上の階のテラスのようなところから写真を撮ります。
フランス国旗がなぜか5本も景気よく飾られていました。
国立の建物だから当然なのかもしれませんが、何となく威勢よく感じます。
風景は城の前らしく庭園風です。
左側はグーグルマップで調べると、Le Grand Parterre大花壇とでも訳すのでしょうか、という場所(通り?)になっていました。
この時は花はないようですが、グーグルの画像では、美しい花が写っていました。
右側には整えられた木々が並んでいます。
現在ではこの辺りはプレクルー遊戯場という子供の遊び場となっており、ちょっとした遊具も設置されていました。
看板の写真を見ると(わざわざこのような写真まで撮ってくれている人がいました)、イブリーヌ県による財政的パートナーシップにより、サンジェルマンアンレー市が再整備し、2018年9月16日に使用されることになった、とのことでした。
歴史的建造物・博物館としてだけでなく、市民の憩いの場として、ますます親しまれている場所になっているようですね。

日本遺産と播磨

f:id:jetmk43:20201016204455j:plain

「日本遺産と播磨」表紙

日本遺産と播磨
播磨学研究所 編
神戸新聞総合出版センター 発行
2020年9月10日 初版第1刷発行

この本は、播磨の日本遺産を総合的に概観する初めての書物、とのことです。
生野鉱山を発する「銀の馬車道」は播磨の中央部を縦断して飾磨津に至ります。
その飾磨津は高砂室津、赤穂(坂越)とつながる「北前船」の重要ルートを構成し、赤穂では「日本第一の塩」を生産してきました。
また、全国有数の古刹、清水寺一乗寺円教寺は「巡礼道」の中核を形成しています。
播磨では、日本遺産ゾーンが縦横に走り、交差して、特異な文化地帯を作り上げています。p320

 

銀の馬車道を設計したのは、フランス人技師レオン・シスレー
シスレー生野銀山再開発のために主任技師として明治政府に雇用されていたジャン=フランソワ・コワニェの義弟で、コワニェの要請によりお雇いフランス人技師となった。p62

コワニェファミリーは理系が多かったが、シスレーファミリーは画家のアルフレッド・シスレーやヤン・フランス・ファン・ダールや、絹織物、園芸関連など、芸術系が多く、対照的な家系だった。p75

コワニェらお雇いフランス人を通してフランスから得たものが、高島北海を通じて日本からの贈り物としてフランス芸術におけるジャポニスムアール・ヌーヴォー開花に影響を与えた。
銀の馬車道はフランスの美術にとって大きなカギを握るものだったのでは。p83

 

近代的な道路舗装を論ずる上で欠かせない工学者
フランス人技師トレサゲ(1716~96)
イギリス人技師テルフォード(1757~1834)
スコットランドのマックアダム(1756~1835)
マックアダムの考案したマカダム式が一番単純かつコスト的にも廉価で、のちに世界的に普及していく。p127
そして播磨の銀の馬車道にも使われる。
その後、石油燃料の副産物である、タールを使ったアスファルト舗装が普及し始める。当初はアスファルト舗装と呼ばれずにタールマカダムと呼ばれていた。
 
江戸前期の高砂には大型の廻船がたくさんあり、山形の酒田など遠隔地にも物を運んでいた。
運んでいたのは、主に「あらい」といわれる塩。荒井の塩は良質で赤穂よりも古く、周辺の的形や大塩、北脇、西浜それに高砂の塩も「あらい」という一種のブランドとして江戸に運ばれた。p185
 
山陽電鉄が神戸から姫路に延伸されたとき、運賃は他の鉄道会社の運賃よりも低価に設定されていた。
それは、大阪からの瀬戸内の回漕、旅船など船舶の往来が昔から活発であり、鉄道を利用するうえで、最大のライバルは瀬戸内海の海上交通だった。p211
 
羽柴秀吉が播磨を所有していた天正9年(1581)頃、小西行長室津を所領する。
小西はキリシタン大名だったので、室津キリシタン一大布教地となる。
フロイスシーボルト室津の美しい風景を絶賛している。p216-218
 
赤穂は海だったところが陸地化していった。
赤穂を流れる千種川の50キロメートル北の上流jには、佐用や千種という中世から製鉄が盛んだった地域がある。
砂鉄を採る過程で、山を削って土砂を川に流す「かんな流し」と呼ばれる方法。
このために、多量の土砂が下流に流れ、広い干拓地が出来て、塩田となった。p249

十五の夏(上) 佐藤優 著

f:id:jetmk43:20201011201835j:plain

十五の夏(上)佐藤優 著 表紙

十五の夏 上
佐藤 優  著
(株)幻冬舎 発行
2018年3月30日 第1刷発行

1975年、十五歳、高1、当時は離れ島の中学校の英語教師になることを目指していた筆者。個人旅行でプラハワルシャワ、ブダペシュト(ブダペスト)、ブカレストキエフなどを旅した紀行文です。
十五歳で個人旅行で海外、特に難しそうな東欧、ソ連、を訪問する勇気、そして現地の人々と自然にコミュニケーションをとる姿に感服します。

第1章 YSトラベル 
旅行前の様々なややこしい手続き
安いエジプト航空を使いカイロ空港経由でチューリッヒに降り立つ。

第2章 社会主義国
スイスから西ドイツを経て、チェコスロバキアポーランドを通り、ハンガリーに入る。
同じ社会主義国でも違うお国柄。

ワルシャワユースホステルで出会った東ドイツの大学生。
東ドイツのことを常にDDRと呼んでいる。

ワルシャワの食堂で出会った四人の男。
自宅まで行き、ウオトカを飲まされる筆者。
ウオトカにもロシアへの対抗心を見せつける男たち。

プラハではホテルや切符の確保に苦労する。それに対してワルシャワでは地元の人々と触れあう。チェコスロバキアには住みたいとは思わないが、ポーランドだったら引っ越してもいいと思った。

第3章 マルギット島
マルギット島はブダペシュト(ブダペスト)のドナウ川の中洲。
ホテルやレストラン、ギャンプ場やプールもある観光地。

第4章 フィフィ
フィフィはブダペストに住むペンフレンド。
その家に泊まり家族とも交わる。
ハンガリーにおける反ルーマニア感情。

第二次世界大戦ではドイツと共に敗戦国のハンガリー。戦後、ドイツよりひどかったハンガリーのインフレ。

ブダペストの本屋で働く日本語の流暢な店員。大学教育ではなく、夜間学校で高いレベルの日本語を身に付けた。

第二次世界大戦まで、ハンガリー人は生活していくためにドイツ語の知識が不可欠だった。
戦後はロシア語が必修科目になった。
ハンガリー動乱で国民の圧倒的多数がソ連を嫌いになったが、知識人はロシア語やソ連事情について一生懸命に勉強するようになった。
ハンガリーが生き残るために、ソ連との関係が死活的に重要だから。

第5章 寝台列車
ブダペストからルーマニアブカレストに入る。
フィフィの父が言っていたようにルーマニアの税関職員は物を要求してきた。
ブカレストからキエフ行きの列車に、現地の中年男性が助けてくれるが、乗れなくなるハプニング。
駅の事務室の50歳くらいの上品な女性次長が助けてくれる。

ルーマニアソ連に対する感情はよくない。
それはベッサラビア(モルダビア)問題があるから。
もともとモルダビア人という民族はいない。それはルーマニア人。モルダビアとは、スターリンベッサラビアの併合のため人為的に作った民族。p373

ソ連に入国して一人になったのは、ホテルの部屋が初めて。
ソ連人は親切だと思ったが、別の見方をするならば、動きは厳重に監視させている。
もっともこういう不愉快でない、ソフトな監視ならば歓迎だ。p410

ルーマニアは別として、チェコスロバキアポーランドハンガリーはヨーロッパの国だった。まだキエフにしか滞在していないが、ソ連は雰囲気がだいぶ異なる。p416

サンジェルマンアンレーから見た「フランスの島」

f:id:jetmk43:20201010081444j:plain

サンジェルマンアンレーのテラスから見たルペックの風景

引き続きサンジェルマンアンレーのテラスからルペックを見下ろします。
このLe Pecq市民の呼び方は、パリ市民ならパリジャンやパリジェンヌと呼ぶのですが、なぜかアルピコワAlpicoisと、市名とはかけ離れた呼び方になっています。
ちなみにサンジェルマンアンレー市民はサンジェルマノワ(ズ)となっていました。
更にこの辺りはイル=ド=フランス地域圏になるのですが、その住民の呼び方はフランシリアンFranciliensとなっていました。
いくらFranceという言葉が入っていても、フランス人と同じくフランセ、フランセーズとは呼べず、独自の呼称を編み出したのでしょうか。

 

f:id:jetmk43:20201010081606j:plain

サンジェルマンアンレーのテラスから見たイルドフランスの風景

ほろほろ歩いていくと、秋のイル=ド=フランスの風景がどんどん広がっていきます。
「フランスの島」という意味のイル=ド=フランス。
画像ではその姿を隠しているけど、イル=ド=フランスのなめらかな大地を、変幻自在にクネクネ流れるセーヌやマルヌ、オワーズ。
内海であるかのようにフランシリアンを幻惑していきます。