コンピエーニュ城のファサードと歴史

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コンピエーニュ城のファサード

 

古の写真で巡るフランスシリーズ、コンピエーニュ編の最後の写真になります。
コンピエーニュ城のファサードを間近から撮ったものになっていました。
ここでコンピエーニュ城の歴史を簡単にまとめておきます。

1370年頃 シャルル5世がここに城館を建てる
ルイ14世は狩りのため75回ほどコンピエーニュに立ち寄る。
1751年以降 ルイ15世の宮殿が置かれる。
マリー=アントワネットと未来のルイ16世の初めての対面の場となる
ルイ15世は、建築家のアンジュ=ジャック・ガブリエルに命じて、それまでの城館を今日の新古典主義の建物に改築させる。
大革命時 城にあった全ての調度品が競売にかけられる。
ナポレオン1世が建築家のルイ=マルティン・ベルトーに改修を命じる。
1810年3月 ナポレオン1世がこの場所に未来の妻で皇妃となるオーストリア皇女マリー=ルイーズ・ドートリッシュを迎え入れる。
第二帝政期(1852-1870) コンピエーニュ城の華やかな時代
ナポレオン3世と皇妃ウージェニーが毎年秋に狩り、小旅行、ゲーム、コンサート、演劇などの大規模な催しを行う。
第二帝政崩壊後、1874年に美術館と生まれ代わる。
1926年、乗り物博物館が建物内に置かれる

(メゾン・デ・ミュゼ・デュ・モンドのHPを参考にしました)

 

民俗学・台湾・国際連盟 柳田國男と新渡戸稲造(後半)

第五章 挫折と訣別
柳田の唐突な国際連盟委任統治委員辞任の理由は?
・言葉の問題。柳田は英仏独語を読むことはできたが、会話は苦手だった。
委任統治委員会が新渡戸や柳田が思い描いたような原住民保護の理想とは程遠い、形式的なものだったことも大きいのではないか
・日本政府の対応の拙劣さへの批判
・柳田と現地外務官僚との不和

このときの柳田の辞任を契機として、柳田と新渡戸は訣別し絶交し、その関係が修復することはなかった。

英仏語が国際連盟を支配していたことに対する、新渡戸と柳田の見解の相違
新渡戸は「民族自決」という国際連盟の掲げた理想を信じてそこに身を賭したが、柳田は西欧によって支配された国際連盟の現実に失望し、すっかり戦意を失ってしまった。

新渡戸によって導かれたことにより、柳田の眼は「世界の中の日本」へと開かれ、文化相対主義へ接近し、柳田の学問は「一国民俗学」へと大きく屈折していく。

第六章 「一国民俗学」の意味
帰国後の大正末から昭和初期
柳田の民俗学において、山人や非差別民や漂泊的宗教者への視点が著しく後退し、かわって、稲作農耕民を中心とした常民の生活が彼の研究の対象として前面に出てくる。

柳田のジュネーブ経験により、
ジュネーブ大学での聴講や、海外の研究者との交流を通して、ヨーロッパの進んだ学問、とりわけエスノロジーの新潮流に触れた
・各国を旅行して大量の研究文献を購入

「同胞の間の伝承を採集調査する」学問と
「どことなく広く多民族の生活を記述する」学問の区別を
ドイツ人の発明としている柳田p146

「日本の民俗学」での柳田の主張
宗主国の研究者が植民地の文化を調査・研究することへの強い批判
文化研究に政治的な力学を持ち込むことこそが、文化相対主義に反するのであって、それぞれの文化に独自の価値を認める立場から容認できない。
特定の文化は、まずその文化の内部の研究者によって研究されなければならない。
だからこそ、柳田は「一国民俗学」に固執した。p150-151

柳田民俗学というフレームを通してあらわれた、民間主導の国民文化形成運動でもあった。p159

第七章 「常民」そして「郷土」
蝸牛考
この研究が単に共時的な方言の広がりだけでなく、方言の歴史的形成という問題から言語の通時的変化の分析へも回路を開いている。 
方言周圏論を強く主張した理由
・方言の地位の向上。方言の方が由緒正しい日本語だったという価値の転倒
・子どもへの着目。女性や子どもによる文化の創造

むすびに
柳田は挫折した官僚だった。政治の世界に生き続けることができず、大臣にも、貴族院議員にもなれなかった。その後、転身した新聞社にも柳田の居場所はなく、経営幹部として残ることはなかった。それは柳田にとっては人生における「敗北」だったかもしれない。
しかし、そのような敗北が民俗学という学問を生んだのである。柳田の仕事が日本社会に与えた影響の大きさを考えるとき、この敗北は同時に鮮やかな勝利だったと言ってよいのではないだろうか。p196

 

民俗学・台湾・国際連盟 柳田國男と新渡戸稲造(前半)

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民俗学・台湾・国際連盟 柳田國男新渡戸稲造 表紙

 

民俗学・台湾・国際連盟
柳田國男新渡戸稲造
佐谷眞木人 著
講談社 発行
2015年1月10日第1刷発行
講談社選書メチエ591

はじめに
今日に続く日本の民俗学日露戦争後の二十世紀初頭に、新渡戸と柳田という二人の農政学者によって創始されたといえるのだが、このとき学問の大きな枠組みを示したのが新渡戸であり、その枠組みにしたがって内容を実際化していったのが柳田だった。p7

柳田民俗学国際連盟委任統治委員の仕事を方向を変えて引き継いだもの、と考えている。台湾や国際連盟民俗学の関係は、文化研究の政治性を媒介とした国際政治から郷土研究への鮮やかな転換なのであり、両者はいわば陽画(ポジ)と陰画(ネガ)の関係にある。p9

第一章 台湾というフィールド

第二章 「土俗学」から「地方学」へ
日本の人類学者による国内の「土俗調査」は、イギリスの社会人類学者タイラー(1832~1917)の影響を受けた人類学(アンソロポロジー)を直輸入したもので、それは、もともとイギリスでは「未開民族」を対象とした学問だった。
日本の人類学者はそれを国内の地方文化研究に応用したのだから、当然そこには中央と地方のあいだにある近代化の格差や、教育の格差の存在を前提とする、差別的な視点が含まれることとなる。p46

新渡戸による、ハイマート・クンデの提唱
ドイツで盛んだったハイマート・クンデ(地方教育、郷土教育)
地方(郷土)を研究することは郷土愛と結びつく。みずからの歴史を知ることによって、自信と誇りを持つための学問。それが、「地方学」p62-63

第三章 柳田、新渡戸と出会う
地方の発展は農業の振興だけでは限界がある。真の地方の豊かさを実現するためには、地方文化の衰退を食い止めるべきだ。それは都市の文化を地方に押しつけるのではなく、地方独自の文化を尊重することから生まれの。柳田が新渡戸の講演から感銘を受けたポイントは、おそらくそこにある。p66

新渡戸の講演によって、台湾と日本を類似的に見るという示唆を受けた柳田は、「郷土会」とはまったく異なる方向へと想像力を働かせてもいた。それは台湾の「生蕃」と同じような先住民「山人」が日本にもいた、あるいは現在もいるのではないか、という想像である。p73

山人の実在が否定されるなかで、「なぜ、日本各地に天狗や神隠しの伝承が残存するのか」という問いは、「山人が実在しないにもかかわらず、なぜそのような存在が幻想されるのか」という問いとなり、日本人の民間信仰のありかたという問題へと鮮やかにシフトしていく。p78
柳田の持つ民間信仰や民間伝承に対する強い興味は、新渡戸にはあまり見られないものだ。それは新渡戸が敬虔なキリスト者だったことも関わっていよう。農政学から植民政策学へと一貫して社会科学の領域で仕事をしてきた。
一方、柳田は文学や歴史、宗教といった人文系諸学問への関心が強かった。日本人の精神生活へと研究を進めていったのは、彼の本来の興味にひかれてのことだ。p79

自身が官僚として大学の外部にいた柳田は、大学という研究システムの内部や、ほとんどが大学研究者のみの学会員で構成される「学会」という閉じたサークルの中で研究がなされることを好まなかった。執筆者の職位やキャリアに関係なく、すぐれた論考は掲載していくというのが柳田の編集方針だった。それは「地方からの情報発信」を可能にした。

第四章 ジュネーブ体験
なぜ、新渡戸は外交経験の全くなかった柳田を国際連盟委任統治委員に推したのか?
貴族院書記官長を辞任に追い込まれた柳田を救うという意図
・柳田と新渡戸の思想的な近さ
・柳田は外交官になりたいという夢があり、それが新渡戸にも伝わっていたのかもしれない。

柳田は渡欧するまでエスペラントに関する知識はほとんどなかったと思われるが、ジュネーブに着くや否や、新渡戸のエスペラント熱に巻き込まれていく。
そして国際連盟におけるエスペラントの地位獲得には、新渡戸以上に積極的になる。
しかしエスペラントにおいてはフランスが不倶戴天の敵で、エスペラント運動は挫折する。
柳田はフランス語の個人レッスンを受けており、若い頃はアナトール・フランスの愛読者でもあった。
柳田が問題にしたのは、国際公用語としてのフランス語の持つ政治性であった。
また外国人がフランス語を話すことによって、その発音のわずかな訛りや言葉遣いの間違いなどから、逆に嘲笑され、差別されるという事態が起きる。そこには、非ヨーロッパ人がヨーロッパ文化に近づけば近づくほど、逆に彼我の格差が可視化するという矛盾が構造化されている。

柳田による報告書「委任統治領における原住民の福祉と発展」(原文は英文)
宗主国の文化を一方的に押しつけるのではなく、原住民に固有の文化を最大限に尊重する態度
しかし国際連盟委任統治政策に目に見える影響力を行使しえなかった。
その理由として
・柳田に十分な語学力や国際政治上の人脈がなかった
・柳田以外に民族学の専門家や非ヨーロッパ人がいなかった
・マイノリティの文化に対する世界的関心が未熟だった

また、この報告書は、台湾や朝鮮などの日本の植民地における同化主義に対する批判でもあった。

そして更には、この報告書は、植民地統治に関する研究成果を新渡戸に対して提出したレポートでもあった。

 

宮本常一著作集 51 私の学んだ人

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宮本常一著作集 51 私の学んだ人

私の学んだ人 宮本常一著作集51
宮本常一 著
田村善次郎 編
未來社 発行
2012年7月30日 第1刷発行

柳田国男渋沢敬三(大河ドラマ渋沢栄一の孫)、折口信夫南方熊楠など知られている人だけでなく、民俗学、そして宮本さんに関わった多くの方々が登場します。
全ての方々の業績などは書ききれないので、せめてお名前だけでもネット空間に漂わせたいと思います。

Ⅰ 私の学んだ人
渋沢敬三先生
実業人であったため学問に専心できなかったけれども、学者を動員し組織し、学者に仕事をさせたことにおいて、すぐれたオルガナイザーであった。
四人の哲人
一 小野武夫
二 柳田国男
三 未解放部落の区長
四 大阪府波有手の老漁夫
「一本傘でどこでも行ける」
俗世の制約が無く、雨露をしのぎ、生きていけるという意味。漁夫にとっては漁業権がなくなり、どこへ行っても自由に魚を捕ることができる状態。
田岡香逸
早川孝太郎
藤永元作先生
鮓本刀良意(すしもととらお)
内田武志と菅江真澄
御薗生翁甫(みそのうおうすけ)先生のこと

Ⅱ 柳田先生
昭和11年春、九州への旅行の途次、宮本さんの郷里の島に立ち寄った柳田先生。
君の島では青い海に黄色なミカンがずーっと筋になって流れていた。実にきれいだったよ、と話された。
当時はミカンの貯蔵法がまずくて、春までおいて値上がりしてから売ろうとする者は、往々にして大量に腐らせることがあり、それを海に捨てる。
多くの旅行者には見過ごされる風景である。
先生の眼にとまったのは、美しさの中にひそむ、いたましさの故にであろう。p125-126
(さすが農政学者ですね)

大正10年から12年にかけてヨーロッパへの旅があり、海の彼方から日本を見る機会をもつ。
その旅によって、それまで公務の余暇手がけてきた学問に全力をあげて取り組むべき意義を感じた。
民俗学は二百人三百人の仲間が趣味的に行うものではなく、民衆全体が、これに取り組むべき価値と意義のあるものであることを痛感した。p148

Ⅲ 先人追憶・追悼
能田太郎氏の思い出
奥様の思い出 沢田四郎作夫人(沢田国枝)追悼
芦田公平先生
太田陸郎氏を悼む
芦田恵之助先生の一面
早川孝太郎氏を悼む
岩田準一氏のこと
南方熊楠
明治24年10月ジャマイカ島で日本人曲馬師川村駒次郎や象芸師の百済与一らに逢った。この曲馬団はチャリネというイタリア人の組織しているもので、日本にも渡来していた。南方翁はこの一行について旅行を続けた。そして曲馬団の芸女たちのために男たちから来たラブレターを読み、また返事を書く役を引きうけたという。p202
山口麻太郎氏
小林存(ながろう)翁のこと
折口信夫先生のこと
宮本さんがもらった折口先生の直筆の色紙のうた
人も 馬も 道ゆきつかれ死ににけり 旅寝かさなるほどの かそけさ
小倉豊文先生
楫西光速さんと山本明さん
山下元一郎さん

綱島正興さんの追憶
鈴木栄太郎先生の思い出
クサイ飯 大間知篤三追悼
沢田四郎作先生の思い出
惜しまれてならぬ馬場勇さん
藤永元作先生のこと
この人の情熱 萱野茂
桜田勝徳さんとの旅
句集に寄せて 天平さん(内田修二)
学友としての和歌森太郎さん
民俗学草創期と山田次三氏の業績
橋浦泰雄さんのこと
宮本馨太郎さんのこと
戸田謙介さん

Ⅳ アチック同人とその作品解題
知里真志保アイヌ民俗研究資料
アイヌの口承文学
・歌謡文学
 叙事詩としてのユーカラ(英雄詞曲)・カムイユーカラ(神謡)・オイナ(聖伝)
 叙情詩としてのヤイカテカラ(恋歌)やイヨハイオチシ(哀傷歌)
・散文文学
 ウエペケレ(昔話)
佐藤三次郎の幌別漁村生活誌
大野笑三と南千島色丹島
男鹿寒風山麓の吉田三郎
武藤鉄城 自然の伝承
高橋文太郎『秋田マタギ資料』
大庭良美『石見日原村聞書』
岩倉市郎と拵(こしらえ)嘉一郎 喜界島調査
朝鮮多島海旅行
桜田さんと漁村および漁民の世界
早川さんの島の旅
農業経営史研究の先達 早川さん

 

ノートルダム フランスの魂(後半)

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2002年当時のノートルダム

 

7 1844年 ヴィオレ=ル=デュク
「薔薇窓の光に照らされ、ここで最期の時を迎えられますように」

ヴィオレ=ル=デュクとラシュスの分析結果
12世紀、13世紀の建造物は16世紀から19世紀初頭に至る間に野蛮に作り替えられた。この三百年の損傷をなんとしても元通りにしようと決意を固める。

中世の時代、尖塔は視覚的な句読点と見なされていた。
新たな尖塔の設計に取りかかったとき、ヴィオレ=ル=デュクはこのことを頭のどこかで意識していた。
この尖塔はパリの記章であり、フランスの結束を象徴した。
尖塔は目的、方向を指し示す指、フランスの脈打つ心臓

ノートルダムがこの世に現れてから850年、建設あるいは修復に携わった建築家はひとりの例外もなく、自身ではなく建物のために力を尽くした。
ヴィオレ=ル=デュクその人も、自らの仕事を首尾よく本来の中世建築に溶けこませた。p141

8 1865年 オースマンがシテ島を「すっきり片づける」
「砂漠のただなかに現れた象のよう」 ピエール=マリー・オーザス

オースマン男爵がパリとシテ島を大幅に改造した。
中世の住居と隣接する狭い路地を一掃して、ノートルダムに威風を添えた。
島の尖端に独り建ち、ノートルダムは何キロもの遠方からもその姿を望めるようになる。

9 1944年 ド・ゴール将軍とパリ解放
「マニフィカト(聖母マリアの賛歌)が高らかに響く。この曲がこれほど熱っぽく歌われたことがかつてあったろうか。しかしながら、堂内ではあいかわらず銃撃が続いている」

ドイツ軍による占領がパリを石に変えた。
ギリシャ神話に、女神をさらおうとしたところ、手を触れると女神が石に変わった話があった。パリに起きたのは、まさにそれ」
アメリカの外交官ジョージ・F・ケナンの日記より。

シャンゼリゼ通りを歩き終えたド・ゴール将軍がノートルダムに立ち寄り、ミサに参列した。
狙撃手が彼めがけて銃弾を浴びせたが、ド・ゴールは胸を張って歩き続けた。

10 2013年 ノートルダムの鐘
「響きに満ちたこの島」

2013年3月23日午後6時、ノートルダムの新たな鐘が1686年より南塔に下がる由緒ある大鐘エマニュエルとともに初めて鳴らされた。

1769年以降、大聖堂の鐘が一度も調子を合わせて鳴っていなかった。
1856年からは鐘のうち四個が出来の悪い代替品に交換され、敏感な耳に毎回苦痛を強いてきた。

2015年1月8日正午、氷雨の降るなか、数千人のパリ市民がノートルダムの前に集い、「シャルリ・エブド」襲撃事件で亡くなった人々を悼む鐘の音を聴いた。
その雑誌は日頃から徹底して宗教に反発し、とくにカトリック信仰には批判的だったのに、寛容なノートルダムは少しもそれを恨む様子はない。

11 2019年 ノートルダムの再建をめぐる争い
「大聖堂を以前にもまして美しく建て直そう」 エマニュエル・マクロン

建築家の守護聖人、聖トマは作者ウジューヌ・ヴィオレ=ル=デュクの面影を宿すと広く知られる。
尖塔の麓に置かれた十六体の巨大な聖人のなかで聖トマただひとり、足元に広がるパリには目を向けない。その代わり、建築家にふさわしい長い物差しを手に、警戒を怠ることなく尖塔を見上げる。

寄付にまつわる論争
奇想天外な大聖堂や尖塔の再建案、奇妙キテレツなデザイン案

ノートルダム火災の数日後、復活祭の日曜日のミサの最中にスリランカの教会で何百人ものキリスト教徒が虐殺されたが、このニュースがノートルダムの火災のように新聞の一面で報じられることはなかった。p205

あらゆる種類の宗教的原理主義の台頭は、近年、世俗主義を信奉するフランスの心情にとって試金石ともなる。
ノートルダムの火災はまた、それとは別の形でフランスの決意のほどを問うこととなった。宗教とはあくまで無縁であろうとする国家がじつは深く歴史に根ざしており、その歴史はキリスト教にほかならないことをこの悲劇は明らかにした。
何も嘆くことでもなければ、祝うことでもない。
単なる事実である。p206

あとがき、より

感激よりも畏敬。
フランス人はおそらくノートルダムの前で、これまでどおり畏怖の念を抱きたいのだろう。なぜならノートルダムはそんじょそこらの労働会館とは訳が違う。
ノートルダムはパリの脈打つ心臓である。
八百五十年以上もフランスの栄光と悲惨、フランスの勝利と挫折は、ノートルダムのアーチ型天井の下に鳴り響いたのだから。

訳者あとがき、より

結びの十一章では、尖塔のデザインに現代的な要素を添えようと目論んだ人々に対する著者の反発が明らかですが、これは幸い2020年7月に決着がつき、専門家の意見を入れてマクロン大統領が尖塔は焼失したものとまったく同じに復元するとの決定を公表しています。著者も胸をなで下ろしたことでしょう。

(画像は2002年のノートルダム大聖堂です)

 

ノートルダム フランスの魂(前半)

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ノートルダム フランスの魂 表紙

ノートルダム フランスの魂
アニエス・ポワリエ 著
木下哲夫 訳
白水社 発行
2021年4月10日 発行

2019年4月15日、火災に遭ったパリのノートルダム大聖堂
その時の緊迫した状況や、その後の再建に向けての混乱、
そして大聖堂建築時に遡り、そこから各時代のノートルダムを舞台にした出来事まで、生き生きと描かれています。

まえがき、より
ノートルダムは人類が建築の分野で成し遂げた最も偉大な成果のひとつであり、文明の顔、国家の魂である。神聖なのに世俗的、ゴシック様式なのに革新的、中世のものなのにロマンティックなノートルダムは、神を信じる者にも信じない者にも、キリスト教の信者にもそうでない者にも神と出会い、難を避ける場をつねに提供してきた。

1 2019年4月15日 火災の夜
「ある夜、わたしは死んだ」 フィリップ・ヴィルヌーヴ

ノートルダムの火災の鎮火のため、聖遺物を破滅から救うため、建物自体の崩壊を防ぐため、消防士や様々な関係者たちの緊迫した一夜

2 1163年 礎石
「いつの日かこの偉大な建造物が完成した暁には、比較を絶するものとなろう」 ロベール・ド・トリニー

12世紀半ば、首都パリはいましも経済、政治、地域、文化、芸術すべての面で驚異的な拡張を始める門口に立っていた。p47
少しずつパリは四通りの使命を我が物とする。
国王の都、商都、司教の都、そして大学都市として。
「学校が続々と現れる狭い小路に新たな精神が誕生した」p51

ノートルダム・ド・パリの建設、そしてより広くはシテ島の色直しの資金を出したのは誰なのだろうか?
下は貧しいパリ市民から、上は国王と側近に至るまで寄付をしたが、大部分はモーリス・ド・シュリー司教の職に伴う莫大な収入が出所だったらしい。p52-53

西側の正面では、多数の住居を根こそぎ取り壊すには、シュリーに買い上げてもらわなければならない。しかし厄介な家主がいて、ある夫婦には取引を完了するには、教区側が譲歩を重ねても、三十年を要した。p60

3 1594年と1638年 ブルボン王朝
「パリはミサを捧げるに値する!」「レ・カケ・ド・ラクーシェ」(諷刺雑誌)

パリに逆らって統治は叶わないと悟り、カトリックに改宗してノートルダムに参拝し、新旧教徒争う三十年にわたる戦争により分断された国家の融和を成し遂げたアンリ四世

アンリの息子、ルイ13世は王冠とフランスの命運をノートルダム聖母マリアに奉献する。

4 1789年 理性、最高存在、そしてワイン
「授任式は宗教的であるべきであったのに、ほぼすべて軍隊式だった」

1789年7月14日のバスティーユ襲撃は、一大事としてフランス人のDNAに、全世界の想像力に刻印された。
ところがその翌日にはノートルダムに集い、勝利のテ・デウムで祝ったことを覚えている人はほとんどいない。

革命、そして恐怖政治の間、オルガニストは聖歌に替えて革命歌と「ラ・マルセイエーズ」を奏す。
革命派にできたのは、聖母の黄金の王冠を取り去り、ファサードの28名の王の首を取っただけ。

恐怖政治の間は最高存在を称える祭典が行われ、ノートルダムの他の部分はワインを保管する倉庫に転用された。p86

5 1804年 ナポレオンの戴冠式
「皇帝万歳!」

ナポレオンがノートルダムを当初の信仰へ復帰させる。
そして戴冠式を執り行うことにより、ノートルダムをフランスの公的、政治的な営みの中心に据える。

ナポレオンの自ら戴冠する行為の前列は、複数のスペイン国王とロシア皇帝がすでに試みていた。
しかし教皇の面前で執り行なわれたことは絶えてない。p95

6 1831年 ヴィクトル・ユゴーの小説はいかにしてノートルダムを救ったか
「これがあれを救うだろう」

ユゴーの仮説
歴史が始まって以来十五世紀まで、建築は人類の書物だった。
印刷の発明はしたがって建築の死を意味する。
ゴシック様式の大聖堂は建築の精華、大聖堂は石でできた最後の、そして最高の一冊にほかならない。p114-115

ユゴーノートルダムの小説で二つのことを成し遂げようと思った。
・一時の流行とは異なるまっとうな中世の姿を描くこと
・フランスの歴史的建造物の置かれた惨状、崩落するにまかせ、やがては不動産開発業者の手であっさり取り壊される現況への意識を高めること

 

コンピエーニュ城庭園の5の目形?並木

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コンピエーニュ城庭園の5の目形?並木

 

コンピエーニュ城庭園の並木を撮っています。
この写真もきれいな遠近法になっています。
この場所は庭園内でQuinconcesと呼ばれています。庭園の左右に同じ様式で配置されているため、複数形になっています。
Quinconceの意味を辞書で調べると、(さいころの)5の目形[の配置]、5点形;5の目形の植え込み、と書かれていました。
ただ、画像を確認すると、単に並行に配植されているだけのような気がします。
5の目形の真ん中が見当たりません。
ここでも謎が深まる、コンピエーニュ城の庭園なのでした。