ゴッホの「ローヌ川の星月夜」に近い風景(アルル、フランス)

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アルル駅前から見たアルルの街並み
アルルの街中を離れ、アルル駅前に戻ります。
その辺りから、アルルを惜しみつつ、撮った写真です。
改めて見ると、5つの塔が見えます。
今までこのブログで触れてきたように、向かって左の2塔は古代ローマ闘技場の塔で、一番右の塔はサン・トロフィーム教会で、その隣はサン・ジュリアン教会のそれとなります。
真ん中の尖塔には、はじめて気付きました。
調べてみると、コルドリエ修道院の鐘楼とのことです。
この修道院フランシスコ会に属しており、ゴシック様式の尖塔とのことです。
別にクリスチャンではないのですが、「ゴシック様式の尖塔を持つフランシスコ会修道院」ということがわかっただけで、なんとなく嬉しくなりました。
 

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ローヌ川の星月夜
この写真を撮った時、頭の中にはゴッホの絵画「ローヌ川の星月夜」をおぼろげに思い出していました。
そういえばこの辺りからの夜景だったのかな、と思っていたのですが、実物と比較して見ると、実際にはもう少し前からで、ローヌ川が右に曲がっているところからの眺めでした。
少し残念な気もしますが、これはこれでアルルの街が入っているので、良しとしておきましょう。

 

アルルの街を惜しみつつ、アヴィニョン経由でパリに戻りました。
プロヴァンス地方のアヴィニョンニーム、アルルの写真を見返すだけでも、さまざまな新しい発見をすることができ、古い写真でも新鮮な気持ちで見返すことができました。
またいつか、訪問できることを願いつつ、このシリーズを終わりにします。
(アートぺディアのHPおよびARLES PatrimoineのHPを参考にしました)

アルルを守るムルグの塔

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ムルグの塔

画像はアルルの街の南東の角っこに位置する「ムルグの塔(Tour des Mourgues)」です。
アルルに残っている城壁と共に、古代から中世におけるアルルの姿を垣間見せてくれています。
この塔は紀元前1世紀末に建てられた、アルルにおける古代ローマの植民地時代での最初の建築物となります。
その時は円形の建物でしたが、おそらく14世紀に、今日見られるような多角型で下部が斜面になっている形になったようです。
ムルグの塔の名前の由来ですが、セザール司教が6世紀初めに設立した修道院の修道女から来ているようです。
その修道院は現在ではすぐ近くに存するサン・ブレーズ教会として残っています。
その頃アルルでは、476年にマルセイユとともに西ゴート族の手に落ちています。
しかしその後すぐにアルルは東ゴート族の支配となりました。
この塔を含む街の城壁は、古代ローマの平和な時代には一部開放的な場所もあったようですが、古代末期から中世にかけての動乱の時代には街を守るためしっかり補強されていたようです。
このような塔を見ていると、街を防衛する人たちの危機感をリアルに感じさせてくれますね。

(アルル市のHP 「ARLES patrimoine」を参考にしました)

ゴッホの絵画「アルルの病院の中庭」の場所「エスパス・ヴァン・ゴッホ」

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アルルのエスパス・ヴァン・ゴッホ

エスパス・ヴァン・ゴッホに到着します。
ここはもとはゴッホが三回入院した「ディウ病院」でした。
1888年12月23日、ゴッホは耳切り事件を起こしてしまいます。
そして翌日24日、ここに入院し、レイ医師の診察を受けます。
それから翌年1889年1月7日に退院します。
同年2月7日に再び発作が起き再入院しますが、短期間で退院します。
しかし耳切り事件のことが地方新聞に載ったため、一部の人が騒ぎ、2月27日、ディウ病院に強制収容されました。
この時には絵の制作が出来なかったこともあり、5月8日、サン・レミのサンポール療養所に移りました。

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アルルの病院の中庭

この絵画は、この場所を描いた「アルルの病院の中庭」です。
写真は一階の高さから撮りましたが、絵画は二階から見て描いたように思われます。
4本の刈り込みは柘植の木だそうです。
絵画と同じように維持管理していただいているのはありがたいことです。

(南フランス古代文明紀行および印象派美術館(小学舘)を参考にしました)

アルルのサン・トロフィーム聖堂のファサード

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アルルにおけるロマネスク建築の傑作、サン・トロフィーム聖堂の前に立ちます。
この聖堂の前身は、キリスト教の殉教者ステパノ(ステファン)に捧げられたものでした。
南フランスの記事を書くためにお世話になっている「南フランス古代文明紀行」では、「7世紀に聖トロフィムス(トロフィーム)がユダヤから聖ステファンの頭蓋骨を携えて帰り、サン・ステファンに献じたのが起源」と書いていましたが、聖トロフィームは3世紀の人なので、この内容は誤りかもしれません。
その後、8世紀のサラセンのアルル侵入による教会破壊などにより荒廃しました。
しかし聖トロフィムスの聖遺物をアリスカンから移すことに伴い、1078年から1152年に改築されました。
正面扉口の装飾は1190年頃に完成したそうです。
緋色の扉の上部に位置する半円型部分にはキリストの「最後の審判」が彫られています。
そして扉の両側には聖トロフィムスを含む聖人たちが彫られています。
ロマネスク建築のイメージからいうと、正面上部のシンプルさの方がロマネスクらしいのかなと、勝手に思ってしまいます。
(週刊ユネスコ世界遺産No.30も参考にしました)

国語と教育 柳田国男 著

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国語と教育
柳田国男 著
河出書房新社 発行
2015年5月30日 初版発行

「教育と国語国策」「母語と人生」「国語教育の古さと新しさ」など、主に柳田国男が国語教育について叙述した文章が収録されています。
ただ最後には、「柳翁閑談」という柳田さんの思い出話的な文章も収録されています。

国語教育の古さと新しさ、より
われわれの学門が、はじめからヨーロッパのラテン語のごとく、ラテン語で読み、ラテン語で書くことをたてまえとしていたら、もっと早くから日本にもダンテとかルーテルとかいう人が現れて、書きことば読みことばをわきへのけて、自分らの話しておる日常の国語を成長させることができたのだが、不幸にして日本の学門は、ことごとく輸入をいったん翻訳して、日本語に訳して利用した。p75-76

国語研究者に望む、より
柳田さんが生まれたところは、ちょうど姫路から生野の銀山に行く街道に添った農村。
その街道は往来がはげしく、二人引きの人力車が日に二、三回は通るようなところだった。
明治8年に医者の家に生まれ、幼い頃の記憶をたどると、この街道を通って新しい文化、新しいことばがどしどし入ってきた。
それで自然、ことばに注意するようになった。p98

柳田さんの一番いやだと思うのはボクということば。
日本語でもどこの国でも一人称の単数というものは、大変使う必要の多いもの。
それが男だけボクという濁音ではじまった二音の、しかもつまずくような形の音でするのはどんなものか。p112

柳翁閑談、より
若いころ、姫路の書写山の自慢話をした柳田さん。
あとで同郷の文学者江見水蔭に、「書写のことを自慢するようではだめだ」とかげ口を言われた。
それからつとめて山路を歩くように心がけてきた。
実際旅の深い味わいは、峠越えの時しみじみ感ずることが多かった。p176
(由緒ある書写山を自慢しても悪くないと思いますが…)

柳田さんが86年の生涯を振り返って、非常に幸福を感じていることは、書物に恵まれていたこと。
子供のころは近隣の三木家に預けられ、そこの書物を読む機会に恵まれ、10歳の時、下総に移ってからも、隣家の小川家の本を自由に読むことができた。
主として、文化、文政以来の雑書が多かった。
官途についてからも、内閣文庫の仕事を兼任させてくれて、ここでもまた読書にふけることが出来た。この文庫の中で、特に興味を抱いたのは、まだ世の中にあまり知られていない随筆雑書の類であった。p205-206

森鴎外さんのところには、中学生の時代からうかがっていた。
鴎外さんは相手が子供であっても、決して軽々しくはあしらわない人だった。
「今何を読んでいるか、こんなものを読むといい」などと、こちらの側にたって親切にものを教えてくれる人だった。
そして、いつ行っても、正面きって話をしてくれる人であった。p212

 

アルルの古代ローマ円形闘技場の回廊

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画像はアルルの古代ローマ円形闘技場の回廊です。
アーチにより、円形闘技場自体の重さ、そして入場者の重さを支えるため、頑丈な造りになっています。
武骨な姿ですが、それなりに計算された上で設計されているようです。
そのおかげで長い歴史を生き抜いてきました。
派手な舞台を支える、まさしく縁の下の力持ちの役割を果たしています。

イザベラ・バード「日本奥地紀行」

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新訳 日本奥地紀行
イザベラ・バード 著
金坂清則 訳
2013年10月10日 初版第1刷発行
平凡社 発行
東洋文庫 840

英国スコットランド出身の女性探検家、イザベラ・バード(1831-1904)による日本訪問記です。
1878年(明治11年)、浅草や日光などの観光地だけでなく、福島から新潟、そして山形や青森を経て、北海道にまで到達しています。
内地では道路の整備もできていないような難所を、粗末な食事と不潔な宿泊地、そして外国人女性として好奇の目で見られるのにもめげず、たくましく旅を続けています。
旅の中では、随所に聖書などからの言葉を思いだしています。
北海道(蝦夷)ではアイヌについてのフィールドワークをかなり深く繰り広げていました。

日光の入町の学校で伊呂波歌を聴いて、その歌詞の訳に注目するバードさん。
歌詞の内容に東洋独特の厭世感が表現されており、幼い子供が学ぶには陰鬱過ぎると感じる。p125-126

日本の陸運会社(内国通運会社)と呼ばれる陸上輸送会社
この会社のおかげで効率よく旅が出来た。p140-141

旅の通訳などのために従者として雇った伊藤鶴吉。
最良の英語を使おうとする熱心さ、またまた雑用もてきぱきとこなす。
その一方伊藤の欠点についても様々書き連ねている。

日本の本州の人にとっての蝦夷は、英国人にとってのティペリアリ(アイルランド南部中央の内陸県)、スコットランド人にとってのバラ島(スコットランド北西部の小島)、ニューヨーク人にとっての「テキサスの片田舎」
つまり荒野をなしほとんど知られない人口希薄なところなのである。p335

アイヌの人たちがまつる義経神社
義経アイヌの人たちに親切だったということが語り継がれてきたというだけの理由で、アイヌの人々の記憶の中に生き長らえてきた。p384-385

義経蝦夷に逃れて何年もの間アイヌの人々と暮らし、12世紀の末に死んだと信じている人も多い。
とりわけアイヌはこのことを固く信じており、義経が自分たちの祖先に、文字や数字とともにさまざまな文明の術を授けたり、正法をもたらしてくれたと言ってはばからない。p414