オランジュのサン・テュートロープの丘からの眺めとオランジュ古代史

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オランジュのサン・テュートロープの丘からの眺め

 

オランジュ凱旋門から中心部に戻り、古代劇場が寄りかかっているようなサン・テュートロープの丘に上ります。
画像はそこからの風景です。
緑豊かなオランジュの街並み。オレンジ系でほぼ統一した屋根が緑黄色の中に映えています。
そして向こうに田園地帯。
更に向こうには山々が連なり、一番奥の山は薄ぼんやりと、なめらかな線を描いています。

オランジュ市のHPに、街の歴史の年表が書かれていたので試訳してみました。まずは古代から。

Antiquité
35-30 avant Jésus-Christ : fondation d’Arausio par les vétérans de la IIème légion "gallique".
La cité se dote au cours des siècles de monuments typiques de la civilisation urbaine romaine.

古代
紀元前35-30年:第2「ガリック」軍団の退役軍人によるアラウシオの創設。
街には何世紀にもわたってローマの都市文明に典型的なモニュメントが置かれました。

Beaucoup sont encore visibles aujourd’hui :
- le Théâtre Antique
- l’Arc-de-Triomphe
- les vestiges des temples de la colline et l’hémicycle
- les vestiges du mur d’enceinte (tours) et de l’aqueduc
- le mur ouest du forum
- les Cadastres gravés sur marbre (visibles au Musée Municipal).

多くは今日でも見ることができます:
- 古代劇場
- 凱旋門
- 丘の神殿と半円形劇場の遺跡
- 城壁(塔)と水道橋の遺跡
- フォーラムの西壁
- 大理石に刻まれた地籍簿(市立博物館で見学可能)

77 après Jésus-Christ : rédaction des cadastres d’Orange sur l’ordre de l’empereur Vespasien.

77年:ウェスパシアヌス皇帝の命令によるオランジュの地籍簿作成。

460 après Jésus-Christ : St Eutrope, patron de la ville et évêque, donne son nom à la colline qui surplombe le Théâtre Antique.

460年:街の守護聖人であり司教である聖ユートロープは、古代劇場を見下ろす丘に彼の名前を付けました。

この丘の由来も載っていました。由緒あるオランジュのパワースポット的な場所なのでしょうね。

 

凱旋門のようで凱旋門でないオランジュの凱旋門

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オランジュ凱旋門

 

オランジュ古代ローマ劇場を出て、別の古代ローマ遺跡である凱旋門を見に行きます。
一応凱旋門と呼ばれていますが、古代ローマ時代には、首都ローマで建てられたものしか正式な凱旋門と認められなかったそうです。
オランジュのこれは厳密には「♪凱旋門のようで凱旋門でない、ベンベン♪それは何かと尋ねれば♪」という感じでしょうか。
で、何かと答えると、現在のオランジュの街の北部に位置している建造物です。
元々はアルルとリヨンを結ぶアグリッパ街道のオランジュへの北の入り口に、紀元前20年頃建造されました。
高さ22m、幅21m、奥行き8mの門で、このような記念の門としては、ローマ領土内で3番目の規模を誇るそうです。
こちらもローマ劇場と共に、ユネスコ世界文化遺産に登録されています。

 

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オランジュ凱旋門の主な浮き彫りのある位置

 

こちらはオランジュ凱旋門を真正面から撮った画像です。
前に人がいてくれてますので、凱旋門の大きさの見当がつけやすいですね。
そんなことを書くと、「俺はタバコの箱ではない!」と叱られそうですが。
ここでは浮き彫りの内容について書いてみます。
一番上の赤の部分は戦闘場面だそうです。
オランジュに入植したローマ兵軍団とガリア人あるいはゲルマン人との戦いだそうです。
その下の水色の部分は軍船のパーツらしきものが彫られています。
ローマの海上での覇権という意味もあるのかもしれませんが、アウグストゥスが海戦で勝利していることから、この凱旋門アウグストゥスを讃えたものだという説も有力です。
その下の黄色の箇所は盾などの武器が表現されているそうです。
なお、この写真を撮ったのは2001年なのですが、2010年に大規模な修復が行われたので、現在ではもっとクリアに浮き彫りを見ることが出来そうです。

(週刊ユネスコ世界遺産 第30号、及び「遺跡で実感!古代ローマ」のHPおよびLe Théâtre Antique et le Musée d’OrangeのHPを参考にしました)

 

京都、パリ この美しくもイケズな街(第4・5章)

第4章 京都とパリの魅力、都市史
パリの不動産は外国人には理解できないくらい複雑。土地と上物である建物と、その建物のフォン・ド・コメルス(商業利用権)が別p152

東京では飯田橋と神楽坂が「東京のパリ」と言われている。
その理由の一説として、真ん中に、川ではないが旧お堀があり、右岸・左岸というイメージがあるから。p175-176
(そういえば、東京で通っていたフランス語学校は飯田橋にありました)

日本の建築は、幕府の統制から離れ「表現の自由」を獲得した。ヨーロッパの都市部では、いまだにあり得ない「自由」を。
ヨーロッパの建築家を大阪の道頓堀に連れて行くと、みんな感動する。
東京の隅田川沿いの金色の変な形のオブジェはフランス人のフィリップ・スタルク。p179
(表現の自由や多様性というものは大切なものだけれども、絶対的なものではない、とつくづく思う。不自由で多様性に欠けるヨーロッパの街並みの方が美しいと思います)

学生運動全盛の時、京都の京大そばの百万遍をパリのカルチェ・ラタンになぞらえていた。
あんなパチンコ屋や何やらあるところの、どこがカルチェ・ラタンなんやと、恥ずかしいなあ、と思う井上さん。p181

東京のメディアで働いている元京大生に、立て看板の支持者は多そう。一種のノスタルジーだろうか。
最近の立て看板は、60年代から70年代のそれより、質が落ちている。ずいぶん、デザインが下手になっている。p182

ハイデルベルグ大学の学園紛争の内ゲバで、ずいぶん校舎が傷んで、近所の住民からクレームが来た。これにどう対処するかという全学集会が開かれて、どこのセクトがどこを修繕するか話し合われた。日本の大学では考えられない。
やはり彼らには、それこそ文化的なDNAとして「街を守ろう。街を大事にしよう」という考えがあったらしい。前衛的であるはずの、学生運動の闘士たちにも。p185

ミラボー橋(Sous le pont Mirabeau)
アポリネールが自分を振って逃げてしまったマリー・ローランサンのことを追想して書いたもの。
しかしアポリネールの書簡集を読んでみると、アポリネールがいかにひどい男だったかよくわかる。SMが大好きで、ローランサンはそれが嫌で、逃げてしまったのかもしれない。p192

京都観光のガイドブックが充実してくるのは、江戸時代の中頃なら。そのころから、京都の経済力は落ちていて、京都の商人は本店機能を大阪に移しはじめる。
パリや日本も、街の力、国の力が衰えたころから、観光に目覚める。 

今パリにある有名ホテル、ほとんど全部イギリス系の名前
「ジョルジュ・サンク」はジョージ5世という意味p196

ヴェルサイユを造ったルイ14世と、パリを大改造したナポレオン3世は、インバウンドの恩人。彼らが造ったもののおかげで、今も世界中から観光客を呼べる。p201

第5章 京都とパリの食事情
パリがコンプレックスを抱いたことのある都市はローマだけ
ナポレオン時代までは、パリをローマのように作り替えるのが夢だった。p231

パリに今も繁栄をもたらしているナポレオン3世に、フランス人はもっと感謝すべき。
それなのに、パリにお墓を持ってくることさえ拒否している。
現在のフランス共和政は、第二帝政を倒して作られたという経緯があるにしても、あまりに薄情。p232

ローマ帝国崩壊から千年は、リヨンがパリよりも文化レベルははるかに高かった。
フランク王国が三つに分裂して、東フランク、西フランク、中部フランクになった。
そのうち中部フランクというのは、地中海からアルプスを越えて、リヨンに行ってディジョンを通ってフランドルへと抜ける。地中海と英仏海峡を結ぶ、中世ヨーロッパの大動脈。
この中部フランクの中心がリヨンで、そこで開かれる大市が中世の文化を支えていたから、食い物もリヨンが中心。p238
 

京都、パリ この美しくもイケズな街(第1~3章)

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京都、パリ この美しくもイケズな街 表紙

 


京都、パリ この美しくもイケズな街
鹿島茂 井上章一 著
プレジデント社 発行
2018年9月28日 第1刷発行

鹿島さんと井上さんによる、京都とパリについての対談集です。

第1章 京都人パリジャンの気質
フランス人の名前の「ドゥ(de)」
「帯剣貴族のフィエフ(封地)」を示すための前置詞
貴族の印だが、19世紀になると、貴族でもないのに文学者たちのなかには、オノレ・ド・バルザックのように勝手にドゥを付ける人も現れる。法服貴族の方は、ドゥがなくても貴族。p23

パリは昔から金融ブルジョワの街だった。徴税請負人などの大金持ちが、外国債とか債券に投資しながら代々生きてきた。p27
(渋沢栄一も、パリで債券を学び儲けていましたね)

パリジャンの自尊心の根拠は代々どこに住んでいるかよりも、田舎に巨大な城があるかどうかということ。
日本には封建遺制が残ったけれども、イギリス、フランスは封建遺制を打破したみたいに我々は習ったが、お城になんとか伯爵がのうのうと暮らしていたりするのを見ると、これこそ封建遺制ではないかと思う。

京都市役所の職員が東京へ出張することを今でも「東下り」と言うように、フィレンツェ人もローマを田舎だと見下している。p31

80年代、古舘伊知郎アナがプロレス中継で前田日明を「黒髪のロベスピエール」と呼ぶ。
それから、当時の日本人の教養のすごさに感心する井上さんp50-51

第2章 京都の花街、パリのキャバレーや娼館 
フランスの「規制主義」の起源
別名は「サン・トギュスタニスム」訳せば「聖アウグスティヌス主義」
彼は「人間は基本的に弱い存在である。誘惑、特に女性の魅力には打ち勝ちがたい。特に美人や肉感的な女性に、男が欲望を感じてしまうのは当然だ」と言っていた。p62

なぜドイツ軍はパリを目指すか?
パリには、ええ女がおるから
ナポレオン戦争の時、普仏戦争の時、ナチスの時‥p74

第3章 京女、パリジェンヌの美人力
SMは、フランスでは「イギリス趣味」と言い、イギリスでは「フランス趣味」と言う。
英仏敵対の歴史の影響で、コンドームや性病などは敵から来たとお互いに言う。
フランスではコンドームをイギリス(人)のマント(capote anglaise)と言い、イギリスでは「フランス(人)の手紙(French letter)」と言う。p119-120
(ちなみに梅毒は「イタリア病」と言っていたような‥)

 

流人道中記(上) 浅田次郎 著

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流人道中記(上) 浅田次郎 著 表紙

 

流人道中記(上)
浅田次郎 著
中央公論新社 発行 
2020年3月10日 初版発行

この小説は2018年7月から2019年10月まで読売新聞で連載されていたものです。
前半部分当時、平日は読売新聞を読める環境にあり、ほぼ毎日楽しみに読んでいました。
浅田さんの小説はこれが初めてです。また、新聞小説を熱心に読むことも殆どなかったように思います。それだけ内容そのものにひかれていたのだと思います。
今回(上)を読むにあたり、ちょうどいい案配で忘れている箇所もありましたので、初めてのようにワクワクしながら読み進めることが出来ました。
幕末、旗本という高い身分にありながら蝦夷流罪となった青山玄蕃が、押送人である19歳の見習与力・石川乙次郎と共に、奥州街道を北へと進んでいきます。
詳しいストーリーについてはネタバレになる恐れがありますので書きませんが、全く異なった境遇の二人が、衝突しながら旅先で出会った人たちと、多様で数奇なドラマを展開していきます。
ひとつ残念だったのは、新聞では挿し絵があったのですが、本ではありませんでした。まあでもこれはしょうがないですね。
あと、もしこの小説が映像化されたら、玄蕃は小林薫さんあたりが似合うかなぁなんて、ドラマや映画には疎い自分ですが、思ってしまいました。
一方乙次郎の方はジャニーズの若い方が演じるのかな、なんて勝手な想像をしてしまいました。

 

オランジュの古代劇場の歴史

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オランジュ古代ローマ劇場壁面左脇と客席

 

オランジュ古代ローマ劇場の舞台脇と客席です。
巨大な壁と丘のため、どうしても影が出来やすく、写真を撮るのに苦労していたようです。
今回は古代劇場の歴史について、Le Théâtre Antique et le Musée d’OrangeのHPよりまとめてみます。

紀元前36年 オランジュ(アラウジオ)の街が建設

紀元1世紀 劇場の建設
オランジュの古代劇場はアウグストゥスの統治時、紀元1世紀に建設されました。地元の黄色と白色の石灰岩を使用しました。ローマ帝国の最も良好に保存された劇場の一つです。
(正確な建造時期はよくわかりません。紀元前から建設されていたのかもしれません)

391年 劇場の衰退
劇場は異教と堕落を象徴する神殿と同様にみなされ、391年に閉鎖されました。その後、街は野蛮人に侵略され、劇場も略奪されました。

中世には、劇場は完全に忘れさられ、もはや見世物には使われませんでした。人々に放置され衰退していきました。

1825年 劇場の復活
ヨーロッパの地において古代に対する関心が復興し、過去の文明の遺産を再発見する気運が高まりました。

プロスペル・メリメはその時歴史的建造物とされるフランス史跡の監督官として、大規模な修復キャンペーンを展開していました。ステージ周りとその下段に建っていた建物を取り除きました。ローマ劇場は人々が歓喜していた時の栄光を取り戻しました。

一部修復された1869年には、劇場は初めて「ローマ祭」を主宰しました。
メウル・ジョセフのパフォーマンスとローマを賞賛するカンタータで一万人の観客を魅了しました。

1902年、その「ローマ祭」は「コレジー」と改名し年行事になりました。演劇、オペラ、バレエ、そしてシンフォニーコンサートがこの注目すべき舞台で行われました。有名人たちがここで活躍しました。
1903年には、かのサラ・ベルナールラシーヌ・フェドルでたいへん印象深い役を演じました。

20世紀には、多くの発掘物の成果により、その建造物の歴史に光が当たり、復元に役立ちました。

1931年、ジュール・フォーミジェによる発掘により、現在見られるが、長年にわたり消えていた円柱が発見されました。

1971年、フランス文化省はアヴィニョンを劇場の中心に、オランジュをオペラ芸術と交響曲コンサートの中心に指定しました。これはカルロ・マリア・ジュリーニとモンスラ・カバレによる新たな「コレジー(夏のオペラ)」の始まりでした。国際的に知られたアーティストとグループの存在により、劇場の世界的な評判は高まりました。

1975年 ロックコンサートOrange75の開催

1981年 ユネスコ世界文化遺産に登録

2002年 カルチャースペイシイズに委任
オランジュ市議会が2002年、カルチャースペイシイズにオランジュ古代劇場とオランジュ博物館の管理、経営、広報を委任します。毎年カルチャースペイシイズは市と共にコンサート、古代ローマ軍団の再演を含む文化イベントを準備します。

2006年 新しい舞台屋根
悪天候から壁を守るための巨大なガラスの張り出しを造るプランが2004年にまとまり、2006年に屋根が完成しました。

2019年 バーチャルリアリティーオランジュの古代劇場に導入
歴史的建造物がデジタル化され、訪問者にヘッドセットを着けて360度のバーチャルツアーを体験させます。強烈な経験を通して、古代ローマの中心に招待します。紀元前1世紀に戻り、アラウジオの街の創設から、劇場の建設を目の当たりにすることができます。

カルチャースペイシイズはローマ文明を紹介するためオランジュ古代劇場で催し物を行います。それによりアラウジオの街の劇場地域、社会、政治、宗教の中心における生活をよみがえらせます。

 

アウグストゥスの立像(オランジュ、古代ローマ劇場)

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オランジュ古代ローマ劇場壁面のアウグストゥス立像

 

オランジュ古代ローマ劇場の背後壁中央に位置する初代ローマ皇帝アウグストゥス(前63~後14)の像です。
高さ3.5mの大理石の立像です。
この人はもともとオクタヴィアヌスと呼ばれていました。
17(18?)歳の時、かのカエサルに後継者に指名されました。
カエサル暗殺後、彼の右腕であったアントニウスと共闘し、カエサルを暗殺した勢力を一掃しました。
その後、そのアントニウスと権力闘争となります。最終的に紀元前31年、アクティウムの海戦でアントニウスの軍に勝利し、カエサルと同じ絶対権力者となります。
前27年に元老院オクタヴィアヌスに「アウグストゥス」の尊称を贈り、彼が亡くなる後14年まで、実質的にアウグストゥスによる帝政となります。
この古代ローマ劇場は、アウグストゥスの治世に建造されたようです。
アウグストゥス自体、大変イケメンな方だったそうですので、劇場の真正面に鎮座する彼の像は、さぞ「映えて」いたのでしょうね。


(塩野七生ローマ人の物語スペシャル・ガイドブック、を参考にしました)