フランス下院選挙の結果

フランス下院選挙の今回と前回の比較

 

2017年のフランス下院選挙結果

 

今回のフランス下院選挙結果

 

上から、フランス下院選挙の今回と前回の比較、前回2017年の結果、そして左右ではなく、左から得票数の多いグループを表した表です。

極端な方向にいっているのが残念なような気がします。

 

オーセールのサン・テティエンヌ寺院とヨンヌ県庁

オーセールのサン・テティエンヌ寺院とヨンヌ県庁

 

オーセールのサン・テティエンヌ寺院を、前回とはちょっと違う場所から撮ります。
その寺院の前に立派な邸宅のような建物がありました。
2001年当時のパンフレットを参照すると、これはヨンヌ県の県庁とのことです。オーセールはヨンヌ県の県都でもあるのです。
現状をグーグルマップで確認してみると、この場所ではなぜかポールダンスの教室が開かれており、県庁は県庁広場沿いの別の建物のようにも見えました。誤りかと思われますが、詳しいことはよくわかりません。
この建物はもともとオーセールの司教館として使われていたものを19世紀に県庁として転用しました。
ちなみに県庁広場は以前、参事会聖堂が建てられていた場所を、大革命時に取り壊され、広場になったようです。
このように、大革命後、参事会の敷地や建物は、国に没収された上、売られたり、取り壊されたりしてしまったようなのです。
まさに、「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」状態だったわけです。
それに比べると、司教館は他の施設に転用されて生き残ったケースは多いようです。
オーセール以外でも、トゥールーズでは同じく県庁、ボルドーでは市役所、ランでは裁判所、ランス、ストラスブール、トロワ、アルビなどでは美術館に転用されているそうです。

(現地のパンフレットおよび「大聖堂」文庫クセジュ、を参考にしました)

 

オーセールのサン・テティエンヌ寺院の歴史

オーセールのサン・テティエンヌ寺院

 

画像はオーセールのサン・テティエンヌ寺院です。
ここではその歴史について振り返り、まとめてみます。

ローマ時代、「アグリッパ街道」にオーセールの町が創設される。
3世紀にキリスト教化される。最初の司教は346年。
5世紀にこの場所に最初の寺院が建てられる。現在の原型は4番目に建てられたもの。
1210年にオーセールの司教座に任命された若い司教ギヨーム・ド・セイニュレイは、11世紀初頭に建てられた古風と見なされたロマネスク様式の大聖堂を目の当たりにする。当世風を愛する彼は、いわゆる「フランス」流で新しい教会を建設することを決める。イル・ド・フランス発祥の、後に「ゴシック」、つまり「野蛮な」ともされる様式。

1215年に建設が始まり、古いロマネスク様式の地下室の上に建てられた内陣は、1230年に完成した。そのエレガントな「三要素からなる」高まり(大きなアーケード、「トリフォリウム」と呼ばれる偽のギャラリー、高窓)とその並外れた「光の壁」は、1230年から1250年の間に設置された印象的な一連のステンドグラスの窓で構成されており、この非常に明るい内陣は13世紀の偉大なゴシック様式の傑作の1つ。ギヨームは彼の財産の大部分をそこに授けた。


ノートル・ダム・デ・ヴェルトゥス礼拝堂は、1550年から1561年の間に大聖堂の南側に建てられる。その名前は、奇跡的な像(ラテン語の「美徳」の意味)に由来している。


しかし、教会参事会が南塔(右側)の建設を再開する準備をしている間、「宗教戦争」の嵐が建物を激しく襲う。1567年、プロテスタントは街を占領し、大聖堂を完全に略奪した。

革命は大聖堂を大きな被害を与えることなく「理性の寺院」に変え、ナポレオンが宗教を回復した1802年に建物はその宗教的召命を取り戻す。しかし、SensとAuxerreの長老の一部で構成された新しい主教区は、Sensを大聖堂の称号とする。それ以来、サン・テティエンヌ寺院は教区教会の地位になる。

革命時の混乱と帝政の数年間はほとんど維持管理されていなかったため、状態が悪く、19世紀にロマネスク様式の地下室(1845-1848)は建築家ヴィオレ・ル・デュクの指導の下、そしてゴシック様式の建物(1863-1874)はピエプルの父と息子により、教会は大規模な修復を受ける。

幸い第二次世界大戦の爆撃を免れた大聖堂は、21世紀初頭、2001年から2008年にかけて、特にその耐水性(骨組みと身廊の屋根の修復)とその西側のファサードの洗浄が行われる。ゴシック彫刻の傑作である正面玄関は、今では元の優雅さを取り戻す。

2015年にサンテティエンヌ大聖堂は、800周年(1215/2015)を迎えた。

フランスの寺院は大概宗教戦争、革命、世界大戦の影響を受けてしまっているのですが、このサン・テティエンヌ寺院は宗教戦争の破壊が一番大きかったようです。戦争による破壊はやはり悲しくてむなしいことです。

(Diocèse de Sens & AuxerreのHPを参考にしました。自分の語学力、知識不足もありますので、内容については、このHPで再確認してください)

 

にゃんこの奇跡?の一枚

うちのにゃんこの奇跡?の一枚

 

うちのにゃんこです。

この一枚、お澄ましの表情で、凄く可愛く撮れました。

お気に入りの一枚です。

「ふにゃん。アタシはいつも可愛いいのにゃ。単にカメラマンの腕が悪いだけなのにゃ」

確かにそうかもしれません‥

 

ゲーテさん こんばんは 池内紀 著

ゲーテさん こんばんは 池内紀 著 表紙

 

ゲーテさん こんばんは
池内紀 著
集英社 発行
2001年9月10日 第1刷発行

ドイツの文豪ゲーテについて、一般的なイメージをくつがえすように、楽しく、面白く書いています。

1765年、16歳のゲーテライプツィヒ大学に入学 
ギリシャ語、ラテン語、フランス語、イタリア語に堪能で英語もできた。地理、歴史、博物学に詳しい。ピアノが弾けて絵が上手。ダンスと乗馬は玄人はだし。一字の乱れもない見事な筆跡 p7
ヨーロッパの18世紀は「啓蒙主義の時代」で、言いかえれば教育ブームの世紀だった。
また父親は資産家で、その人生は財産の管理と、我が子の教育に費やされた。

 

ファウスト」はゲーテ畢生の作といわれている。二十代で書きはじめ、二部仕立てを完成したのは八十二歳のときだった。
厳密にいうと、さらに十年近くさかのぼる。十代の半ばすぎ、食堂の娘をうたった愛の詩のなかに、すでにその原型がある。p16

ゲーテの『若きウェルテルの悩み』
ゲーテ二十五歳、1774年の大ベストセラー
ウェルテル熱が去ってもそれは読み継がれ、名作となり古典になった。
世界中の言葉に訳されたし、今もなお繰り返し訳されている。
(以前この作品をブログ(当時はYahooブログ)で取り上げた時、イタリア在住の方から、息子さんがちょうど地元の高校で読んだ、というコメントを頂いていました)

 

『若きウェルテルの悩み』が大ベストセラーになった理由
・書簡体というスタイル
折しも手紙が新しいメディアとして晴れやかに登場した時代
・不幸な恋の発見
愛の浄化と救済にあたり、不幸な恋が幸福な恋以上に大きな力を持っている。

原理的に不幸な恋は、愛し合う二人にとっても幸せである。双方がひそかに、不幸な恋を、楽しく思い出すことができる。
その永遠の恋人ばかりは、ベッドでいぎたなく眠りこけたり、年と共に下腹がぶざまにせり出したりしないのである。p46

 

ふつう旅行記は、あまり印象が薄れないうちに発表されるものだが、ゲーテの『イタリア紀行』は違っていた。
旅行から三十年以上もたった1817年に刊行をみた。37歳のときの旅を68歳になって世に出した。しかも『イタリア紀行』第二部にあたる第二次ローマ滞在は80歳近くになってようやく増補の形で陽の目を見た。
この点、『ファウスト』とよく似ている。p86

 

『イタリア紀行』はまずイタリア旅行の最中に、手紙として友人や知人に送られた。
手紙はかつては私信のかたわら公開書簡といった役割をもっていた。情報を伝えるミニコミであって、受け取った側も私有せず、早速夜のサロンなどで公開した。
『イタリア紀行』は、このような手紙を元にして出来た。しかし、相手方に行ったはずの手紙が、どうしてゲーテの著作となったのか?
書いた当人が同じ手紙を持っていた、つまりはコピー、控えをとっていたからだ。

ヴェスヴィオ火山の噴火やサー・ウィリアム・ハミルトンの美女エンマ・ハートや山師カリオストロなど、早く現場から通信を送りたかった。

 

ゲーテの生まれた1749年から死の年である1832年までを、ためしに世界史と引き合わせてみると、奇妙なことに気がつく。ゲーテの青年期から壮年期にかけて、二つの大事件があった。一つはアメリカの独立戦争と合衆国の誕生であり、いま一つはフランス革命と共和制の成立である。いずれにしても自由と革新の気運がみなぎっていた。
一方、ドイツはどうだったか?この間、とりたててしるすべきことは何も起きていない。何も変わっていない。相変わらず二十あまりの国にわかれ、旧態依然とした宮廷政治が続いていた。p136
個性と能力に対して、社会はそれを受け入れるシステムを持たない。いかなる活躍の場も与えない。とすれば外界から意識的に目をそむけて、内部にひきこもるしかない。ゲーテはしばしば「内的社会」という言葉を口にした。それはまた時代の合言葉というものだった。p138

 

ゲーテは町づくりに熱心だった。
ゲーテがしげしげとラテン河畔のマンハイムに足を運んだのは、ひそかな恋人のためではなく、そこに都市づくりの手本があったせいではあるまいか。
今もマンハイム旧区には通りに名前がない。A6・5とかM2・4とかといった具合に標示されている。
マンハイムは18世紀に生まれた人工都市である。ゲーテのころは、まだ星型をした外壁をもっていたが、その中を碁盤目に仕切ってブロックにした。p186-187

あとがき
イタリア遊歴の記録である『イタリア紀行』を、私はとびきりすてきな「地球の歩き方」だと考えている。旅に出るとき、いつもリュックの底にしのばせていく。p252
(晩年の池内さんのインタビューの中で、イタリア紀行の翻訳を出したいと言っておられたのを思い出します。実現しなかったのが残念)

 

柳田国男 著 日本人とはなにか

日本人とはなにか 柳田国男 著 表紙

 

日本人とはなにか
柳田国男 著
河出書房新社 発行
2015年7月30日 初版発行

考えない文化

日本の笑い
世界の文化は共通であると言ったり、フランスで良い文学なら日本でも良い文学であると言ったりするのに対して、私は疑点を持って居る。学問でも同じ事であるが、全然日本の過去の文化に研究すべきものが無いなら別であるが、日本の文化は日本人でなければ研究出来ないと思う。p11-12

シルバン・レヴィ 
フランスの有名な仏教学者で、元はユダヤ人であるが、に初めて日本で逢った時に、貴方の書いた物の中で何が一番思い出があるかと言って訊ねて見たら、印度のコート・フールの歴史を書いた物が思い出だと言った。p13

 

処女会の話

離婚をせずともすむように

うだつが上がらぬということ 家の話

日本人とは

家の観念

日本における内と外の観念
日本の地理的な特徴
・大陸からの距離
・川と谷が多い
・米をつくる
このような条件の下に同一の人種として、谷谷に群をなして土地を開き、米作りして、割拠した。したがって、日本人の割拠性というのは、たいへんに根が深い。p120-121

 

戦後、いわゆる農地改革のために悲惨な目にあって裏切られたようなことを言っている地主達は、じつはこのあとに出てきたもので、昔からの旧家で代議士も出さずに手堅くやってきたものも少しはあったかも知れないが、それはごく少ない。p137
村村の旧家でほとんど問題のない家はない。そういう家の主人は、たんに酒色におぼれたというのではなく、みな新しい生活をしたためだ。一番はやったのは馬。
世の中が変わったのは、こうした生活の様式の移り変りに応じて人の考え方が変わったのであって、明治の変わりかたをただ政治変革の一つの現れとだけ見ようとするのは間違いである。p138

 

明治憲法調査の時、シュタインは、「どこの国でも過去に歴史があるから、ある国が非常に良くいったからとて、その通りにはいかない。自分の国の立場と経験とをよく考えてみなければならない」と言った。ほんとうにこれくらい平凡な真理はない。p139

私の仕事
幸田露伴の『雁坂越』
少年がけわしい雁坂峠の絶頂を越え北武蔵へ出る。
眼下に開けた新しい世界を望んで小躍りして悦ぶ。
私はその気分が何とも言えず嬉しかった。
ビョンソンの『アルネ』という小説も、その結構はちょうど『雁坂越』と同じで、フィヨルドに住む少年が生まれて初めて北海が見えるところにたった時の少年の心の動きと情景を良く表し得て居た。p146-147
(国男少年が福崎の山から、初めて播磨灘の海を見た時の話を思い出しました)

 

無知の相続

日本人の来世観について

私の歩んだ道
農商務省の役人生活のかたわら早稲田大学とかその他ほうぼうの大学で農政の講義をした。大学を出てすぐだから二十七、八歳のころで今から思うとずいぶん大胆な話なのだが、それでもドイツの本を読んで勉強して一生懸命に講義をしたものである。p188

柳翁新春清談

次の代の人々と共に
皆さんのお父さんの代、お祖父さんの代には、日本を「東方の英国」などといっていたことが、随分あるのであります。処が、実際は違っていて、島だということは異ならぬけれども、向こうは潮は早いが、大きな河だと思えばいいような処で向かい合い、両方とも平地になって居ります。p209