スタニスラス広場のアンフィトリテの噴水と黄金の柵門(ナンシー)

スタニスラス広場のアンフィトリテの噴水と黄金の柵門



画像はスタニスラス広場の一角を占めるアンフィトリテ(Amphitrite)の噴水と、それを取り巻く黄金色に輝く柵門(grille)です。ポルチコ(柱廊玄関)という表現もありましたが、柵門という日本語の方が厳密には正しいかなという気がします。こちらからは、以前に紹介したペピニエール公園にアクセスすることが出来ます。
アンフィトリテとはギリシャ神話の海の女神で、ポセイドンの妻です。
ちなみにもう一角には、ネプチューンの噴水も有ります。
ネプチューンとは日本のお笑いトリオではなく(笑)、ローマ神話の海神で、ギリシャ神話のポセイドンに相当します。
ギリシャ神話とローマ神話の違いこそあれ、海のカップルということで、整合性を持たしています。ヴェルサイユ宮殿の彫像の影響が有るそうです。
噴水の構造は、アンフィトリテが岩の上に張り出した貝殻に乗せられ、ナイアド(ギリシャ神話のナイアス、泉や川の精)、水流、プッティ(有翼の童子)、海洋動物に囲まれています。そしてロカイユ様式(貝殻の表面のような曲線を持つロココ式装飾)とバロックが混ざり合っています。
これらの噴水はバルテルミー・ギバルにより制作されました。
金箔の柵門はジャン・ラムールによります。
彫像の真上に位置する、フランス王室の白ユリの紋章がひときわ目立つ構造です。

 

スタニスラス広場のナンシー市庁舎(ロレーヌ地方、フランス)

スタニスラス広場のナンシー市庁舎

 

ナンシーのスタニスラス広場に戻ります。
手前のおじさんがスタニスラス像のごとくこちらをにらんでいます(笑)。
像の背景はナンシー市庁舎です。
スタニスラス広場に面してバロック様式の美術館、劇場、ホテルなどが建っていますが、市庁舎がその中で一番大きいそうです。
正面の三角形の破風にはスタニスラスが属するレシチニスキー家の紋章が刻まれています。

 

(週刊ユネスコ世界遺産 第82号を参考にしました)
 

ナンシーの2000年当時の花時計(ペピニエール公園)

ナンシーのペピニエール公園の花時計

 

画像はナンシー市の花時計です。
NANCY 2000との表示で2000年当時のそれだとわかります。
グーグルマップで調べると、ペピニエール公園内に造られたものだということがわかりました。
最近の時計の画像もありましたが、すっかり地味になっており、花時計というよりも「草時計」という感じになっていました(笑)。
ナンシー市のHPにペピニエール公園に関する説明がありましたので転載しておきます。

 

Situé en plein cœur du centre historique, le parc de la Pépinière (souvent appelé la Pep’ par les nancéiens) offre un véritable havre de verdure avec ses 21 hectares d’espaces arborés et sa magnifique roseraie.
歴史的地区の中心部に位置するペピニエール公園 (ナンシー市民はラ・ペップと呼ぶことが多い) は、21ヘクタールの樹木エリアと壮大なバラ園を備えた緑の場です。

Ancienne pépinière royale fondée par Stanislas sur l’emplacement des anciens jardins ducaux et des bastions de la Ville Vieille, il a été transformé en parc public en 1835 tout en conservant son tracé initial.
C’est le paradis des promeneurs, des joggeurs, des poussettes, des enfants, des étudiants, le bol d’oxygène des urbains, une pause verte incontournable !
旧公国庭園と旧市街の要塞の跡地にスタニスラスによって設立された旧王立苗床で、元のレイアウトを維持しながら1835年に公共公園に変わりました。
そこは、散歩人、ランナー、ベビーカーを押す人、子供、学生にとっての楽園であり、都会の住人にとっては新鮮な空気で満たされた、大切な緑の憩いの場です!

 

Le parc offre de nombreux loisirs : un espace animalier, un minigolf, une aire de jeux, un théâtre de marionnettes, plusieurs espaces de restauration/confiseries ainsi que de nombreux terrains de sports (football, basket, pétanque…) et un gymnase.

公園には、小動物園、ミニゴルフ、遊戯場、操り人形劇場、いくつかの飲食/菓子エリア、多くの競技場(サッカー、バスケットボール、ペタンク等)、そして体育館など多くのレジャー施設があります。

 
 

何度見ても楽しい「シェフ!三ツ星レストランの舞台裏へようこそ」

「シェフ!三ツ星レストランの舞台裏へようこそ」ジャン・レノとミカエル・ユーン

 

正月休み、ローカルテレビ局で放映していた「シェフ!三ツ星レストランの舞台裏へようこそ」を見る。
映画をほとんど見ない自分だが、この映画は劇場で見て、更に以前テレビで放送していたものを録画していたにもかかわらず、また見てしまった。
ストーリーはわかりやすいコメディである。
映画を見慣れていない分、そのような話でもシンプルに楽しめるのかもしれない。
一番の見所は、画像の分子料理レストランで、変装しての侵入調査の場面である。
ジャン・レノさんの和装とミカエル・ユーンさんの女装が凄い。
ユーンさんは日本では知られていないが、フランスでは朝の帯番組に出演していて、いつもこのようなアホなこともやっていたから違和感無いが、レノさんがここまで演じるのはヤバい。日本でドラえもんをやってはいたけど(笑)。
自分は思いっきり楽しめたが、その一方、日本人を戯画的に描いているので、気を悪くする日本人もいるのかもしれない。
どうせなら、スモウレスラーのヨコヅナ夫婦とでもしたらよかったと思う。
それなら必ずしも日本人ばかりではないから、日本差別にはならない。相撲差別にはなってしまうかもしれないが(笑)。
またレノさんの体型は相撲取りでも自然である(笑)。
ユーンさんが日本風に踊るかたわら、レノさんがドスコイドスコイやるシーンを勝手に想像するだけで、ますます笑ってしまう。

分子料理をネタの一つにしているように、この映画は新しいもの、スノッブなものに対する諷刺、揶揄という面も強い。それがあたかも「少林サッカー」のような反骨精神にもつながっている。
それが自分が大好きなフランスを舞台に楽しく行われているから、見る度に更に好きな映画になってしまう、のでした。

 

見返り美にゃんこ パート2

左から見返りにゃんこ

もひとつ左から見返りにゃんこ

右から見返りにゃんこ

 

以前にも見返りにゃんこの写真を載せたのですが、また撮ったのでパート2とします。
特に書くべきことはないのですが。
うちのにゃんこ「ごちゃごちゃ書かなくても、アタシの写真だけでみにゃ様満足していただけるのにゃ」
確かにその通り(苦笑)
 

柳田国男「山の人生」冒頭の炭焼き一家心中事件関連年表

遠野物語 山の人生 柳田国男著 表紙

 

明治35年2月 
柳田国男は法制局参事官となり、特赦の事務も取り扱う。
明治37年4月6日 事件発生
明治37年4月9日、10日、12日、5月5日、14日
岐阜日日新聞が事件を伝える。新聞では、事件の動機は「貧苦の末、飢餓に迫って余儀なくのことである」となっており、後に「新四郎さ」に書かれるような、「主家からの嫌疑」については全く書かれていない。
明治39年3月 
事件の当事者である新四郎(仮名)特赦を受ける
明治39年3月13日
『定本柳田国男集』の「柳田国男年譜」のこの日に「美濃郡上の深山で子供を殺した山番の老人の特赦がある」との記述あり
明治39年3月24日
岐阜日日新聞が刑期満了前に仮出獄を許されたことを伝える
大正14年2月 
アサヒグラフ』に「山の人生」の連載をはじめる
昭和9年前後 
「新四郎」が金子信一に事件の打ち明け話をする
昭和15年 「新四郎」死去
昭和33年1月9日~9月下旬
「故郷七十年」の連載。この中で柳田は「山の人生」のこの事件について触れている。
昭和49年
金子貞二が金子信一からこの事件の話を聞き、さらに「新四郎さ」として『奥美濃よもやま話 三』の中に著す。

(主に「柳田国男と事件の記録」より)

 

 

ルイス・フロイス 吉川弘文館

ルイス・フロイス 吉川弘文館 表紙

 

ルイス・フロイス
五野井隆史 著
日本歴史学会 編集
吉川弘文館 発行
2020年(令和2)2月1日 第1版第1刷発行

はしがき
フロイスの名が広く知られるようになったのは、彼が執筆した日本におけるイエズス会の宣教活動の歴史、いわゆる「日本史」が翻訳・紹介されてからである。
「日本史」の第一部は、ゲオルグ・シュールハメル師によってポルトガル語からドイツ語に訳されて1926年に出版された。p5-6

第一 おいたち
一 生年と出自
1532年(天文元)頃、ポルトガル王国の都リスボンに生まれた。

二 王室付き書記・イエズス会入会
1548年、17歳の時に当時務めていた王室付き書記官を辞めてイエズス会に入った。

 

第二 インド渡航・司祭への道
一 インド渡航
1548年3月、イエズス会の第四次インド派遣の宣教師団が二隻のナウ船(大型帆船)でリスボンからインドに出発した。それにフロイスも修道士として乗船した。

二 バサインでの宣教活動
バサインはゴアの北約360キロの地にあり、ポルトガルが確保していた要塞都市の中で第三の重要な都市とされた。p20-21

三 ゴアにおける学業

四 マラッカに逗留

五 司祭叙階

六 上長らのフロイス
バサイン・マラッカ・ゴアにおける14年間は、彼が宣教師として自覚を深め、報告執筆者としての責務と自信を強く認識・確信する期間であった。p44

 

第三 日本における宣教開始
一 横瀬浦(肥前大村領)上陸
フロイスが日本派遣に選ばれたのは、彼の異文化社会に対する適応能力、および世事に対する処理能力の高さが評価されていたためだろう。p46

二 トルレス神父の盛式誓願横瀬浦焼亡

三 度島(多久島)での生活

四 ポルトガル船の平戸再来航とフロイス

 

第四 京都・畿内宣教
一 上洛
伊予の堀江(愛媛県松山市)では、補陀落渡りが話題になっていた。補陀落渡りの観音信仰は当時全国で流行していた。
フロイスには生きたまま死ぬ行為は奇異なことであった。p69
(和歌山での補陀落渡りは聞いたことがありましたが。フロイスならずとも奇異な行為だと思います)

二 最初の京都居住と将軍義輝叛逆
仏僧に洗礼を授けるフロイス
京都での生活では、めまぐるしく変転する政治状況に翻弄されて、時間の流れの速さと、仏教と仏教寺院勢力が日本社会に占める存在の大きさを痛感した。p76

三 堺とその近在における宣教活動

 

四 京都帰還・信長の知遇
家臣たちを驚かせたのは、信長自身がフロイスに晩餐を供するために食膳を持ってきたことであった。p121

五 上長カブラルの上洛とフロイス
カブラル神父は、日本のイエズス会の総責任者として畿内地方の同会の活動とキリシタン教界の実情を把握することを責務とした。
絹の修道服を禁止し、木綿の修道服にしたカブラル

公家の烏丸殿(光康)など有力な地位ある人物五、六人が説教聴聞に来たが、受洗の決断には至らなかった。p142

1574年、フロイスはオルガンティーノと共に一年間、法華経八巻を購読したことを述べている。
仏典を学び、その知識がなければ彼らをキリスト教に改宗させることは難しいと痛感し、また一方でキリスト教の独自性を保つことができないと考えていた。p144

六 南蛮寺建立とフロイス
フロイスは南蛮寺の意義を「二人のモーロ人(イスラム教徒)がローマかリスボンで、わざと私たちの教会の傍らにメスキータ(回教寺院)を建てるのを、今私たちが見るようなものである」とゴア及びヨーロッパに発信している。p152

上洛半年にして追放され、ヴィエラの後継者として小舟で荒海を航海し続け、信長の大船に助けられて、同地方における宣教の基礎を固めることができたフロイスは、窮地にあってしばしば信長に助けを求め、少なくとも12回は彼に面会した。信長もこの異国人の話す異国の政治と社会と生活に耳を傾けた。p155

 

第五 豊後赴任と宗麟の改宗
一 豊後への転任
カブラルはフロイスの健康状態を配慮して、京都の厳しい冬を避け、温暖な豊後臼杵への転地を命じた。p157

二 宗麟の改宗とフロイス
カブラルはフロイスの健康状態だけでなく、大友宗麟改宗のためにフロイスの力量に期待したのでは?p169

三 巡察師の豊後滞在と上洛

 

第六 準管区長秘書就任と年報執筆
一 準管区長秘書に就任
1581年12月に作成された「名簿」には、フロイスが準管区長コエリョの同伴者、すなわち秘書として記載される。

二 日本年報とフロイス

三 準管区長の大坂城訪問に随行
大坂城豊臣秀吉を訪問

コエリョ上洛の途中、高山右近が1585年に所領替によって高槻から明石に異動しており、明石に寄港したが、右近は大坂に出仕していて不在だった。p223

四 日本史の執筆
執筆に四年を費やす。
フロイスの「日本史」執筆の基本姿勢には、宗教家・宣教師というよりは、歴史家としての面目を保とうとする意志が強く働いていたと見ることができる。p243

五 伴天連追放令フロイス
秀吉は、宣教師が大坂の一向宗の坊主よりも有害で危険な存在であると指弾し、五ヵ条からなる「定書」を通達し、20日以内に日本を退去すべしと命じた。これが所謂、伴天連追放令である。p252

 

第七 晩年
一 ヴァリニャーノの再来日とフロイス

二 マカオにおける憂愁

三 日本帰還後の動静
長崎で日本年報の編集・執筆に従事
二十六人の殉教報告が、フロイスの遺稿となる。
1597年7月20日に長崎の岬の教会に附属する修院で死没した。66歳。

おわりに
「日本史」が、キリスト教が伝来した戦国期の日本社会を詳細に活写しているために、日本の中世史解明に資するところは大きい。フロイスが自らの主張をまげてヴァリニャーノの要求に屈していたならば、多くの歴史的事実に光が当てられることはなかったであろう。彼は常に事実を、そして歴史的真実を伝えたいとする熱い思いがほとばしっていた。重量感のある長い文章は、彼の命そのものであった。p283