ロシアのなかのソ連 さびしい大国、人と暮らしと戦争と(後半)

第三章 暮らしのなかのソ連、民主主義ってなんだ?

民主主義嫌い

さまざまな人が異なる意見を述べて、お互いの妥協点を探り、最終的に多数決で決定するという民主的システムは、各自がそのテーマを真剣に考える余裕と知識があれば可能だが、そのような訓練も受けずに好きなことを言ってよいとなると混乱を引き起こす。

 

ロシアでは「民主主義」という言葉が、それが社会改革のスローガンとして使われたソ連崩壊後の大混乱を思い起こさせるのだ。

当時、民主主義は無政府主義と同じように解釈された。

「自由」や「民主主義」という言葉が一人歩きしていた。自由は諸刃の剣だ。多くの喜びとともに悪も生む。ソ連崩壊後のロシアの土壌にまず芽を出したのは、犯罪や腐敗という悪の華だった。

 

西洋的民主主義は、それが取り入れられた世界各国でその国の伝統と基盤に応じた独自の形を作り上げてきたと言える。もしくは民主主義という言葉だけが、シンボルやムードのような共通の幻想として存在してきたのかもしれない。

 

女性の力

社会主義国ソ連では、憲法に男女平等が明記された。世界で最初に中絶を合法化、離婚制限は撤廃され女性の自立が促された。ほとんどの女性が働くようになり、女性はソ連の全労働者の51%を占めていた。

女性が働く環境が整備された中でも、女性たちが仕事と家事、育児を両立させるのは大変だった。家事のインフラが全く整っていなかったからだ。

 

家事・育児は女の仕事という帝政ロシア時代からの家庭訓が根強く残っており、妻たちも夫が料理や洗濯をすることをあまり要求していなかった。家庭内の夫の仕事は、家具の修繕や電化製品のメンテナンス、水道の修理というものだった。確かによく家具は壊れ、電気はショートし、水道は漏れるので、その手の仕事は多かった。

 

離婚大国

2011年の国連の統計調査によれば、実はロシアの離婚率は6割と世界一なのだ。

なんと言ってもプーチン大統領自身が離婚している。

 

休む力

ロシアで取材する時は、7月、8月は仕事にならない。取材先の担当者不在で何も進まないからだ。

 

ソ連時代、旅行地の中で一番人気は海辺のクリミアやソチ、そして外国気分が味わえるラトビアの海岸ユールマラだった。人気の地域の旅行券は各職場に少しずつしか配布されないので、何年かの順番待ちだ。

 

迷信深いロシアの人たち

ロシアでは最も大きな力を持つロシア正教の他に、昔から様々な信仰が存在してきた。精霊信仰、大地や木や川などへの自然崇拝、呪術や少数民族のシャーマニズムなど。それらは長年にわたって人々の暮らしに染み込んできた。

 

危機対応力

ロシアでは毎日のように予想外の危機が起きる。国の政変や戦争という大きな危機から、朝起きると突然水が出なくなっているというような日常の危機まで。

ソ連時代のコロコロ変わる政府の命令も様々な危機を生み出した。ソ連では国家が全ての決定権を持っていたので、命令が理屈に合っていなくても理不尽であっても、なぜかと聞いても仕方がない。そう決定されたという事実だけがある。

小さな危機には自分で対処し、大きな危機はそんなものだと粛々と受け入れる。そんな風にロシアの人たちは危機対応能力をソ連時代から引き継いで磨いてきた。というか磨かされてきた。

 

芸術大国

ソ連ではコンサートが日常的にあちこちで開かれていた。大学内でも毎日のようにコンサートが催された。コンサートも国が主催なので大変安く、チケットは数百円だった。他の遊興施設がないこともあったが、コンサートに行くということは教養人のたしなみとされていた。

レーニンは「芸術は人民のもの」として、それまで貴族文化だった芸術を一般の人々にも普及させようとした。ソ連政府は、国策として芸術振興に力を入れ、音楽学校、バレエ学校などを各地につくらせ、あらゆる村に文化会館を創設した。芸術教育は無料であり、卒業後の就職先も保証される。

 

ロシアで他人を評価する時に頻繁に使われるのが「文化的な人」という表現だ。

 

言論の自由

モスクワ大学時代に住んでいた学生寮では、外国人の部屋の隣はだいたい優等生のコムソモール(青年共産党組織)の学生だった。なぜか彼らとは私が部屋に出入りする時によく顔を合わせた。私の行動は逐一報告がなされていたのではないか。真偽のほどを証明することはできないが、それは大いに考えられることであった。

 

「プラハ侵攻反対」のプラカードを掲げた人たち。逮捕され、自分の人生を棒に振った。それでも自分に正直でいたかったから、後悔はないと語る人たち。

 

1991年ソ連は崩壊、その後のロシアでの報道の自由ぶりは凄まじかった。過去の隠されていた恐るべき粛清の事実が日々暴かれ、百花繚乱、様々な意見がマスコミに登場した。あのような報道の完全な自由を日本でも見たことはない。

 

第四章 ソ連・ロシアの戦争

大祖国戦争

1970年代当時、町を歩けば、年配の男たちが胸に戦争中の勲章をじゃらじゃらつけて闊歩していた。ソ連の買い物の長蛇の行列にも、彼らは並ばなくても買うことができるという特権があった。

 

アフガニスタン侵攻

ロシアの栄光の歴史の象徴である大祖国戦争と正反対に、ロシアの人たちが触れたがらない戦争がある。1979年に始まったアフガニスタン侵攻だ。

 

ウクライナ侵攻

2022年2月21日、何気なくつけたテレビには、プーチン大統領の沈痛な顔があった。カメラを睨むように目が据わり、肩で息をしながら、随所に深いため息が混じる演説。いつもの皮肉っぽい、強気の語り口ではなかった。一体何が起きたのか。長い長い演説を聞きながら不安が広がった。

後になって考えれば、あの日、プーチンはウクライナ侵攻の最終決断をしたのだろう。あれは一国のリーダーが戦争を決断する時の顔だったのだ。

 

ソ連時代は、一つの政府、一つのイデオロギーだったので、ウクライナ人であるとかロシア人であるとか誰も考えなかった。ソ連を構成する15の共和国の境界線は日本の県境のようなものだった。最も大きいロシア共和国が兄であり、 2番目が弟のウクライナ共和国で、この2つのエリート共和国がバルト三国やカザフスタンなど他の13の共和国を従えるという風だったのだ。

 

ウクライナは、豊穣な国土とドニプロ川の豊かな水に恵まれた穀倉地帯で、とても美しい国だ。そんなウクライナが、訪れるたびに幹線道路に穴が開き、建物の壁が修復されず崩れていく。せっかく独立したのになんでこんな風になるのかとウクライナの友人に聞くと、独立後国家の富を独占した財閥、オリガルヒたちが私腹を肥やすことのみに熱中し、政権内は賄賂と汚職にまみれているという。格差は拡大し、犯罪は増え、市民たちの不満が募っているとため息をついた。

 

2015年のミンスク合意。戦闘集結のため、東部の親ロシア派支配地域に特別な地位を与えるというものだった。 ウクライナは合意を履行しようとしなかった。

 

2月24日、ロシアはウクライナに侵攻する。ドンバスのドネツク人民共和国とルガンスク人民共和国を承認し、その依頼を受けてという体裁をとった。

 

おわりに

識者や軍事専門家たちは、ウクライナとの全面戦争はロシアにとっては合理的判断ではないと口を揃えた。

そうなのだ。合理的判断と最も遠くにあるのがロシアの生き方なのだ。

 

私はプーチンと同世代だ。プーチンが暮らしたソ連とロシアの同じ時代を見てきた。過去の栄光を忘れられないプーチンの思考もわからないではない。もしプーチンが昔を懐かしむただの老人ならそれでいい。でも彼は権力者だ。権力者には、国民と社会に対しての義務と責任がある。

 

 

ロシアのなかのソ連 さびしい大国、人と暮らしと戦争と(前半)

ロシアのなかのソ連 さびしい大国、人と暮らしと戦争と 表紙

ロシアの中のソ連 さびしい大国、人と暮らしと戦争と

馬場朝子 著

現代書館 発行

2022年9月25日 第1版第1刷発行

 

1970年よりモスクワ国立大学に6年間留学し、帰国後NHKに入局して、ソ連・ロシアのドキュメンタリー番組を40本以上制作し、退職後2012年から5年間、再びモスクワに移り住んだ著者による本です。

ソ連時代からウクライナ侵攻まで、著者の実体験をもとに、分かりやすく叙述されています。

 

はじめに ロシアはソ連へ回帰するのか

ソ連が最も安定繁栄していた時代として、ブレジネフの時代(1964年10月-66年4月まで第一書記、66年4月-82年11月まで書記長)が高く評価されていると聞いて驚いた。

 

第一章 えっ! 資本主義!?

ロシア的働き方

みんなで話し合い、知恵を出し合い、対等な立場で一緒に番組作りを進めようとする日本の民主的方法と違い、 ロシアではボスがみんなに命令して仕事を遂行する。

またロシア人と働くとき、様々な要求、陳情を受ける。

というわけで、組織のトップは昔も今も超忙しい。

スターリンの行動日誌を調査したら、とにかくよく働いている。夜中も2、3時間寝ては働き、また少し寝ては働き続け、あらゆることを自分で決定していく。

トップは決定する人、部下は従う人なのだ。トップには、優秀さと決断力が必須だ。

 

格差と平等の狭間で

1970年代のモスクワ大学では、教授も清掃員も、給料は大して変わらない。という事情なので、大学の中で最も威張っていたのは、お掃除のおばさんだった。

ソ連ではブレジネフ書記長であっても、呼びかけの言葉は同志だった。

 

市場経済はあまくなかった

ソ連崩壊後、雨後の筍のようにできた民間の銀行に預けたお金を、銀行の倒産で失ってしまう人たちが続出した。少額な人は保証範囲内で全額戻ってきたが、多額な人は貯金のほとんどを失ってしまった。

 

ソ連時代は、深夜町を歩いても、見知らぬ場所に行っても怖いと思ったことはない。何かあれば周りの人が助けてくれるという安心感があった。重い荷物を持っていても、道に迷っても、必ず誰かが手伝ってくれた。残念ながら市場経済の今のロシアではそれは期待できない。

 

実はアメリカ好き?

ソ連崩壊後、多くのロシアの人たちがアメリカに移住、アメリカ各地にロシア人街ができたと聞く。

スターリンの娘もアメリカに亡命し、フルシチョフの息子もアメリカに移住した。

 

プーチン大統領は財閥追放や基幹産業の国家支配によって、ばらばらになりかかっていたロシア国家をかろうじて立て直した。暗黒の10年と言われたエリツィンの混乱の時代(1991-99年)が終わり、石油高騰の追い風を受けてロシア経済は復活、国民は安定した生活を送れるようになり、プーチン支持は盤石なものとなった。

 

第二章 さびしい大国

ロシアはヨーロッパかアジアか

フランス革命で多くのフランス貴族がロシアに亡命、皇帝に仕えたり、貴族の家庭教師となりフランス文化を伝えた。18世紀、ロシアの貴族たちのサロンでは、上品とされたフランス語で会話が交わされた。

 

日本人は、ヨーロッパに憧れても、ヨーロッパ人になりたいとは思わないだろう。まず外見が違いすぎる。ロシアでは外見が似通っているからこそ、社会状況の差に目がいくのだろうか。

 

ウクライナ侵攻後、東を向くロシア、これから中国との経済的協力は進むのだろう。しかしそれが文化面まで及ぶとは考えられない。ロシアがアジア文明を取り込んでいくことはないと思う。なぜならロシアがアジアに憧れ、アジアのようになりたいと願ったことは歴史的に一度もなかったからだ。

しかし、半世紀ロシア人の付き合ってきた経験では、ロシア人のメンタリティにはアジア的な部分が結構あるように見える。まず対人関係でシャイである。理論より情緒を優先し、義理と人情が大事でセンチメンタルなところもある。

 

ロシアの「大国願望」

普通のロシアの人たちの日常会話でも、よく「偉大なるロシア」というフレーズを聞くことがある。乾杯の音頭にもよく使われる言葉だ。私たち日本人が会話の中で「偉大なる日本」と言うだろうか。それはちょっとありえない。

 

ソ連では生活の隅々において筋肉は重要だった。まずは買い物だ。物不足のため長蛇の列に並ぶので、野菜や肉はまとめてキロ単位で買う。

 

ロシアでは住宅は、コンクリート打ちっ放し状態で販売、壁もドアも自分で仕上げるケースが多い。

 

イデオロギーって何?

ソ連の学生にとっては、良い就職口を大学から割り当てられるためには、自分の専門科目と、科学的共産主義理論の2つが5(満点)でないといけなかった。ソ連社会では正義は一つなので、要するに教科書を丸暗記をすればよいということだ。ボタンを押すと自動的に同じ答えが全ての学生から出てくる。

 

ソ連では表立った民族差別はなかった。ロシア人もウクライナ人もカザフ人も民族同士が争うことはなかった。ソ連国民としてとらえていた。逆に言えば、民族紛争するにはあまりに中央政府の力が強力だったということでもある。

 

新生ロシアの政権がロシア正教を社会の大きな基盤とするには難題があった。

ロシアは国内にイスラム教徒を多く抱えている。それだけではない。ユダヤ教徒や仏教徒もいる。あまりに正教に依存すると国民の分断を招いてしまうのだ。政権にはバランスに細心の注意を払いながらの難しい宗教政策が求められている。

 

みんな一緒が好き

プライバシーもない!徹底されたソ連の集団性

 

ロシア正教の底力

平等や、助け合いや、共同主義など、ロシア正教と社会主義イデオロギーが掲げる理想が近似していると語るロシア人

 

 

フランス語史(第3章 中期フランス語~)

第3章 中期フランス語

1539年8月にヴィレ・コトレにおいてフランソワ1世が署名した《司法事象に関して》という大勅令がある。これは先行する国王の干渉(1490,1510年)を単に確認するもので、《判決の理解に疑惑が生じないように》、王の裁判の判決文からラテン語、イタリア語、スペイン語を放逐することを目指すものである。時に断言されてきたことに反して、ヴィレ・コトレの布令は方言をいささかも拒否していない。それは次のように規定しているだけである。《すべての判決文、また全ての訴訟手続…は、〈フランスの母国語〉のみにて読み上げられ、記載され、当事者に付与されるべきこと》。

ところで、このフランスの母国語(=フランスで話される言語の一つ)は、必ずしも《フランスの》言語(フランス国王の言語)と同じものではない。にもかかわらず、この時期以来、国王の言語である統一された言語がフランス王国の言語となる傾向を示し、これを頼りとしてロンサールが不滅の名を得ようとする。

 

その頃まで閉じられていた若干の領域への通俗言語の拡大は、とりわけ語彙の豊富化によって具体的にあらわれている。《14、16世紀は語彙想像の偉大な時期として登場する。…中期フランス語が今日の我々の辞書の半分以上の語を提供する。》

 

フランス語の語彙編纂が誕生するのはやはり16世紀であり、ロベール・エティエンヌが『仏羅辞典』(1539年)に集録した見出し語目録がその後の辞書の基本となるものである。

 

第4章 古典期および古典期以後のフランス語

人はもはやラテン語との一致に先例あるいは権威を求めようとしない。ラテン語は《上層階級の交信にほとんど関与しない》のである。イタリア語がラテン語に一層類似してるとしても、そのことはイタリア語の利益になることはいささかもない。主語-動詞という自然と考えられる、すなわち論理的と考えられる語順は、この順序が頻繁であることがはるかに少ないラテン語に比べて、これを採用したフランス語の優れた点である。

 

王領に最近統一された諸地方の隅々まで拡散したフランス語は、当時の良い社会のフランス語なのである。アンシャン・レジーム下に行われた賢明な自由主義が、この拡張に大きく寄与した。1644年にスキュデリー嬢は、フランス語を話せる人々が幸運に時としてマルセイユにやってくると記している。

そしてラシーヌはユゼスへの旅の間に味わった苦渋をたまたまラ・フォンテーヌに手紙で語っている。リヨンを出ると、土地の言葉しかまず耳に入らなくなり、自分の言うことも分かってもらえなくなった。ついにユゼスにおいて、周りで話されているのがイタリア語とスペイン語の混ぜ合わせであることに気づき、この発見のおかげで彼は再び意思の伝達を行うことができるようになる(1661年)。

しかしながら、マルセーユのような都市においては、プロヴァンス語は1650年頃に書かれなくなり、書記言語、実務の言語としてのフランス語とその土地固有の土語との間に二重言語使用が確立される。この動きを成功させる鍵のひとつは学校における、とりわけ、ジャン=バティスト・ドゥ・ラ・サルが創立した修道会が管理する学校における、フランス語教育の発達である。学校は1700年以後王領の全域において増大し、そこではフランス語の読解に大きな位置が与えられた。

 

1784年に、リヴァロールは『フランス語の普遍性に関する論』によってベルリン・アカデミーの賞を獲得する:これは、フランス語はラスタット条約(1714年)以来国際的な外交用語となり、ほとんど全ヨーロッパの教養語であったが、当時人々がフランス語に対して感じていた卓越性の感の淵源を著者が展開して示した雄弁な作品であり、力点は能う限り明晰性と合理性に置かれている。

これに対して、ルソーは死後に刊行された著作において、社会のうちに糾弾したと同一の退廃を言語のうちに見出している。

 

第5章 昨日のフランス語

いかなる時期も、それぞれの拘束を経験してきた。我々は特に19世紀の拘束を感じている。その拘束は今日まで影響を及ぼし続けているからである。かつて、言葉の領域において、権勢的な統一の潮流がこれほど絶対的に顕現したことはない。その前の世紀の上流社会の某々の人があえて犯していた正書法上の気まぐれは、その個人独特の持ち味の一部をなしていたが、19世紀前半には、それが最大の道徳上の不倫と同じく重大な禁止の的となる(正書法は1832年に国定となった)。

地域的表現はその個別性を認められず、《言語は共和国と同様、一つであらねばならない》、そして雑多の《粗野な特有語》は《理性の幼年期と偏見の老年期》を引き伸ばす結果を生むという原理が容認される。(共和歴2年、牧月10日の協定と霧月15日の布告)

 

イーヴ・サンドルの『分詞法の商人』と題する記録によると、10ヶ月中4ヶ月しか登校しなかった農村地域の生徒の割合は、1893-1894年において25%以上にも達した、という:共有の牧場で家畜の見張りをしなければならなかったのだ!若い女教師の行状がこの作品に記し残されているわけであるが、彼女が担任した15人の生徒のうち、文字を覚えたのは6人である。

 

第6章 今日のフランス語

 

フランス語史(第2章 古フランス語)

第2章 古フランス語(12-13世紀)

12世紀初頭、古フランス語が形式を整え、『ローランの歌』のように美しくも壮大な文学作品が作られる頃には、学校の数も増えた。人々はとりわけ文法の研究に猛然と取り組んだ、といわれる。

フランス語は、たとえ学校における教材としてはなお地位を獲得していなかったとしても、フランスの北部において話され、イギリスの王たちあるいはノルマンディー出身のシチリアの王たちの宮廷において用いられて、その威光を増し続けるのである。

 

今日行われているような、脚韻を踏んだ行からなる詩が最初に現れたのは、12世紀初頭のことである(フィリップ・ドゥ・タンの作品『聖ブランダンの旅』)

 

当時においては、テキストはいくつかの模写の一つにすぎなかった。その模写は作者と書写生との協力の所産であった。作者は作品を作るが、言語と語彙の領域においては書写生はある程度自由を認められている。原本と彼が仕事を奉仕する顧客との間の仲介者として、書写生は読者の理解を容易にするために原本を潤色することを怖れ慎まわない。

 

西の方言群(ノルマン語、アングロ・ノルマン語)

北東の方言群(ピカール語、ヴァロン語

東の方言(ロレーヌ語、 ブルゴーニュ語)

中央の方言群

これらの呼称及び方言群化は、便利であるが、作為的である:それは、言語の境界と行政上あるいは地理上の境界とを一致させようとする試みに基づいているためである。

 

今日まで伝えられている文学的テキストによって判断すると、12世紀には《フランク・ノルマン語》が、13世紀には《フランコ・ピカール語》がそれぞれ優勢を占めている。しかしフランス語になったのはノルマン語でもピカール語でもない。フランス語の祖先として《フランシアン方言》がしばしば掲げられる。用語のこうした改新は19世紀末のロマンス学者によるものであるが、これには、フランス語を特殊な一方言の拡大の結果として提示するという欠点がある。

 

中世の書記言語は、続くいかなる時期よりも、多様な方言による多様性を容認している。それらは、書写生が顧客あるいは彼ら自身の習慣によってそれを導入した方が良いと判断するかどうかに従って、その数を増減するが、忘れてはならないことは、テキストの主要部分がオイル語領域全体の共通言語に属するということである。

 

古フランス語の特徴として、しばしば、名詞曲用の存在が挙げられる。そしてこの名詞曲用は、12世紀以後、とりわけ西部において、弱体化する徴候を示したとする考えが強力である。

名詞曲用を尊重することは、とりわけ書写生たちの事とするところであった。『オランジュの占領』(12世紀の詩であるが、今あるのは13世紀 の書写によるものである)においては、屈折の標識は、主語は動詞の前に置かれ冠詞を伴っている時には、忘れられることが最も少ない。

 

文法辞項と意味の充実した辞項とを区別するとき、すぐに気づくことは、第1に属する多数のもの(冠詞、代名詞など)はロマン語が当初においてラテン語から引き続いて保持したものであるということである。ロマン語の古い語彙の貯えもまた、最古のテキストにおいては優位を占める:しかしながら若干の学者語が既に顕れている:これらはロマニアの細分を決定した大きな転変の後のラテン語からの借用である。この結果、これらの借用語は古い貯え中の辞項よりも起原の相貌を忠実に保存している。

 

書かれた文書が多様化するに従って、別個の語彙の貯えが出現する。それはゲルマンの諸民族、ことに5世紀以後ゴールに定着したフランク族が導入した、ある辞項がゲルマン起原であるか、その影響を受けたものかは、2つの音声特徴によって見分けられる。両唇音wあるいは気音hが語頭にあるかどうかである。

 

もしロマン語の貯えが文法に関わるものにほとんどもっぱら利用されたとすれば、ゲルマン語の貯えの資源は語彙についてそれを補足したものといえる。

色の名称についていえば、ゲルマンのパレットの各色がラテン語の供する名称より繰り返し選ばれた(blanc,bleu,gris)

 

 

フランス語史 第1章 最古のフランス語

 

フランス語史 表紙

フランス語史

ジャック・ショーラン 著

川本茂雄 高橋秀雄 共訳

白水社 文庫クセジュ

1973年5月6日 第1刷発行

1993年5月20日 第8刷発行

 

どのようにしてラテン語からフランス語が生まれてきたか、そして古フランス語から中期フランス語への変遷、古典期フランス語から近代・現代フランス語の進展について述べられています。

 

第1章 最古のフランス語

842年、「ストラスブールの誓い」のテキストとともに、我々にとって最初の言語状態、最古フランス語がはじまる。

842年、シャルル禿頭王とルードヴィッヒ(ルイ)・ドイツ王は、兄ロタールの冒険心を恐れて、彼の企てに対抗して相互の協力を約束しあった。この条約の条項が双方の側のいずれにも理解されるように、2篇の文章がしたためられた。一つはロマン語によってであり、もう一つはゲルマン語によってである。

 

900年頃サンタマンで書かれた『聖女ウーラリの続誦』

この短い詩は、マクシミアヌス皇帝治世の頃殉教した女主人公の崇拝に民衆を誘おうとした、民間礼拝の努力を物語るものである。

 

最古フランス語の時期は9世紀から12世紀初年代にわたるものであるが、この時期に行われた書写によって我々が読むことのできるテキストは、そのほとんど全てが宗教的性格のものである。

 

ローマ化されたゴール[=ガリア]で実際に理解され話された言語と、学校で教えられ、聖職者や文学者の世界で書かれたラテン語と、両者の間の隔たりが次第に大きくなっていった。カロリング王朝下の学芸復興は、後者のラテン語の古代の模範への従属をもっぱら強化した。こうして1つの全く新しい言語が誕生して、最初、《地方のロマン語》と呼ばれた。それは、初めは口頭言語に過ぎなかった。

9世紀になされた歩みこそ、決定的である。もはや孤立的な要素を説明することでは足りるとせず、別個のものと感じられるようになった言語、そして書記言語として遇されるに十分な一貫性が感じられるようになった言語に、世人は 文字表現を与えるようになった。発足は微々たるものであった:新しい言語によって書かれた 初期の資料は、ラテン語の作品の中に挿入されているものである。これらの資料は、当時の実際の言語状況を承認したことによって生じたのであって、大衆の手の届くような表現様式に歩み寄る必要から、学僧たちが最古のフランス語 を筆写するに至ったのである。この時以来、《ロマニア》の細分が、ラテン語がもはや理解されなくなったという消極的な理由からではなく、書記形式を取り入れるほどに十分定着したいくつかの特有語の形成によって実現するのである。

決定的にラテン語から解き放たれて、この新しい言語は、イタリア語やスペイン語にやがてなるべき言語とだけではなく、ガロ・ロマン地域の南部で用いられる色々な特有語とも、ますます異なるものとして確立される。この南部地方において話されたラテン語の進化の仕方は、北部地方におけると同一ではなかった。北部はゲルマン人によって占められたことにより、地中海諸国とは継続した環境を維持することが一層少なかった。5世紀以後、2つの言語集団はそれぞれ独自な進化を遂げる。

 

9世紀に現われたこの言語には、数世紀来ゴールの土地に定着していたケルト民族の言語から影響を受けているところは乏しい。紀元3世紀から5世紀にかけて、ローマの支配下のゴールのラテン化が進み、それは都市から始まって、少しずつあらゆる環境に広がって行き、住民の原初的な言語活動の遺物として残したものは、わずかに田園生活に関する語彙及び地名 に見られる。

 

この言語は、古典ラテン語の延長でもない。いわゆる《俗》ラテン語に比べる方が、妥当である。他のロマン諸語と同じくこの言語も、深刻な転変の後に生まれたのであった。すなわち、ローマ帝国の統一に結びついて統一を保っていた特有語を著しく改変した深刻な転変によるものであって、その特有語は転変によって、元をなしていた全体から次第に様々の断片へと分裂してゆき、次第に断片相互の間で分化していった。最も著しく冒された部分は、母音体系であった。

誰でも気がつくように、フランス語の母音の種別は、ラテン語が用いていたものよりはるかに複雑で、はるかにニュアンスに富んでいる。その豊富さと多様性は、今日に至るまで、フランス語の独自性の一つとなっている。

 

初期のテキストをフランス語でしたためた学僧に対して、正書法の難しい問題が提起された。それを解決するために、よかれあしかれ、彼らをなじんでいたラテン字母の文字が当てはめられた。

正書法は、その起源から、音を忠実に転写しようとしてより、むしろ語の認識との係わりにおいて確立される傾向がある。つまり、一つは書記という、もう一つは音声という、2つの体系が別々に機能する傾向がある。この時以後、そしていろいろな時期に従っていろいろに、音声転写とは全く独立したいろいろな要素が正書法の中に導入されることがある。

 

最古フランス語を特性づけるものは、形態上ラテン語の大過去の延長である直接法大過去を保持しているということである。

また最古フランス語を特性づけるものとしてその語順が挙げられる。

 

 

英賀城の城門「広辻口」(兵庫県姫路市)

英賀城の城門シリーズ、まずは城の南東に位置する「広辻󠄀口」から。

ここは別名飾磨口とも言われていたそうです。 飾磨方面からの入り口だから飾磨口というのはわかるのですが、なぜ広辻󠄀口という言い方なのかがよく分かりません。 英賀の西に「広」(現在の広畑区)という地名があったので、そちらへぬける道への門ということからかな思うのですが、確証は持てません。

ちなみに「広」は司馬遼太郎先生のご祖父の出身地で、更にご先祖は英賀衆だった、とのことです。

 

この広辻󠄀口は水尾川沿いに位置します。 川は現在より狭かったようで、橋が架かっており、浜街道と繋がっていました。 ちょうど対岸の建物の間あたりに道があり、そこが浜街道の名残だと思われます。

 

 

対岸の方から広辻󠄀口辺りの写真を撮ります。 本当に普通の住宅街ですね。

アイルランド国旗がはためくDunguaire城

ゴールウェイ湾のDunguaire城

少しだけ場所を変えて写真を撮ります。

wikiによると、塔の高さは23mだそうです。

2001年当時のこの写真ではアイルランド国旗がハタハタはためいていますが、最近の写真をGoogleマップで見てみると、旗はありませんでした。やはり一時閉鎖中というのが関係していると思われます。

この城のホームページを自動翻訳した文を以下に載せます。

 

この建物は1520年にオハインズ一族によって、風光明媚なゴールウェイ湾の海岸に建てられました。修復された16世紀の塔状の邸宅は、ゴールウェイ湾の海岸にある岩の露頭の上に建っています。

 

1924年、ダンガイルは著名な外科医であり文学者でもあったオリバー・セント・ジョン・ゴガーティによって購入され、修復されました。この時期は、シング、イェイツ、ショー、オケーシーといった作家の作品に代表される、アイルランド文学における偉大なケルト復興の時代でした。ダンガイルは、W・B・イェイツ、彼の後援者であるレディ・グレゴリー、ジョージ・バーナード・ショー、エドワード・マーティン、J・M・シングといった文学復興運動家たちの会合の場となりました。特にイェイツはケルトの吟遊詩人の伝統を強く信じ、古代の口承文化を自身の戯曲や詩に取り入れ、復興に取り組みました。

 

1954年、この城はクリストベル・レディ・アンプティルによって買収され、オリバー・セント・ジョン・ゴガーティが始めた修復作業が完了しました。その後、城はシャノン・ヘリテージの所有となりました。現在、修復された城は、1520年から現代に至るまでの人々の暮らしぶりを垣間見ることができます。4月から10月にかけては、有名な城の宴会で素晴らしいエンターテイメントと地元産の食材を使った料理をお楽しみいただけます。

 

現在では一時閉鎖中ということで、城での食事会も行われていないと思いますが、城のホームページではその模様の動画を載せていました。

石造りの中世風の雰囲気で、アイリッシュハーブを奏でる中、寸劇なども行われていました。