第三章 暮らしのなかのソ連、民主主義ってなんだ?
民主主義嫌い
さまざまな人が異なる意見を述べて、お互いの妥協点を探り、最終的に多数決で決定するという民主的システムは、各自がそのテーマを真剣に考える余裕と知識があれば可能だが、そのような訓練も受けずに好きなことを言ってよいとなると混乱を引き起こす。
ロシアでは「民主主義」という言葉が、それが社会改革のスローガンとして使われたソ連崩壊後の大混乱を思い起こさせるのだ。
当時、民主主義は無政府主義と同じように解釈された。
「自由」や「民主主義」という言葉が一人歩きしていた。自由は諸刃の剣だ。多くの喜びとともに悪も生む。ソ連崩壊後のロシアの土壌にまず芽を出したのは、犯罪や腐敗という悪の華だった。
西洋的民主主義は、それが取り入れられた世界各国でその国の伝統と基盤に応じた独自の形を作り上げてきたと言える。もしくは民主主義という言葉だけが、シンボルやムードのような共通の幻想として存在してきたのかもしれない。
女性の力
社会主義国ソ連では、憲法に男女平等が明記された。世界で最初に中絶を合法化、離婚制限は撤廃され女性の自立が促された。ほとんどの女性が働くようになり、女性はソ連の全労働者の51%を占めていた。
女性が働く環境が整備された中でも、女性たちが仕事と家事、育児を両立させるのは大変だった。家事のインフラが全く整っていなかったからだ。
家事・育児は女の仕事という帝政ロシア時代からの家庭訓が根強く残っており、妻たちも夫が料理や洗濯をすることをあまり要求していなかった。家庭内の夫の仕事は、家具の修繕や電化製品のメンテナンス、水道の修理というものだった。確かによく家具は壊れ、電気はショートし、水道は漏れるので、その手の仕事は多かった。
離婚大国
2011年の国連の統計調査によれば、実はロシアの離婚率は6割と世界一なのだ。
なんと言ってもプーチン大統領自身が離婚している。
休む力
ロシアで取材する時は、7月、8月は仕事にならない。取材先の担当者不在で何も進まないからだ。
ソ連時代、旅行地の中で一番人気は海辺のクリミアやソチ、そして外国気分が味わえるラトビアの海岸ユールマラだった。人気の地域の旅行券は各職場に少しずつしか配布されないので、何年かの順番待ちだ。
迷信深いロシアの人たち
ロシアでは最も大きな力を持つロシア正教の他に、昔から様々な信仰が存在してきた。精霊信仰、大地や木や川などへの自然崇拝、呪術や少数民族のシャーマニズムなど。それらは長年にわたって人々の暮らしに染み込んできた。
危機対応力
ロシアでは毎日のように予想外の危機が起きる。国の政変や戦争という大きな危機から、朝起きると突然水が出なくなっているというような日常の危機まで。
ソ連時代のコロコロ変わる政府の命令も様々な危機を生み出した。ソ連では国家が全ての決定権を持っていたので、命令が理屈に合っていなくても理不尽であっても、なぜかと聞いても仕方がない。そう決定されたという事実だけがある。
小さな危機には自分で対処し、大きな危機はそんなものだと粛々と受け入れる。そんな風にロシアの人たちは危機対応能力をソ連時代から引き継いで磨いてきた。というか磨かされてきた。
芸術大国
ソ連ではコンサートが日常的にあちこちで開かれていた。大学内でも毎日のようにコンサートが催された。コンサートも国が主催なので大変安く、チケットは数百円だった。他の遊興施設がないこともあったが、コンサートに行くということは教養人のたしなみとされていた。
レーニンは「芸術は人民のもの」として、それまで貴族文化だった芸術を一般の人々にも普及させようとした。ソ連政府は、国策として芸術振興に力を入れ、音楽学校、バレエ学校などを各地につくらせ、あらゆる村に文化会館を創設した。芸術教育は無料であり、卒業後の就職先も保証される。
ロシアで他人を評価する時に頻繁に使われるのが「文化的な人」という表現だ。
言論の自由
モスクワ大学時代に住んでいた学生寮では、外国人の部屋の隣はだいたい優等生のコムソモール(青年共産党組織)の学生だった。なぜか彼らとは私が部屋に出入りする時によく顔を合わせた。私の行動は逐一報告がなされていたのではないか。真偽のほどを証明することはできないが、それは大いに考えられることであった。
「プラハ侵攻反対」のプラカードを掲げた人たち。逮捕され、自分の人生を棒に振った。それでも自分に正直でいたかったから、後悔はないと語る人たち。
1991年ソ連は崩壊、その後のロシアでの報道の自由ぶりは凄まじかった。過去の隠されていた恐るべき粛清の事実が日々暴かれ、百花繚乱、様々な意見がマスコミに登場した。あのような報道の完全な自由を日本でも見たことはない。
第四章 ソ連・ロシアの戦争
大祖国戦争
1970年代当時、町を歩けば、年配の男たちが胸に戦争中の勲章をじゃらじゃらつけて闊歩していた。ソ連の買い物の長蛇の行列にも、彼らは並ばなくても買うことができるという特権があった。
アフガニスタン侵攻
ロシアの栄光の歴史の象徴である大祖国戦争と正反対に、ロシアの人たちが触れたがらない戦争がある。1979年に始まったアフガニスタン侵攻だ。
ウクライナ侵攻
2022年2月21日、何気なくつけたテレビには、プーチン大統領の沈痛な顔があった。カメラを睨むように目が据わり、肩で息をしながら、随所に深いため息が混じる演説。いつもの皮肉っぽい、強気の語り口ではなかった。一体何が起きたのか。長い長い演説を聞きながら不安が広がった。
後になって考えれば、あの日、プーチンはウクライナ侵攻の最終決断をしたのだろう。あれは一国のリーダーが戦争を決断する時の顔だったのだ。
ソ連時代は、一つの政府、一つのイデオロギーだったので、ウクライナ人であるとかロシア人であるとか誰も考えなかった。ソ連を構成する15の共和国の境界線は日本の県境のようなものだった。最も大きいロシア共和国が兄であり、 2番目が弟のウクライナ共和国で、この2つのエリート共和国がバルト三国やカザフスタンなど他の13の共和国を従えるという風だったのだ。
ウクライナは、豊穣な国土とドニプロ川の豊かな水に恵まれた穀倉地帯で、とても美しい国だ。そんなウクライナが、訪れるたびに幹線道路に穴が開き、建物の壁が修復されず崩れていく。せっかく独立したのになんでこんな風になるのかとウクライナの友人に聞くと、独立後国家の富を独占した財閥、オリガルヒたちが私腹を肥やすことのみに熱中し、政権内は賄賂と汚職にまみれているという。格差は拡大し、犯罪は増え、市民たちの不満が募っているとため息をついた。
2015年のミンスク合意。戦闘集結のため、東部の親ロシア派支配地域に特別な地位を与えるというものだった。 ウクライナは合意を履行しようとしなかった。
2月24日、ロシアはウクライナに侵攻する。ドンバスのドネツク人民共和国とルガンスク人民共和国を承認し、その依頼を受けてという体裁をとった。
おわりに
識者や軍事専門家たちは、ウクライナとの全面戦争はロシアにとっては合理的判断ではないと口を揃えた。
そうなのだ。合理的判断と最も遠くにあるのがロシアの生き方なのだ。
私はプーチンと同世代だ。プーチンが暮らしたソ連とロシアの同じ時代を見てきた。過去の栄光を忘れられないプーチンの思考もわからないではない。もしプーチンが昔を懐かしむただの老人ならそれでいい。でも彼は権力者だ。権力者には、国民と社会に対しての義務と責任がある。





