
ふる里 あらかわ
ふる里 あらかわ
荒川郷土史編集委員会 編集
荒川連合自治会 発行
昭和55年5月1日 発行
本書は兵庫県姫路市旧荒川村(現在の荒川小学校区)の地理・歴史・風俗を記したものです。
第一章 荒川の地形と地質
第一節 荒川の地形
冑山の西麓を流れ中地の北を西新し町坪・玉手の東を南流する水尾川と、大井の水源(今宿南の清水)より荒川山塊の東麓を南に流れ西町坪を経て水尾川に合流する大井川の2つの大きな水系がある。
現在の大井川は、姫路藩主榊原忠次が夢前川を御立横関において改修し現在の河道に付替工事を行うまで置塩川とも呼ばれ、御立横関から蛤山の東を南流し、今宿・四ツ池の東を通り、水尾川の下流において合流していた。(『播磨鏡』『 土地条件調査報告 京都播磨地理』)。p5
第二節 荒川の地質
第二章 あけぼのの荒川
第一節 埋蔵文化財にみる
第二節 播磨国風土記にひらう
私たちの地区を古書のうえに最初に見出すのは『播磨国風土記』の伊和里である。p24
第三節 律令制にひらう
都が京都の平安京にうつされ、平安時代が始まった。この時代の歌人である大江千里の領所として玉出村(玉手)の名が『播磨鑑』に記されている。p39
第三章 ひらけゆく荒川
第一節 伊和西のその後
『蔭涼軒日記』 によると、この付近では文明18年(1486)正月 6日、英賀において山名軍と赤松軍が合戦し、山名方の垣屋越中守・同息孫右衛門ほか数十名が戦死している。p45
第二節 中世荒川の発展
より細かな第二次氾濫原(荒川)が続くが、河川はこれより東西に分かれ、東へ水尾川、西へ大井川(済川)の水系をつくり、南流して播磨灘に注いでいた。当地区のほぼ中央を走る旧の室街道は多くの屈曲をみせながら、これら河川をわたりなおし、当地を西南より東北に貫き山陽道に通じていた。室町末期に英賀より上陸した一公卿がこの街道を利用して町坪城(構居)を通り姫路に向かっている記録も残っている。なおこれら河川が全て西に付替えられ菅生川と合流して現在の夢前川が完成するのは近世の明暦年間 (1655~58)になってからのことである。p47--48
『播磨鑑』には吉川氏(次郎)が英賀領主であった頃、室津の加茂明神に一町の坪田を寄進したのが町坪村名の起源と伝える。その頃吉川氏は播磨灘の海上権を掌握しており、要港である英賀や室(室の津)にもその勢力を扶植していたことは十分に考えられる。p51
関東公方足利持氏の乱(永享の乱)とそれに続く結城氏朝の乱(結城合戦)が勃発した。幕府は軍を東下させ鎮圧にあたったが、播磨国でも守護赤松氏は軍船三百余艘にて播磨・備前沖を警護したのに対し、英賀三木氏も五十余艘にて播磨西海岸を守り、結城に加担して海路上洛する刺史を防いだと伝える。このとき兵船の苫を編んだところが苫編村名の起源となったとも伝えている。(『英城日記』)p54
『播磨鑑』 にはいわゆる播磨十水は赤松義村が定めたという説を掲げる。
(10)大木の清水(飾西郡英賀村)p55
応仁の乱後、赤松氏が衰退の途をたどったのに対し、当地区にかなりの影響を及ぼした領主として飾西郡英賀城に拠った三木氏がある。英賀港は瀬戸内海航路の寄港地として古くから開け、英賀彦・英賀姫を祀る英賀神社も往古より鎮座していた。鎌倉初期には吉川氏がここに拠り、赤松満祐も弟祐尚を入れてこの地を守らせた。p57-58
これまでしばしば引用してきた『英城日記』は英賀落城後、各地に散在していた家記の類を合わせて作ったもので、古来より疑問の書とされてきた。しかるに近年になりはじめて英賀の実態にふれた史料が解明されつつある。すなわち『兵庫県史』(第3巻)には本願寺十世証如の日記 『証如上人日記』を引用して英賀町衆の存在を究明している。同書によれば英賀は六人の長衆・11人の中老衆などにより運営される英賀三ケ村として記され、すみや甚兵衛・御厨五郎左衛門・市場与三兵衛・英賀徳正などその人名の大半は英賀の長衆であり、これら英賀衆の実態は『英城日記』にいう三木氏のような武家でなく、守護赤松氏より派遣され英賀代官により支配され、殷賑な町場を形成していた富裕な交易業者であったと考えられる。
戦国期に入り守護勢力が弱まり、町衆の自治能力が高まって、播磨の守護家や有力大名と姻戚関係を結ぶまでに成長した英賀衆は城郭都市として急速に武士化をとげる。天文10年(1541)には領内三十余ケ村と記され(このうちに当地区の英賀郷・岩西郷も含まれる)揖東・飾西・印南の各半を領する有力な領主となって三木通秋のような武将をうみだすのである。p58-59
『信長公記』には「この勢いに乗って直接、阿賀へ攻め寄ると、安芸へ人質を提出していた敵方は舟に乗って退去した。それで、戦闘もせずに阿賀の寺内町を占領した。羽柴秀吉は当時の情況を視察し、」(この部分、中川太古訳『現代語訳信長公記』より) とあって一戦にも及ばず落城したと記している。
第三節 幕藩体制と荒川
第四節 近代の荒川
姫路藩から
明治4年7月姫路県へ
明治4年11月飾磨県へ
明治9年8月 兵庫県
第五節 地域の変貌と未来
荒川地区は、昭和20年 7月3日夜の第2回目の姫路空襲で被害を受けた。
自治会の起こりは、古く大化の改新(645)の時の「唐令五保の制」に学び、五保の制を定めたのが始めであると言われている。近隣五戸をもって組み、その一戸が「長」となった、いわゆる「五人組」である。その後、戦乱のたびごとに自衛組織の役目を果たしながら「十人組」に発展し、次第に集団化したのが村となり町となったのである。p112
第四章 荒川めぐり一歩記
第一節 お宮をたずねて
第二節 お寺をたずねて
第三節 遺跡をたずねて
『宇和旧記』(板島丸串城主西園寺公広伊勢参宮の記) によれば、天正4年(1576)6月、公広の弟宣久が伊勢参宮の際に瀬戸内海を航行し英賀より上陸、英賀に4日滞在して後、町坪構居、姫路構居を通り、山陽道を三木に向かっている記録がある。
第四節 村々をたずねて
天正3年(1575)春、英賀城下を出発して西から北、東から南、最後に再び英賀城下帰着。その間の見聞をもとに、芦屋道海が著した「近村めぐり一歩記」。p225
第五章 くらしの暦
第一節 年中行事
節分相場 広峰神社で行われた節分祭の夜の行事で、もとは姫路市をはじめ、播州・阪神各地から相場師多数が参集して、大かがり火を囲んで、売った、買った、と株式・そうめん・米麦などの取引を行い、時価より高い予想相場を立てて 祝った。p275-276
第二節 人の一生
第三節 農村歳時記
第四節 子どもの遊びとわらべ歌
第六章 資料編