ラファエッロの秘密(Ⅰ〜Ⅲ)

ラファエッロの秘密 表紙

ラファエッロの秘密
コスタンティーノ・ドラッツィオ 著
上野真弓 訳
河出書房新社 発行
2019年1月30日 初版発行

本書は2015年にイタリアの会社より出版された、直訳で「ラファエッロの秘密 フォルナリーナの謎からヴァティカン教皇居室まで」の翻訳です。
ラファエロの画集も読んで、更に現地まで見に行きましたが、この本を通してまた新たな発見ができてよかったです。

登場人物
芸術家たち/パトロンたち/ 共同制作者(弟子)たち/愛人たち
年代記と主要作品
ルネッサンスの中心にて

Ⅰ 神童
Ⅱ 飛躍の場を求めて
1504年、アルビッツィーニ家はラファエッロにサン・フランチェスコ聖堂のための「聖母の結婚」を注文する。ラファエッロはペルジーノが ペルージャの大聖堂のために制作中の作品から構想を取り入れることを決める。
第一印象では、この2点の絵は同じように見える。
ラファエッロの作品の新しさは、革新的な空間を生み出したことだけではない。より自然なポーズを取る作中人物の創作に集中することである。
ラファエッロの方は、前景に集団から少し離れた若者が、膝を使って枝を折ろうとしている。若者の失望感をそっくりそのまま伝えており、マリアとの結婚という目的を果たせなかった不要な道具を壊すための動作が全くリアルに伝わってくる。

Ⅲ 新たなライバル
ラファエッロが修行するためだけにフィレンツェに行ったと考えるのはバカげている。ラファエッロは大変な策略家で自分が欲しいものを手に入るためにはいつも同じ戦術を使う。すなわち、控えめでおとなしそうな態度で登場し、それから巧みな絵で一発くらわせて、自らの名声を高めるのである。

1504年はフィレンツェの芸術シーンにおいて決定的な年となる。首位を争うのは2人の主人公だ。すなわちダ・ヴィンチとミケランジェロである。

今日のラファエッロのフィレンツェ滞在を確かな事実として知らしめす史料を発見されていない。どこに住んでいたのか、そこに自分の工房を開いたのかどうか、全く何もわかっていないが、フィレンツェ滞在が彼にとって大きな成長をもたらした時期だったことは推測できる。

ラファエッロの「牧場の聖母」(別称「ベルヴェデーレの聖母」)
ラファエルは型通りで硬い場面を、構図の統制を失うことなく、複数の人物が自然なしぐさでたたずむ立体感あふれる空間に変えることに成功している。レオナルドの例の聖アンナを軸にしたカルトンの模倣であることは明らかで、ほとんど厚顔無恥である。ラファエッロは、出会ったばかりの有名な巨匠の原型を忠実に再現するのに、少しも恥じることはない。

 

 

英賀城の井上口へ(兵庫県姫路市飾磨区)

英賀城本丸周辺復元図

英賀城の城門跡、芝之口から、城境だった場所に沿ってつくられた、緩やかに曲がった道を歩いていきます。
途中駒芝口があった場所を通りますが、 この辺りには石碑はありませんでした。
ひょっとしたら、どこかにこそっと石碑のようなものが隠れてるのかもしれませんが、今は普通の住宅地ゆえ、コソコソうろうろとは探しにくいですね。
そして井上口(井ノ上口)に達します。
この辺り井上館という屋敷があったことから、そう呼ばれていたようです。

 

 

 

 

コネマラ地方のありそうな風景(アイルランド)

アイルランド・コネマラ地方の風景

この画像も、コネマラ地方のバス旅行の途中で撮った写真です。

写真を撮った時の状況は全く忘れたので、いつものように画像検索にかけてみたのですが、コネマラ地方の風景と出るだけで、詳しいことはやはり分かりませんでした。

同じような画像がブログなどにアップされていたので、 一見平凡に見えても、それなりに有名な場所だとは思うのですが、はっきりと場所は特定できませんでした。

コネマラ地方の典型的な風景ということで、載せておきます。

 

 

航西日記 パリ万国博見聞録 現代語訳(渋沢栄一自叙伝、解説)

〈付録〉『渋沢栄一自叙伝』より

王政復古と帰朝

一 新聞にて政権返上を知る

フロリへラル卜氏の勧めに従ってフランスの公債と鉄道株券を買い求め、万一の場合の用意としておいた。

 

二 有為天変に感慨無量

12月3日無事横浜に着したのであるが、すでに江戸は東京から改まり、渡仏の際は意気揚々として出発したのであるけれども、今はあたかも喪家の犬の如く、出迎えとても極めて小人数であり、身分柄がよく判っているにもかかわらず、取締の役人から色々身分を訊ねられたり、所持品を調べられたりして、見るもの聞くもの不愉快の種ならざるはなかった。

 

幕府を倒そうというのが吾々当初の目的であったのであるが、機会を失し、計画が齟齬してからは、どういう前世の因縁かかえって幕吏の末班となり、今また亡国の臣となったわけであるが、世の移り変わりは人力では如何ともする事が出来ないのであるから、 過去の事は一朝の夢と諦めるより外には仕方がない。

 

三 帰朝後慶喜公との対面

私がフランスに洋行する際慶喜公に御目に掛かった時には徳川十五代将軍として拝謁したのであったが、それから2年目に帰朝して今日御目に掛かるに、いかに謹慎中とはいえ余りに惨めな御様子に、覚えず暗涙に咽ぶを禁じ得なかった。

漸く気を取り直して、久々の御挨拶を申上げたが、まず出るものは愚痴であった。慶喜公においては更に悲しまれるような模様もなく、眉一つ動かされず、私の言葉を止めて、

「昔のことは一切話をしてくれるな。それよりも フランス留学中における民部の模様を聞こうと思って会ったのであるからその話をするように」

との仰せであったので、私も心ない事を申し上げたと気付き、それから心を持直して民部公子が御留学中の模様を逐一申上げ、なお民部公子が東京において御申含めになった事等をも落ちなく言上して退出したのであった。私はその時の慶喜公の泰然自若たる態度には全く感服せざるを得なかった。

 

四 慶喜公の深慮と静岡藩出仕

 

解説 近代日本への貴重な原体験 木村正人

近年の研究では、この『航西日記』は渋沢らの帰国後に編纂されたもので、「慶応3年1月11日から同8月5日までは 杉浦の日記、そして同8月6日から同11月22日までは渋沢の日記が基になっている」ことを突きとめた。したがって、本書の特に公務に関する記述は、冒頭から3分の2が杉浦の記録を、残り3分の1が渋沢の記録を多く基にしていることになる。

 

杉浦の帰国後に昭武に随行して欧州を歴訪した渋沢は、ベルギーでは大規模な製鉄所やガラス器の製造所を、イギリスでは新聞社の精密な印刷機や大英銀行を視察している。

具体的に見てみると

・ 国力の源は軍事力ではなく、経済力であることに気がついた。

・ 経済力を増すためには、経済活動に誰でも参加できる民主的な競争社会が必要である。そういった社会を創るためには「民」が力をつけて「官」を主導しながら社会を改革し官尊民卑を打破することが不可欠だと学んだ。

・「民」が力をつけるためには、公益を追求するという使命や目的の達成に最も適した人材と資本を集め、事業を推進させるという合本主義が有効であることを学んだ。

 

パリで、紙幣、株券、公債の仕組みを体験した。幕府崩壊が間近いと予測した渋沢は、昭武の留学費用を捻出するため、フロリヘラルトの勧めに従い政府公債と鉄道債券を購入した。帰国時には鉄道債券の売却益から、昭武一行や欧州各都市への幕府留学生の帰国費用まで賄ったうえ、剰余金まで生み出した。銀行家としての渋沢の萌芽を見ることができる。

 

 

航西日記 パリ万国博見聞録 現代語訳(本文)

航西日記 パリ万国博見聞録 現代語訳 表紙

航西日記

パリ万国博見聞録 現代語訳

渋沢栄一・杉浦譲

大江志乃夫 訳

講談社 発行

2024年3月12日 第1刷発行

 

1867年のパリ万国博覧会に派遣された幕府使節団に随行した渋沢栄一と杉浦譲による紀行録です。

 

第一章 上海から香港へ

(船中で)食後、カッフェー(コーヒー)という豆を煎じた湯を出す。砂糖と牛乳をまぜてのむ。たいへん、胸をさわやかにする。

 

第二章 インド洋を航して紅海へ

(シンガポールで)裸の子供が小舟に乗って、船の近くに群がり、銭を投げてやると海中に飛び込んで拾ってくる。銅貨を投げると、海中では見えにくいからといい、銀貨でなければ飛び込まない。本邦の江ノ島に行った時のようで、世態人情というものは変わりがないものだ。

 

土地がやせ、飲水も自由でなく、生活が困難なので、どうしても勤勉でなければならない。地味の肥えているか痩せているかの違いは、民の苦楽の違いであることがまざまざとわかる。肥沃な土地に生まれて遊惰安逸に過ごし、こんな土地もあるということを知らずに済むのは、幸いというべきか、また不幸というべきか。

 

第三章 スエズをこえてパリに入る

コルシカは諸山が峨々として雲表にそびえ、名におう仏国初代のナポレオンの出生の地である。当時勃興する竜虎飛嘯の兵威をもって、向かう所、山を巡らし、海を倒すの勢いで、盛名は天下に鳴り響き、功業は千載に輝いたことを追想し、自然の秀れた環境が人傑を生むのであるという考え方の正しさに感嘆した。

 

第四章 パリ宮廷の社交

第五章 ロシア皇帝狙撃事件

(ブローニュの森の競馬で) この日はフランス帝とロシア帝と10万フランずつの賭けをしたが、ロシア帝が勝ったので、その10万フランをロシア帝から直ちにパリの貧院へ寄与したということだ。

 

第六章 パリ万国博覧会を見る

フランスは自国のことだから、その得意を示すことが目的なので、会場の半ばを占めている。 イギリスはその1/6をしめ、プロイセン、ベルギー、南北ゲルマン連合州、オーストリアはいずれも1/16を占め、ロシア、アメリカ、イタリー、オランダ、スイスは32分の1にすぎず、メキシコ、スペイン、トルコはその半分で、ポルトガル、ギリシャ、デンマーク、エジプト、パシャ(ペルシャ)、アフリカなどはまたその半分にすぎない。我が国の区域もこれらと同等で、これを清国、シャムと三分して配置したが、我が物産が多く出品されたので、ついにそのうちの半分以上を確保するに至った。

 

各国が現に用いている金銀貨幣の見本を集めたところがある。我が国の大小判、一分銀、二朱金、一朱銀も並べ、欧州その他各国の円い貨幣の中で、ひとり方形をしている。尺度量衡も各国が現に用いているものを集めて並べている。我が国の升なども、他の円形の中で方形をしているのが特に目立った。

 

(パリ万国博覧会の)会場は、欧州人でも1週間を費やさねば、普通には全部を見おおせない。まして、学術真理に関係する諸物品について、その原理に遡って、その根拠までを考究するには、学識の優れたものでなければできない。我輩は言語が通ぜず、識見も優れていず、おまけに公務上の交際などがあって、観覧に数日間をかけるなどということができないので、まったく夢の中で仙人の国に遊んだようで、ただぼんやりとその光景の一班を記しただけである。

(夢の中で仙人の国に遊んだよう、という表現がいいですね。今の万博に行った人も通ずるかもしれません)

 

第七章 博覧会の褒賞式

第八章 博覧会における日本の評判

日本の煙管を吸うには指先でタバコを豆粒大に丸め、これを管の先につめるので、一吸いで終わってしまう。これで、日本の喫煙者は、しばしば一日に百管も吸うものがある。

 

(日本の曲芸師を見て) リュリポウという国の王が、その執政を選ぶにあたって、長い棒をたて、これに人をのぼらせ選んだという伝説があるが、その王が昨夜の演技場にいたら、すぐさまにこの技にたけた経世学者氏を執政の長に挙用したに違いない。

 

第九章 スイスおよびオランダを見る

夕方8時に、スイス国のバールという所に着いて、三王という名のホテルに泊まった。このホテルは有名なランヌ(ライン)という大河に面していて、川水が手すりの下をひたしており、夜景は特に清々しく、暑さを忘れさせ、いささか 旅の疲れを慰めることができた。

 

ユングフラウとは、処女の意味で、この山が険しく高くそびえているので、人がまだ登ることができないということを意味しているそうである。スイス中で最も優れた景色であるということだ。

 

第十章 ベルギーおよびイタリーを見る

第十一章 マルタ島を巡歴

第十二章 イギリス巡歴の旅

 

 

ふる里 あらかわ

ふる里 あらかわ

ふる里 あらかわ

荒川郷土史編集委員会 編集

荒川連合自治会 発行

昭和55年5月1日 発行

 

本書は兵庫県姫路市旧荒川村(現在の荒川小学校区)の地理・歴史・風俗を記したものです。

 

第一章 荒川の地形と地質

第一節 荒川の地形

冑山の西麓を流れ中地の北を西新し町坪・玉手の東を南流する水尾川と、大井の水源(今宿南の清水)より荒川山塊の東麓を南に流れ西町坪を経て水尾川に合流する大井川の2つの大きな水系がある。

 

現在の大井川は、姫路藩主榊原忠次が夢前川を御立横関において改修し現在の河道に付替工事を行うまで置塩川とも呼ばれ、御立横関から蛤山の東を南流し、今宿・四ツ池の東を通り、水尾川の下流において合流していた。(『播磨鏡』『 土地条件調査報告 京都播磨地理』)。p5

 

第二節 荒川の地質

 

第二章 あけぼのの荒川

第一節 埋蔵文化財にみる

第二節 播磨国風土記にひらう

私たちの地区を古書のうえに最初に見出すのは『播磨国風土記』の伊和里である。p24

 

第三節 律令制にひらう

都が京都の平安京にうつされ、平安時代が始まった。この時代の歌人である大江千里の領所として玉出村(玉手)の名が『播磨鑑』に記されている。p39

 

第三章 ひらけゆく荒川

第一節 伊和西のその後

『蔭涼軒日記』 によると、この付近では文明18年(1486)正月 6日、英賀において山名軍と赤松軍が合戦し、山名方の垣屋越中守・同息孫右衛門ほか数十名が戦死している。p45

 

第二節 中世荒川の発展

より細かな第二次氾濫原(荒川)が続くが、河川はこれより東西に分かれ、東へ水尾川、西へ大井川(済川)の水系をつくり、南流して播磨灘に注いでいた。当地区のほぼ中央を走る旧の室街道は多くの屈曲をみせながら、これら河川をわたりなおし、当地を西南より東北に貫き山陽道に通じていた。室町末期に英賀より上陸した一公卿がこの街道を利用して町坪城(構居)を通り姫路に向かっている記録も残っている。なおこれら河川が全て西に付替えられ菅生川と合流して現在の夢前川が完成するのは近世の明暦年間 (1655~58)になってからのことである。p47--48

 

『播磨鑑』には吉川氏(次郎)が英賀領主であった頃、室津の加茂明神に一町の坪田を寄進したのが町坪村名の起源と伝える。その頃吉川氏は播磨灘の海上権を掌握しており、要港である英賀や室(室の津)にもその勢力を扶植していたことは十分に考えられる。p51

 

関東公方足利持氏の乱(永享の乱)とそれに続く結城氏朝の乱(結城合戦)が勃発した。幕府は軍を東下させ鎮圧にあたったが、播磨国でも守護赤松氏は軍船三百余艘にて播磨・備前沖を警護したのに対し、英賀三木氏も五十余艘にて播磨西海岸を守り、結城に加担して海路上洛する刺史を防いだと伝える。このとき兵船の苫を編んだところが苫編村名の起源となったとも伝えている。(『英城日記』)p54

 

『播磨鑑』 にはいわゆる播磨十水は赤松義村が定めたという説を掲げる。

(10)大木の清水(飾西郡英賀村)p55

 

応仁の乱後、赤松氏が衰退の途をたどったのに対し、当地区にかなりの影響を及ぼした領主として飾西郡英賀城に拠った三木氏がある。英賀港は瀬戸内海航路の寄港地として古くから開け、英賀彦・英賀姫を祀る英賀神社も往古より鎮座していた。鎌倉初期には吉川氏がここに拠り、赤松満祐も弟祐尚を入れてこの地を守らせた。p57-58

 

これまでしばしば引用してきた『英城日記』は英賀落城後、各地に散在していた家記の類を合わせて作ったもので、古来より疑問の書とされてきた。しかるに近年になりはじめて英賀の実態にふれた史料が解明されつつある。すなわち『兵庫県史』(第3巻)には本願寺十世証如の日記 『証如上人日記』を引用して英賀町衆の存在を究明している。同書によれば英賀は六人の長衆・11人の中老衆などにより運営される英賀三ケ村として記され、すみや甚兵衛・御厨五郎左衛門・市場与三兵衛・英賀徳正などその人名の大半は英賀の長衆であり、これら英賀衆の実態は『英城日記』にいう三木氏のような武家でなく、守護赤松氏より派遣され英賀代官により支配され、殷賑な町場を形成していた富裕な交易業者であったと考えられる。

戦国期に入り守護勢力が弱まり、町衆の自治能力が高まって、播磨の守護家や有力大名と姻戚関係を結ぶまでに成長した英賀衆は城郭都市として急速に武士化をとげる。天文10年(1541)には領内三十余ケ村と記され(このうちに当地区の英賀郷・岩西郷も含まれる)揖東・飾西・印南の各半を領する有力な領主となって三木通秋のような武将をうみだすのである。p58-59

 

『信長公記』には「この勢いに乗って直接、阿賀へ攻め寄ると、安芸へ人質を提出していた敵方は舟に乗って退去した。それで、戦闘もせずに阿賀の寺内町を占領した。羽柴秀吉は当時の情況を視察し、」(この部分、中川太古訳『現代語訳信長公記』より) とあって一戦にも及ばず落城したと記している。

 

第三節 幕藩体制と荒川

第四節 近代の荒川

姫路藩から

明治4年7月姫路県へ

明治4年11月飾磨県へ

明治9年8月 兵庫県

 

第五節 地域の変貌と未来

荒川地区は、昭和20年 7月3日夜の第2回目の姫路空襲で被害を受けた。

 

自治会の起こりは、古く大化の改新(645)の時の「唐令五保の制」に学び、五保の制を定めたのが始めであると言われている。近隣五戸をもって組み、その一戸が「長」となった、いわゆる「五人組」である。その後、戦乱のたびごとに自衛組織の役目を果たしながら「十人組」に発展し、次第に集団化したのが村となり町となったのである。p112

 

第四章 荒川めぐり一歩記

第一節 お宮をたずねて

第二節 お寺をたずねて

第三節 遺跡をたずねて

『宇和旧記』(板島丸串城主西園寺公広伊勢参宮の記) によれば、天正4年(1576)6月、公広の弟宣久が伊勢参宮の際に瀬戸内海を航行し英賀より上陸、英賀に4日滞在して後、町坪構居、姫路構居を通り、山陽道を三木に向かっている記録がある。

 

第四節 村々をたずねて

天正3年(1575)春、英賀城下を出発して西から北、東から南、最後に再び英賀城下帰着。その間の見聞をもとに、芦屋道海が著した「近村めぐり一歩記」。p225

 

第五章 くらしの暦

第一節 年中行事

節分相場 広峰神社で行われた節分祭の夜の行事で、もとは姫路市をはじめ、播州・阪神各地から相場師多数が参集して、大かがり火を囲んで、売った、買った、と株式・そうめん・米麦などの取引を行い、時価より高い予想相場を立てて 祝った。p275-276

 

第二節 人の一生

第三節 農村歳時記

第四節 子どもの遊びとわらべ歌

 

第六章 資料編

 

 

フィンランド 美しい建築とデザインを訪ねて

フィンランド 美しい建築とデザインを訪ねて 表紙

私のとっておき 57

フィンランド 美しい建築とデザインを訪ねて

ラサネン優子 著

産業編集センター 発行

2026年5月22日 第一刷発行

 

本書は、ガイドブックとはひと味違う切り口で、フィンランドの建築とデザインをテーマに、ヘルシンキと郊外の小さな街を訪ねて、歴史的建造物からフィンランドを代表する名建築、近年人気のユニークな建築まで幅広く取り上げています。

自分も一度ヘルシンキに行きましたが、清潔感の漂う街中に、白を基調としたきれいな建物が並んでいたことを思い出します。

 

Helsinki(ヘルシンキ) 美しいヘルシンキの街を歩く

Nro 1 フィンランディアホール

Nro 2 ヘルシンキ・ミュージックセンター

Nro 3 アカデミア書店

Nro 4 スウェーデン劇場

スウェーデン支配下時代の文化を残す目的で1860年に設立された国立劇場。

フィンランドの公用語であるスウェーデン語で行われ、そのほとんどの公演にフィンランド語とスウェーデン語、時折英語の字幕がつきます。

 

Nro 5 グッド・シェパード教会

Nro 6 ヴィーッキ教会

Nro 7 ヘルシンキ現代美術館

美術館の名前の「キアズマ」とは、視神経が交差する脳内ポイントに由来しています。

 

Nro 8 ホテル・ランタプイスト

Nro 9 リクハルディンカトゥ図書館

Nro 10 アテネウム美術館

Nro 11 ポホヨラ保険会社ビルディング

Nro 12 国会議事堂

Nro 13 ヘルシンキ市庁舎

マーケット広場の向かいにあります。バルト海に面して建っているため、大型フェリーやボートで入港すると、よく目立ちます。

 

Nro 14 フィンランド国立劇場

Kolumni ヘルシンキのアール・ヌーヴォー建築

Nro 15 ホテル・カタヤノッカ

Nro 16 レストラン・ノッラ

Nro 17 テンペリアウキオ教会

Nro 18 ウィンターガーデン

Nro 19 オーディ・ヘルシンキ中央図書館

ロシアからの独立100周年を記念して国から読書好きの国民への贈り物として建設されました。

 

Nro 20 カフェ・エンゲル

Nro 21 オタヴァ出版社と書店

Nro 22 カフェ・エクベリ

Nro 23 ロバーツ・コーヒー・ユーゲンド店

Nro 24 スカンディック・グランド・セントラル・ヘルシンキ

Nro 25 カッペリ

Nro 26 ヘルシンキ市立博物館

Nro 27 ヘルシンキ市立劇場

Nro 28 ヘルシンキ中央駅

Kolumni ヘルシンキの街を彩る花壇

Nro 29 ソロ・ソコス・ホテル・トルニ

Nro 30 ホテル・セントジョージ

Nro 31 レストラン・サヴォイ

Nro 32 カフェ・サヴォイ

Nro 33 フィンランド国立図書館

フィンランド 最古の図書館

 

Nro 34 ヘルシンキ大学中央図書館・カイサハウス

Nro 35 アモス・レックス

Nro 36 ヘルシンキ大聖堂

Nro 37 ファッツェル・カフェ本店

 

Espoo(エスポー)

Nro 38 フィスカルス社員食堂、キッチン1649

Nro 39 ハラルド・ヘルリン・ラーニングセンター

Nro 40 エスポー近代美術館

Kolumni フィンランド企業の社員食堂を覗いてみよう!

 

Kirkkonummi(キルッコヌンミ) 歴史を辿る、小さな町で

Nro 41 キルッコヌンミ図書館

Nro 42 ヴィトレスク

 

Fiskars(フィスカルス) アーティスト村をのんびりと散策しよう

Nro 43 陶芸美術館・クム

クムは韓国語で「夢」の意味

 

Nro 44 レストラン・クパリパヤ

 

Tammisaari(タンミサーリ) 海辺の町、旧市街を散歩

夏の避暑地として人気で、スウェーデン語を母国語とする人たちが多く暮らし、道路標識やスーパーマーケットなど公共の看板はスウェーデン語が優先的に表記されています。

 

Nro 45 アートハウス・チャッペ

Nro 46 カフェ・ガムラ・スタン

Kolumni タンミサーリで評判の良いレストラン

 

Turku(トゥルク) スウェーデン文化が色濃く残る古都を訪ねて

Nro 47 トゥルク美術館

Nro 48 聖ヘンリ・エキュメニカル礼拝堂

Nro 49 トゥルク大聖堂

Nro 50 トゥルク市立図書館

Kolumni トゥルクでおすすめのベーカリー

 

Paimio(パイミオ)

Nro 51 結核療養所

 

Jyväskylä(ユヴァスキュラ) 豊かな自然に囲まれた文化都市

Nro 52 ノヴァ病院

Nro 53 ムーラメ教会

Nro 54 セイナッツァロの村役場

 

Helsingin metro(ヘルシンギン・メトロ) 世界最北端、ヘルシンキのメトロ駅をご紹介

Nro 55 カンピ駅

Nro 56 ラウッタサーリ駅

Nro 57 アアルト大学駅

Nro 58 フィンノー駅

Nro 59 キヴェンラハティ駅