レーニン中央博物館タシケント分館(現・ウズベキスタン国立歴史博物館)

レーニン中央博物館タシケント分館

画像は1987年、ラジオ・タシケントから頂いた「レーニン中央博物館タシケント分館」の絵はがきです。

ユニークな外観ですね。また歩いてる女の子たちの姿もいかにも旧ソ連という感じです。

タシケント市について他の方のブログを拝見していたら、この建物は残っており、現在はウズベキスタン国立歴史博物館として使われていることが分かりました。

改めて調べてみますと、

まず歴史は

1876年 トルキスタン民俗学博物館として設立

1919年2月 トルキスタン国立博物館と改称

1966年 タシケント大震災

1970年 博物館の場所を移転、ロシアにあるレーニン中央博物館のタシケント分館として改装

1991年 ウズベキスタン独立後に、現在の名称となった。

です。

 

1966年のタシケント大震災の後、旧ソ連の建築家らによって同国のモデル都市として再建された経緯があり、その際にはイスラム文化や地元の風土を反映した独自のモダニズム建築が誕生しました。

その際、直射日光を防ぐためのファサードの模様は、ウズベキスタンの文化に基づくデザインが取り入れられました。

現在の名称となってからは、内部に設置されていたというレーニン像は撤去され、考古学、民俗学、歴史学などウズベキスタンの歴史を伝える様々な文化財が収蔵されています。

ただ残念ながら、2024年6月4日からは改修のため休館中です。開館時期は現在のところを未定のようです。

 

(Wiki 及び Google マップ、そして美術手帖のホームページを参考にしました)

 

 

記憶の中のソ連 中央アジアの人々の生きた社会主義時代(第6~9章)

1987年発行のラジオ・タシケントのベリカード

第6章 ソ連時代のコミュニティ観 マハッラの事例から

マハッラ

ウズベキスタンの近隣コミュニティ

ソ連時代以前から現在のウズベキスタンがある領域に存在した都市における行政単位

各マハッラはアクサカル(直訳は「白い髭」)と呼ばれるリーダーによって運営されており、そのアクサカルは、住民により選出された後、都市の支配者からマハッラ長に任命された。

 

ソビエト政権によるマハッラ政策は、植民地宗主国が植民地で社会の伝統的な仕組みの中から自国の目的を達成できる仕組みのみを維持させるという指摘と一致している。ソビエト政権は、二重政策を実行するために長老や住民のみならず学者や知識人を参加させ、マハッラをソビエト社会主義政府のイデオロギーのために利用としようとした。

ソビエト政権は行政を行うために、各地にソビエト議会を設け、その決議を実行するために執行委員会を設けた。マハッラは、そのような都市の地区執行委員会の管轄のもとに置かれた。

 

証言: 何よりもマハッラの力はその教育にあると思う。お年寄りへの尊敬やお互いに対する思いやりを育てるのはとても難しいことだから、小さい頃からそのようなことを家庭とマハッラで教えるのに私は大賛成だ。今でもメトロやバスなどに乗ると若い人が席を譲ってくれる。

 

ソ連時代のマハッラの非公式で人々の伝統的なつながりに基づいていたものに対して、現在のウズベキスタンではマハッラの「公式化」が着実に進んでいる。これを推進する政府の狙いは、行政機能の不足を補うためにマハッラを組織化し、様々な課題を住民レベルで解決することである。

 

第7章 宗教と社会

証言: 祖父は当時のコルホーズ(集団農園)事務所で警備員をしていた。夜中にコルホーズ内の事務所に泊まり込み、朝になると家に帰るシフト制だった。彼は、仕事場でもお祈りをするようにしていた。お祈りの場所として事務所の前に建てられた大理石のレーニン像の下を選んだ。その理由は、像の下がいつも清潔でキラキラと光っていたからだそうで、毎朝お祈りを欠かせなかった。

ある日、コルホーズの農園長と共産党組織長が早めに出勤すると、事務所の窓から祖父がレーニンに向かってお祈りをしているところを目撃した。2人は走ってきて、大声で「お前は何をしているんだ!なぜレーニンの足元でお祈りしているんだ」と叫び、「レーニンは無宗教者で、無神論国家を創った偉大なる人物だ。ここはお祈りするような場所じゃない」と祖父を追い払おうとした。

そこで祖父は「お祈りとは一番清潔で綺麗な場所でするものです。私たちの事務所周辺ではここしかありません!」と、レーニン像の足元を指した。そうするとコルホーズ長と共産党組織長は返答に困り、祖父に二度とそのような行為をしないように注意しただけで許したらしい。これも当時の矛盾だらけの社会の様相だといえるだろう。

 

共産党員は公式には宗教に対する愛着を表明しなかったが、宗教の役割は認識でしたようである。隠れて宗教儀礼を行っていた例も少なくない。このような矛盾する状態がソ連時代のウズベキスタンに出来上がった理由は

・宗教はこの地域で歴史的に根付いていたこと

・人々が伝統の一部を構成したこと

・無神論教育が人々にそれほどの希望を与えることができなかったこと

・何か良くないことが起きた時には宗教が最後の頼りになったこと

 

複数の妻を持つ理由は田舎に男性が少ないことから、女性が結婚して子供を産むためには同じ村の妻子持ちの男性と結婚するよりは他に方法がないからであった。

 

第8章 ソビエト国民の諸相:民族と言語

しだいに各共和国には、その共和国の主要民族の言語で教える学校(一般的に「民族学校」という)と、そうでない学校(ロシア語学校)が現れた。民族学校の中でも学年によりロシア語クラスと現地語クラスに分けられた。どちらかの学校で子供を学ばせるのかは親が決めたが、大半はロシア語学校を選んだ。当時の制度は、ロシア語がわからないと良いキャリアが手に入れられなかったため、わが子により良い将来を願う親は皆そうしていた。それに加えて、ロシア語学校ではモスクワや、レニングラード、その他のロシアの大学で教育を受けた人が教壇に立っていたので、教育レベルは民族学校より高かった。

 

ルシー

ソ連時代に共産党やソ連政府の教育やイデオロギー、人事などの政策により、ロシア語・ロシア文化を極端に美化し、日常生活や仕事場で母語であるウズベク語を避け、ロシア語のみで話そう(書こう)としたウズベク人や非ロシア人のこと。少なくなかった。

 

人事面以外のことでウズベク人の反感を買ったのは、例えば、圧倒的な数の町の通りにロシア人かスラブ系もしくは非ウズベク人の名前が名付けられたことである。彼らはそれをロシア化政策の一環とみなし、それこそがウズベク語やウズベク文化に対する脅威ととらえた。

 

タシケント大地震はウズベキスタンの歴史の中でも衝撃的なものであると同時に、その社会の将来を決定づける出来事となった。タシケント大地震は1966年4月26日に起き、震度8以上だったと言われる。

 

壊れた建物の解体は重機が足りず戦車も使われた。戦車を建物にぶつけて壊していた。

 

第9章 独立後に現れたノスタルジー

独立後の公式な『ウズベキスタン史』はソ連時代をそれほど評価せず、むしろソビエト政権は ウズベキスタン国民の言語、宗教、文化といった独自性や自由を奪ったと描いている。

 

証言者が語るのは、ソ連時代には失業者がなく、ホームレスの人も存在しなかったことである。また、現代社会が直面しているテロや民族間の緊張もほとんどなく、皆お互いに純粋な気持ちで接していたという。さらに、国家の構成に関しても、現在欧州連合がようやくできたが、その構造はソ連の中ですでに実現されていたもので、欧州連合ができる70年前にソ連ではその段階に達していたという。

(ソ連をEUの先駆者と見なしているという考え方が興味深い)

 

ソ連時代が多くの人にとって魅力的に見えるもう一つの理由は、ソ連という国が独裁的で共産党の圧倒的な支配下にあったにもかかわらず、今のウズベキスタンより自由な雰囲気であったという国民の認識からである。

また何に怯えることもなく、家に鍵をかけて生活することはほとんどなく、夜遅くまで出かけていても帰り道を不安に思うことはなかった。それだけ社会全体が安定しており、それが人々に安心感を与えていたという。

証言者の多くが強調するのは、ソ連時代の歴史が非常に前向きなものであったという点だ。貧しい社会が少しずつ良くなっていく様を歴史の教科書から学ぶのではなく、身をもって経験したのである。

 

証言: 経済が安定してくると、皆が生活や仕事に関して楽観的になりすぎ、50年間も遊んで、(戦争での)勝者としての立場を楽しんだ。あらゆる場で私たちは勝者であると発言し、他の国を見下してきた。その結果、世界がどんどん発展して、私たちは追い越されてしまったのだ。私たちは楽観的になりすぎて、ウォッカを飲んで踊り楽しんでいたのだから、これは当然だ。

 

証言: 当時「ポド・プリラフカ(売り場の裏)」という現象が起きていた。これは良い服は売り場を通してではなく、一般の客の目に触れないところに隠しておき、高い値段でも出してくれそうな客が来た時に店員が密かにその商品を見せて、値札以上の金額で売りつけることだ。上乗せ分は店員が手にして、レジには値札の金額だけが入る。そんなことがよくあった。

 

ソ連時代のウズベキスタンは他の世界から孤立したイメージがある。確かに、国民の大半はソ連以外の国へ旅行する機会がなく、ウズベキスタン国内かソ連各地を巡っていた。海外に出ることを許される人は少なく、その人たちも資本主義国ではなく、社会主義国に出かけることだけが許されていた。その政策の主な目的は「腐敗とモラルの低下を引き起こす欧米文化」がソビエト国民を直撃しないようにするためだった。そのため、海外に行く人は必ずそのモラルや考え方に関して面談を受け、海外へ出すことに相応しい人物なのか評価され、判断が下された。

 

記憶は特別な注意を要するものである。過去を過剰に美化し過去にノスタルジーを感じながら生きることは今の自分を否定することになるように、過去を拒否し、今の自分を過去から切り離して生きることは社会が独自性を失うことにつながる。

 

おわりに

ソ連の中でもっとも不満だったこと

・宗教の自由が制限された

・民族の伝統の自由が制限された

・政治的参加の自由がなかった

記憶の中のソ連 中央アジアの人々の生きた社会主義時代(第4・5章)

記憶の中のソ連 中央アジアの人々の生きた社会主義時代 裏表紙

第4章 スターリンの死と時代の終わり

証言: ラジオが24時間体制でスターリンの病状を伝えていたのを覚えている。2~3分ごとに「こうなりました」、「ああなりました」とラジオから聞こえてきた。

 

スターリンの死は、まず共産党や政府の権力争いの発端となった。その中でもスターリンに最も近い位置にした部下のベリアと、彼に反対するフルシチョフとその協力者の間で対立が深まった。

スターリンの死後、ベリアの影響力は増すと思われた。それは内務省や秘密警察とのこれまでのネットワークを背景とした、現実味を帯びたものであった。彼も自身の影響力を維持し拡大させようとしていた。

それに対してフルシチョフと他の共産党幹部はベリアの巨大な権力を牽制することを考えていた。その結果、1953年6月ベリアの解任と逮捕・死刑が執行された。それがきっかけとなり、1956年の全ソ連共産党20回大会では、ベリアのこれまでの犯罪行為の公表と、スターリン時代の弾圧に対する批判が行われた。ついに、スターリン時代の秘密主義政治が終わりを告げ、多くの共産党員の命が救われたのである。

 

スターリンの死に対する反応

・ スターリンの死を個人的な悲劇として受け止め、心から嘆き悲しむ人

・ その死により自分たちの生活や将来に不安を覚える人

・ 限られてはいるが、その死を喜んだ人もいた。弾圧や命を狙われる危険性から解放された人たち

特徴的な点としては、これまで見たことがないほど多くの人が涙を流したことが挙げられる。

レーニンが亡くなった際にこうした光景は見られただろうか。

証言: スターリンは、恐ろしいほど厳しいやり方で国を統治してきたが、その厳しさの中に優しさがあるというイメージを人々にすり込むことに成功していた。だからこそ彼が亡くなった時、人々は外に出て大声で泣いたんだ。

 

彼らにとって、スターリンは父親のような存在であり、彼抜きに自分たちの生活を想像することはできなかった。スターリンは最も国民の感情に近い指導者であった。そのイメージが維持できたのは、いつも同じ服装していたことと関係が深く、私欲のない彼の性格の現れであるとみられていたからだ。そのイメージとカリスマ性もあり、彼の存在は多くの人にとって精神的な支えであった。それだけに、彼が亡くなった時、パニックを起こした人は数えきれないと言われている。

 

第5章 停滞の時代か、黄金時代か

ブレジネフとラシードフがソ連及びウズベキスタン共産党の指導者として君臨した時代は、これまでになく長期にわたったため、この時代の評価は人によって大きく異なっている。

 

フルシチョフは農業改革の一環としてトウモロコシの栽培を促進した結果、店からパンが消えたことを思い出す人は多い。フルシチョフのことを「コーン作り」と記憶してる人も少なくない。

フルシチョフに対する人々の評価はあまり高くなく、記憶にも鮮明な形では残っていない。スターリンのようなカリスマ的な存在と比べると、フルシチョフへの尊敬度はかなり低かったようにみえる。

 

ブレジネフは、1906年ウクライナで金属工場の労働者の家庭に生まれた。一家はウクライナに住むロシア人だった。

プレジネフの最も大きな功績は、1956年にカザフ共和国共産党第一書記の時に推進した処女地開拓事業である。

ブレジネフの政治スタイルは、リスクを冒したり何かを決断したりというよりは、安定とバランスを保つことに特化したものであった。それが彼の強みでもあり、弱みでもあった。

また温厚な政治家だった。

私生活では狩猟を好んだ。彼の機嫌をとるために、近くに猪を走らせ、それを撃たせるという演出も行われた。そこではプロのハンターが密かにブレジネフと同時に射撃することによって撃ち損じを隠し、書記長をいつも上機嫌で帰したという。

また勲章やメダルをこよなく愛したことで知られ、彼にはかつて前例がないほどの勲章が授与された。その数は200ともいわれる。

 

ブレジネフは温厚な人柄にもかかわらず、厳しい決断と処置を取らざるを得ない時期もあった。まず、1968年チェコスロバキアで起きた「プラハの春」に対してである。

そしてもう一つは、1979年12月のアフガニスタンへの軍事侵攻であった。

 

ソ連時代のウズベキスタンに暮らした人の中には、ブレジネフ書記長の時代をラシードフ時代と認識している人が少なくない。

 

ソ連時代の指導者の評価で特徴的なのは、権力を握って強い実行力をふるっている間は褒めちぎり、引退すると今度は批判して中傷する傾向があることである。ラシードフもその例外ではなかった。

しかし、独立後のウズベキスタンでラシードフは英雄視され、彼の名誉回復につながった。それには2つの理由がある。1つはカリモフ政権にとって、ウズベキスタン国民を統合し、自己アイデンティティを確立するには人々を動員する国民的英雄が必要だったからである。

また国民にとっても、ラシードフの仕事への姿勢は大変評価が高く、人柄や国民とのコミュニケーション能力を評価する人も非常に多い。

 

綿花事件

モスクワからの要求に応じるために、ラシードフらは綿花の生産量を水増しして報告した事件。

ソ連全土で捜査への支持や横領に対する厳しい 措置を求める声が上がったが、ウズベキスタンの国民は異なった見方をしていた。モスクワの狙いはウズベキスタンの指導部に圧力をかけ、これをつぶすことにあるとみたのである。

彼の謙虚な私生活から判断して、その資金は自分のためではなく、ウズベキスタンのために使ったと信じている。首都であるタシケントのメトロ(地下鉄)や多くの建物は、巨額の資金なしには建設不可能であり、仮にラシードフが不正をしたとしても、それは国民のためであり、タシケント改善、美化するためには仕方がなかったとみる人は多い。

 

ラシードフは評価されてるが、過大評価や先入観が影響してる可能性もある。その理由は、

・ ラシードフ時代と現在のウズベキスタンにおける経済・社会状況を比べる国民の多くは、かつての生活向上を評価し、それに対するラシードフの貢献を課題に評価する傾向にある。

・ラシードフをウズベキスタンの国益のためにソ連中央と戦った英雄とみなす

・ソビエト政権と現政権によるラシードフの過小評価

 

現在、ソ連の1960-80年代の時代を「停滞の時代」と名付ける研究者は多い。しかし、その時代は生活環境の面ではむしろ向上したと受け止められることもある。

人々は、給料が良かったこと、食べ物や洋服が買えたこと。他の共和国に行ってそこで暮らす人々の生活や考え方を学んだことなどを懐かしい経験としてあげている。

 

証言: ブレジネフの死後、頭に痣がある新しいシャーが出てきた。ゴルバチョフという人だった。ゴルバチョフはブレジネフ以上に演説が長くて内容も複雑で、全くと言っていいほど理解できなかった。

 

証言:ブレジネフとラシードフの時代は物が安くて何でも手に入り本当に良かった。しかし、唯一私が不満に思っていたのは、綿花の収穫に若い女性やまだ幼い子供までも動員して、何ヶ月も手伝わせたことだ。

 

多くの専門家は、この時期を評価する際に政治やガバナンスのあり方、政権と一般国民の間の関係、政治体制の本質などを評価の基準にする が、一般国民は生活水準という目線でその時代を評価する。

 

記憶の中のソ連 中央アジアの人々の生きた社会主義時代(第1~3章)

記憶の中のソ連 中央アジアの人々の生きた社会主義時代 表紙

記憶の中のソ連 中央アジアの人々の生きた社会主義時代

ティムール・ダダバエフ 著

筑波大学出版会 発行

2010年9月10日 初版発行

 

本書は、ソ連の誕生から崩壊に至る70年の歴史を、ウズベキスタンの人々に焦点を当て、人々の記憶の観点から考察したものです。

そのために、社会主義時代の出来事について彼らの生の声をインタビュー形式で記録しています。

自分はウズベキスタンにも行ったことはないですが、1987年にラジオ・タシケントに受信報告書を送った時に、井上靖の本でビーフストロガノフの起源がわからないと書いてあったので、それについて手紙で質問したら、丁寧な回答を頂いて感激した思い出があります。

なお、表紙の画像は、1929年、ブハラにおいて、ブルカを被った女性も参加した会議への代表者の出発風景です。車に座っているブルカ姿がユニークです。

 

第1章 近現代史の概観

ウズベキスタンという国の枠組みができるのは、ソビエト政権下の1924年のことであり、それ以前の歴史は、中央アジア南部オアシス地域の歴史として展開してきた。

 

革命後も帝政時代の行政区分に基づいていたトルキスタン、ブハラ、ホラズムのソビエト共和国を全て解体し、代わりに中央アジア史上初めて民族別の共和国を編成する1924年末の「民族・共和国境界画定」であった。ウズベキスタンをはじめ、現代の中央アジア諸国の原型はこの時に成立し、順次ソビエト社会主義共和国としてソビエト連邦に加盟した。

もっとも、ウズベク人の国(ウズベキスタン)と言っても、ここにはタジク、トルクメン、タタールなど 歴史的に多様な民族が居住してきた地域であり、住民の民族的な構成は決して一様ではなかった。

 

中央アジアは帝政ロシアによる植民地化を経て、ソビエト体制の中で巨大な変容を経験し、ソビエト文明を受容することによって現代化の道を歩んだ。これは南接するアフガニスタンやイランをはじめとして他のイスラーム諸国とは大きく異なる現代史である。

中央アジア人がソビエト文明から享受した要素

・共和国の枠組みと民族エリートの形成

・農業と工業生産力の飛躍的な増大

・平等な法と社会制度

・教育の普及と科学技術の発展

・現代文化の受容

・保健衛生の向上

・都市化の進展と交通運輸システムの整備

・ムスリム女性の解放と社会進出

ソビエト体制の負の要素

・共産党の一党独裁やイデオロギーの統制

・スターリン時代の大粛清

・連邦内での経済的な南北格差

・民族文化の退潮(特に言語面でのロシア語の優位)

・イスラームに対する抑圧

 

第2章 スターリン時代におけるソビエト化と一般国民の生活

スターリン時代の特徴

・工業化

・経済成長

・教育や科学研究分野の発展

・識字教育の徹底

・第二次世界大戦での勝利

・ソ連の国際的な地位の確率

・一般国民の生活の少しずつの向上

スターリン時代の犠牲

・独裁政治

・反対派に対する厳しい弾圧

・民族の移住政策

・集団化政策とその被害

 

証言: 朝の5時に工場の仕事が始まるので、朝の3時頃に1台のトラムが走って回り、それが人々を仕事場まで運んでいた。

 

脱クラーク化

普通の住民以上の生活を送り、資産を持ってる人に対し、ソビエト政権は農場への自発的な参加(事実上、資産の自発的な寄付)を呼びかけ、それに応じない場合は力ずくで集団化を開始したこと。

 

ソビエト政権に立ち向かった人々はいくつかの名称で呼ばれていた。最も多く使われたのは、バスマチ(ウズベク語で強盗、泥棒)やコルボシ(部隊長)である。彼らは特に集団化に反発していた。なぜなら、彼らの中には裕福な人が多く、集団化の過程で財産、家畜や土地を失った人が多かったからである。

 

現在、スターリン時代の弾圧に対する批判が多く聞かれるが、その責任は誰にあるのか国民の間でいまだに多くの議論がある。スターリンの指導のもとに行われたことではあるが、彼は実態をよく把握しておらず、弾圧を命令し実行したのは彼の部下で秘密警察長官のベリアだという人も少なくない。

ベリアにより責任があると考える理由は、ソ連時代のプロパガンダである。もともとスターリンには資産もほとんどなく、服は1着しかなかったと言われ、一般国民と同等の生活を送り、痛みや苦しみを分かち合っていたとされる。

 

第3章 第二次世界大戦

1939年には、すでにヨーロッパにおいて第二次世界大戦が始まっていた。ウズベキスタン国民が参戦することになるのは、その2年後の1941年6月22日にドイツ軍がソ連の領内に攻め入ってからである。

(注 ここで強調したいのはウズベキスタン領内で行われなかった戦闘に参加した多くのウズベキスタン人がその戦いを、祖国(つまりウズベキスタンではなくソ連全体)を解放するためのものとして認識していたことである)

 

冷酷な運命に遭遇したのは、ドイツ軍の捕虜となった兵士たちである。ソ連兵捕虜に対するドイツ軍の扱いは過酷を極めたが、その後ソ連軍によって解放されたとしてもドイツ軍の捕虜になっていた間、あまり抵抗しなかったり、ドイツ軍に情報を流したと疑われたりすると刑務所に送られた。

 

タシケント市には、日本人抑留者の労働の成果として象徴的な建物がある。それはナヴォイ・オペラ劇場で、現在もタシケントの中心地に建っており、大きさや外見の美しさから周りの建物の中で一際目立っている。

この劇場は、ウズベキスタン国民から憧れと尊敬の眼差しで見られていた。このことは日本人の労働の質の高さの現れである。そしてウズベキスタン再生の大きな一歩となった。

証言: 日本人たちは現場で資材を見ると「こんなものを使ったら、この建物は200年もしないうちに壊れてしまうぞ!」 と怒り出した。

証言: 劇場はタシケント大地震でも壊れることがなく、最近になって修繕工事が行われた。色が剥がれたところを塗り直したり、ひびを隠したりする程度の外見的な工事で終わった。それくらい丈夫に作られていた。

 

 

トンデモ学説をぶった斬ったら比較言語学の入門書になった件(後半)

第4章:民族と語族

――元は同じ言語を話していたのだから、俺たちは兄弟だ!

日本人の先祖を持つ日系人でも、移住先の言語を母語としている人はいくらでもいる。したがって、言語と遺伝子は必ずしも一対一対応しない。

 

マックス・ミュラーという学者。この人は印欧語族の言語を元々話していたのは単一の民族だと考え、それに「アーリア人」という名前をつけた。この概念は後に政治的に好き放題悪用されることになる。

 

第5章:絶対すべての言語を分類するマン

――果たして俺達は分類がしたかったのか?

孤立語

中国語のようにほとんど活用をもたない言語

孤立した言語

規則的な音対応を持つ言語を見いだすことができず、したがって語族の確立も祖語の再建もできないような言語

 

「方言」と「独立した言語」との違いは、言語学的というよりは政治的な問題である。

 

大語族

印欧語族のような、すでに系統関係が確立された(とみなされている)語族と、また別の語族と比較して、さらに広範囲にわたる系統関係を確立しようとしたものである。これもトンデモ。

 

第6章:技術の勝利だ!

――最新の研究結果が示す日本語の起源

 

第7章:終わり良ければすべて良し

――検証に世紀の大発見を必要とする「仮説」の山

内的再建

こうすると綺麗に説明できるという理想をもとに、現実のデータに基づかない祖語の再建をする手法

 

ソシュールの喉元理論は結果だけ見れば大当たりだったのかもしれないが、まぐれ当たりである。

 

第8章:比較言語学の野望

――まだ見ぬ世界祖語を求めて、俺達の冒険は続く!

全ての言語の単一の先祖、すなわち「世界祖語」の存在を想定し、その再建を目指すという試みが、細々とながら続けられてきた。

 

「トンデモ偽史」を主張する書籍で披露されているのは、「僕の最強の解釈」である。想像力をふんだんに効かせた面白い奇抜な考え方で、読者は興奮を覚えさえする。その点では確かに「最強」である。しかしながら、この種の解釈というのは、往々にして、簡単に言えば創作物である。創作としては価値があるのかもしれないが、学問的には価値がない。

面白いが、一線を超えた面白さである。

 

第9章:審判の不在

――「答えは神のみぞ知る」で勝負ができるのか?

人文学においては「わからない」というのが最善の答えである問題が結構な頻度で登場する。

最終的には「比較言語学はもうやることがありません。これで終わりにしましょう」と宣言する勇気も必要になるのではないかと思う。

 

第10章:戦いの果てに

――比較言語学の世界を焼き尽くす激論の後に残ったものとは

トンデモ説のタイプ

・「大喜利型」: 似ていることを系統関係の証拠と考えるタイプ

・「信念型」: 自説の正しさに対する確信が強く、視野狭窄に陥ってるタイプ

・「ナショナリズム型」: 政治的動機が背景にあるタイプ

 

星座というのは地球から見える星の並びに対して先人が恣意的に線を引いたものである。星座の線の引き方に何らの天文学的な裏付けがあるわけではない。星座という補助線を先入観として刷り込まれた人間にとっては、夜空をありのままに見るという、ただそれだけのことは結構難しい。

トンデモ学説をぶった斬ったら比較言語学の入門書になった件 激論十番勝負(前半)

トンデモ学説をぶった斬ったら比較言語学の入門書になった件 表紙

トンデモ学説をぶった斬ったら比較言語学の入門書になった件 激論十番勝負

大山祐亮 著

昌文社 発行

2026年5月15日 初版

 

以前、日本語の起源についての本を読んだ時、あまりにトンデモな説があったのでびっくりした思い出があります。

この本は比較言語学におけるトンデモ学説を斬ると共に、比較言語学という学問そのものや、人文学全体についても斬りまくっています。

あと全体を読んで気づいたことは、『ネイチャー』誌はトンデモ説の宝庫なんですね。

なお新刊書なので、目次以外のメモは極力少なくしようと心がけたのですが、それでもなんだかんだで増えてしまいました。

 

出陣前に

祖語

おそらくはもはや存在しない起源

 

比較言語学の最盛期は19世紀後半から20世紀初頭にかけてであり、それ以降は衰退の一途をたどっている。

 

日本語の場合「いちにさんし」のような数詞ですら、漢語から入った単語である。そのような、借用によって言語に入ってきた単語のことを借用語と呼ぶ。日本語本来の数詞は「ひとふたみよ」の方である。

「借用」や「偶然」に由来する対応と、系統関係に由来する対応を100%の正確性で見分ける方法はない。

 

第1章:語源で読み解く古代文献

――えっ、古事記は日本語じゃなかったんですか!?

古事記の二種類のトンデモ

・古事記は日本語ではなかったという「強いトンデモ説」

・日本語の文章の中に日本語以外の単語が入ってるという「弱いトンデモ説」

 

トンデモ説と対峙するにあたって、有効な対処法は、その説と全く同じ理屈で、さらにやばいトンデモをいくらでも生み出せることを示す。

 

第2章:最強の語源

――ワタシの説明力は53万

日本語の起源には、数々のトンデモ説が生まれてきた。

鍵となるのが「規則性仮説」である。例えば祖語に B という音があるなら、何らかの条件がない限り、全ての B が同じように変化すると仮定しなければならない。トンデモの論法はこれを完全に無視している。

トンデモ説の最大の弱点は、自説を擁護したのと同一の理屈で、その自説と矛盾する様々な別の結論が導けることに頭が回っていないところである。

 

チェリーピッキング

自説にとって有利な証拠だけを選んで提示すること

 

多数派を取った側が「共通意見」を自称し、対立する説を「そんなものは今時誰も信じていない」と言って排除したら勝ちとなる。一旦「共通意見」というレッテルを貼られた説はその後の多くの研究で盲目的に前提とされるため、覆しにくくなる。

 

第3章:日本語の起源を解き明かしてみせる!

――使命感に駆られ過ぎた人たち

クレオール

共通言語を持たない集団同士が接触したことで生み出された言語(ピジン)が、世代を越えて継承されるようになったもの

日本語クレオール起源説

日本語は、2つの異なる言語を持つ民族が接触した際に、両者の言語がもとになって生み出されたものである、という主張

 

比較言語学の方法論は、一つの言語から複数の言語が分化したと推測される場合においてのみ機能する。クレオールは比較言語学的にまともに取り扱うことができない。

クレオール起源説の落とし穴とは、たとえ規則的な音対応があったとしても、想定する祖語を2つに増やした場合、1つの言語を祖語とすると想定する場合に比べて、その対応が偶然の産物である可能性が上がってしまうこと。

二言語の混成からなるという説をとる場合、2つの言語のどちらかにまず「本命」、すなわち優先的にこじつけ先として利用したい言語が設定される。そしてその「本命」に由来するものとして語源説明をこじつけきれなかった語を、もう一方の言語という「ゴミ箱」に放り込んで説明したことにする。

 

ヴェルナーの法則

比較言語学で最も有名な法則とも言える「グリムの法則」の例外を説明する法則

グリムの法則

ゲルマン語において、印欧祖語の有声有気音は有声無気音に、有声無気音は無声無気音に、無声無気音は無声摩擦音になる、という規則

 

ギリシャ語の「アテネ」の語源

この後はギリシャ語(ないし印欧語一般)の語根や語形成の規則で説明できないので、印欧祖語には遡れそうもない。かといって、周辺の言語からの借用語として説明しようにも、それらしい言語はない。地名にはこのような例が特に多い。このような語はギリシア人がアテネに到達するよりも前にそこに住んでいた民族の言語に由来する可能性が高いと言われている。

しかしその「先ギリシア語」なる言語は実際に文献として例証されているわけではない。

 

姫路城「ホの櫓」の修復

北側から見た姫路城(修復箇所あり)

よみうりテレビの記事からです

【世界遺産・姫路城】台風6号で外壁の漆喰の一部が剥がれる被害 むき出しの土壁の補修工事始まる

 

6月の台風6号で、櫓(やぐら)の漆喰の一部が剥がれ落ちた世界遺産・姫路城で3日から補修工事が始まりました。

世界遺産・姫路城では、3日午前8時から、補修工事の足場を組む作業が始まりました。

6月3日、台風6号による強風の影響で重要文化財「ホの櫓(やぐら)」の漆喰の一部が剥がれ落ちているのを巡回中の職員が発見しました。

被害があったのは櫓(やぐら)の外壁部分、約4平方メートルで、むき出しになった土壁を3日から9月上旬にかけて応急的に補修します。

2027年度以降、漆喰を塗り直すなどの本格的な補修工事が行われる予定です。

姫路市などによりますと、現場は非公開エリアのため、観光面への影響はないということです。

 

姫路城の北側から撮ったのですが、左側の「ホの櫓」の下部に足場が組まれ、カバーで覆われています。

記事によれば、とりあえず9月上旬まで応急処置をして、また来年度以降、本格的な補修工事ということですね。

小山の上にあるお城ゆえ、台風シーズンなど、強風がまともに吹き付けてきそうで、さらなる被害が起こらないか心配になります。