エラスムス 闘う人文主義者(後半)

ホルバインによるエラスムス肖像画

第7章 ヴェネツィアの印刷業者

エラスムスは『格言集』刊行を実現するため、予定していたローマ行きを一時中止してヴェネツィアに移り住むようになった

 

もともとヴェネツィアは、十五世紀中葉以来、印刷・出版活動のきわめて盛んな街だった。

 

当時のイタリアは、現在と違って、食事の量が少なかった。エラスムスのような北の人は、食事の量は多かったため、食事の時は自分の部屋で食べるようにしていた。

 

第8章 ゆっくり急げ

「ゆっくり急げ(Festina lente)」

ローマの皇帝アウグストゥス座右の銘だと伝えられるが、さらに遡れば「ゆっくり熟慮して、しかる後素早く行動せよ」というアリストテレスの『ニコマコス倫理学』の教え以来、古代世界において好んで言及され、ルネッサンス期においては、更に広く人々の間に広まっていた処世訓である。

 

痴愚神礼讃』はイギリスのトマス・モアの家に着いて、わずか一週間で書き上げたもの

 

第9章 『痴愚神礼讃

痴愚神礼讃』は、決して当時においてそれほど異例の作品ではないこと、しかしそれにもかかわらず、それは一般に考えられている以上に、深い独創的な書である。

 

舞台や宮廷の「道化」の伝統を引いているには違いないとしても、書かれた諷刺文学として「愚者」に一人称のかたちで喋らせるというこの形式はエラスムスの独創によるものである。

 

第10章 宗教改革の嵐

イタリアに到着して間もなく、たまたまボローニャで眼にした教皇ユリウス二世の、およそキリストの使徒らしからぬ血なまぐさい武張った姿を生涯忘れることができなかったエラスムス

 

エラスムスのイタリア滞在の時に教皇の座にあったユリウス二世の時代は、前任者のアレクサンデル六世、後継者のレオ十世の時代とともに、一面ではルネッサンスの最も華やかな、ということは他面から見れば最も「堕落した」時代だった。

 

エラスムス痴愚神礼讃において、いたるところに教会の腐敗に対する批判の爆薬を仕掛けておいた。

もしエラスムスの方に誤算があったとすれば、痴愚神礼讃の予期以上の成功によってその時限爆弾があまりにも早く効果を上げてしまったということであろう。

 

もともとエラスムスは、ルターがあらゆる種類の闘争を恐れなかったのとは正反対に、ペンの上での争いは別にして、どんな形の戦争もこれを嫌悪し、否定した。

 

エラスムスが分析する、なぜ戦争が起こるのか

・王位継承の戦い

・君主同士の私的な闘争

・盲目的な国民感情

・暴君が自己の権力を保ち続けるため、ときには扇動者を使ってまであえて起こす戦争

 

第11章 嵐のなかの生涯

エラスムスはルターの考えが正しいか否かというよりも、彼を無理やり沈黙させようとする教会のやり方に反対して意見表明の自由を擁護しているのである。

 

エラスムスによってラテン語は万人に語りかける手段であった。ラテン語は共通言語だったが、印刷術とまさに同じ時に「生きた言語」としての生命を失うこととなった。それが強力な近代国家成立と時を同じくしているのも、決して偶然ではない。

 

第12章 自由意志論争

ルターの九十五か条があれほどまでに大きな対立に発展するとは考えていなかった。

はじめはそれは修道会同士の争いくらいにしか考えていなかった。

アウグスティヌス修道会の修道士のルターが、ドメニコ修道会の免罪符販売を攻撃したからである。

 

対ルターの問題において、エラスムスにあれほど長い間態度決定をためらわせていたのは、彼の性格の「欠陥」であるよりも、やはり自由な思想家でありたいという彼の強い意志であったと思われる。

 

ホイジンガエラスムスとルターの思想史上の巨人の論争を「揺れ動く海を眺めていたオランダ人と、不動の山を仰ぎ見ていたドイツ人」との争いと言ったが、まことに適切な比喩と言うべきであろう。

 

第13章 栄誉ある孤立

バーゼル滞在の頃、ルターからは「両棲類の王」と罵られ、フッテンから「裏切者」と決めつけられ、カソリックの側から「異端者」と告発され、そして後世の歴史家から「臆病者」と貶められるエラスムス

 

新旧いずれの派に対しても、党派的なものに加わることを拒否し、非理性的なものを嫌悪し、自己の精神の自由を守り続けたという点では、エラスムスの行動は見事に一貫している。

 

 

エラスムス 闘う人文主義者(前半)

エラスムス 闘う人文主義者 表紙

エラスムス 闘う人文主義

高階秀爾 著

筑摩書房 発行

筑摩選書 0271

2024年1月15日 初版第一刷発行

 

西洋美術史が専門の著者により、エラスムスの一生を叙述しています。

もともと1970年代初頭に発表された文章で、著者の学生運動の経験から感じたことを、エラスムスが生きた混乱の時代に反映させているようです。

 

第1章 我、何者にも譲らず

ロッテルダムの町では今でもなお、人びとが子供たちに向かって、近くの市庁舎の大時計が時を報ずるたびに、エラスムスの像が手に持った本の頁を一枚めくるという言い伝えを語って聞かせるという。

 

エラスムスのコインの裏側に刻まれたテルミヌス神は、彼にとっての守護神であり、「我、何者にも譲らず」は彼の座右の銘だった。

 

何よりも彼は、党派的な闘争を憎んだ。できれば、双方の側の調停者になろうと努めた。

 

第2章 不信の時代

エラスムスの七十年に近い生涯で、十年と同じ場所に落ち着いて暮らすことができなかった。

 

当時の思想界の王者として、生まれながらの貴族のようにきわめて洗練された優雅な物腰と精神的魅力を備えていたエラスムスが、生まれた年もよくわからない私生児だった。

 

エラスムスの生年について、1466年説と1469年説の二つがある。

僧籍に入った父への配慮と、兄との関連があるのだろうか。

 

エラスムスがイタリアに旅していたのは、ミケランジェロやラファエルロが活躍していた時期だが、その芸需品には全く触れておらず、イタリアの食事のまずさなど、もっぱら食物のことばかり書いている。

 

第3章 変革への底流

一千年、または五百年という区切りのよい時代が一つの世界の終わりを示す単位であるという考え方も、洋の東西を問わず見られるところである。

 

「新しい宗教」と神秘主義的傾向を併せ持ったドメニコ派修道僧ジロラモ・サヴォナローラ(1452-98)

 

グリューネヴァルト(1470頃-1528)の「イーゼンハイムの祭壇画」

当時の幻想文学に直接触発されたもの

 

エラスムスが生きたのは、ヨーロッパが激しい興奮状態にあった時代

奇しくも同じ年に生まれたニッコロ・マキャヴェッリ(1469-1527)とともに、あくまでも冷静に醒めていた数少ない精神の持ち主

 

第4章 古代へのめざめ

エラスムスの生涯は、古典古代に対する強い情熱に支えられていた

 

エラスムスの残した仕事

・キリストの僕としての業績

古代ギリシャ、ローマの重要な文献の翻訳、校訂といういわゆる人文主義者としての功績

 

エラスムスは近代人としてただひとり、イタリアの人文主義者ロレンツォ・ヴァラ(1407-57)の名前をあげている。

ヴァラは優れたラテン語学者としてのみならず、近代的な批判精神に富んだキリスト教徒として、ある意味エラスムスの先駆者だった。

 

第5章 ふたつの友情

パリ大学神学部付属のモンテーギュ学寮の不潔な環境と過酷な生活、煩雑な神学論議は、肉体的にも精神的にも、エラスムスには耐えがたいものだった。

 

1499年の六か月ほどのイギリスの旅行は、エラスムスの生涯にとって決定的と言ってよい影響を及ぼした。

それは人文主義キリスト者、ないしはキリスト教的ユマニストとしての彼の進む道を決定し、何人かの優れた知識人との交友、ことにトマス・モア(1478-1535)とジョン・コレット(1467-1519)との友情をもたらした。

 

第6章 イタリアへの旅

三年間のイタリア滞在中、レオナルドやミケランジェロ、そしてマキャヴェッリなどとの交渉は持たなかった。

 

1506年には、イタリアの代表的な人文主義者は、みな世を去っていた

エラスムスのイタリア訪問は遅すぎた

 

最初のイギリス旅行からイタリア旅行の六年間のエラスムス

ギリシャ語への傾倒

・ヴァラの『新約聖書注解』の原稿の発見およびその刊行

・『キリスト教兵士提要』の執筆

 

ダブリンに存在したソ連の残像(アイルランド)

ダブリンのバー「プラウダ」(素手に閉店)

ダブリンの街を歩いていたら、画像のような赤色を中心としたファサードで、インパクトの強いソビエト連邦風の店を見つけ、写真に残していました。

店名はプラウダのようです。

プラウダとは新聞の名前で、今もまだ発行しているようですが、やはりソ連時代のイメージが強いですね。

画像検索で確認してみると、ウオッカベースのカクテルなどを出しているバーとのことでしたが、もう既に閉店しているようです。

二十年以上前ですから、閉店していても不思議ではありません。

グーグルマップで現地を見てみると、今は全く別のライブハウスになっていました。

 

フィッツィモンズホテルのバーにて(ダブリン、アイルランド)

アイリッシュミュージシャンたち

アイリッシュダンサー

フィッツイモンズホテルのパンフレット

フィッツイモンズホテルのパンフレット

ジェームス・ジョイス・タワーからダブリンに戻り、宿泊先のフィッツィモンズホテルに帰ってきました。

ナイトクラブやバーも併設されており、当たり前のようにそこに入りました。

自分の撮った写真だと、他のお客さんの後ろ姿がやたら目立ったりしてあまり上手く撮れていませんので、当時のパンフレットの写真もつけておきます。

アイリッシュミュージックのライブと、アイリッシュダンスを踊るお姉さんたちです。

ホテルなので、フロントから入りますが、ちょうどその時、ダンサーたちが休憩時間でダラっとだべっていました。

特に控室のようなものは無かったようなので、彼女たちも仕方なくそこにいたのでしょうが、なんだか見てはいけないものを見てしまったような気がしました(笑)

 

中世に生きる人々

中世に生きる人々 表紙

中世に生きる人々

アイリーン・パウア 著

三好洋子 訳

東京大学出版会 発行

1990年10月5日 第15刷

 

マルコ・ポーロ以外は中世の平凡な無名の人を扱っています。

著者のアイリーン・パウア(1889-1940)はロンドン大学の経済史の教授で、二度世界一周旅行を試みています。

 

第一章 農夫ボド

シャルルマーニュ時代の田舎の所領の生活

 

吟遊詩人は親切にしてくれたシャルルマーニュに恩返しをした。

彼らは王に不滅の栄誉を与えたのである。

中世全体を通じて、シャルルマーニュ伝説が栄えたのはこのためであり、大帝はアーサー王とともに、中世の最も大きい物語群の一方の英雄としての栄誉を与えられた。

 

第二章 マルコ・ポーロ

第十三世紀のヴェネツィアの旅行家

 

マルコ・ポーロは、本の中で個人的な話題に触れていないのが欠点である。

私たちは彼が中国でどのような生活をしたかよくわからない。

彼が中国人よりもむしろ蒙古の汗と交際したこと、中国語を習わなかったことの証拠は残っている。

 

フビライ汗はマルコ・ポーロたちのヴェネツィアへの帰国を許さなかった。

しかしペルシャの汗が蒙古種族から花嫁を迎えたいと頼んできたので、その航海を利用して、ペルシャからヴェネツィアに戻ってきた。

 

マルコ・ポーロは余生、フビライ汗の話をヴェネツィアの若者にしていたが、領地の広さ、何百万という年収、何百万というジャンク、何百万という馬を飼う人々、何百万という都市について話したので、若者たちは「百万のマルコ殿」というあだ名をつけた。

 

十二世紀には人跡未踏だった境を旅行したマルコ・ポーロ

北京にいる大汗の耳に快く響くキリスト教会の鐘

商人がまったく安全に旅行できる中央アジアを通る長い道

杭州の街を歩いたことがある「大ぜいの」ヴェネツィア

これが十三世紀の末から十四世紀のはじめ、すなわち軽蔑されたあの頑迷な中世のことなのである。

しかし十四世紀の中頃、あらゆるものが変化した。

タタール朝が滅び、中国の新支配者は昔の排外政策に帰った

回教徒が中央アジア全土を征服し、極東と西洋の間の城壁となった。

 

マルコが死んでから一世紀半ほど経って、ジェノアの船長がその本を読み漁って、欄外に書き抜きをした

チパングに行くために、西へ行こうと決意したその男は十五世紀には草葉の陰でアメリカを発見した。

 

第三章 マダム・エグランティー

チョーサーの描いた尼僧院長の実際の生活

 

第四章 メナジエの妻

十四世紀のパリの主婦

 

メナジエ・ドゥ・パリ(パリに家を持つ人、あるいは家長という意味であろうか)は彼の若い妻を教育するために、この書を1392年から94年の間に書いた。彼が裕福で、学識もあり、実務の経験も深く、たしかに堅実で教養ある『上流市民階級』の一員であった。

 

第五章 トマス・ベトソン

十五世紀のステープル商人

 

中世の英国においてもっとも注意すべき商人は、羊毛を取引するステープル商人の一群である。

羊毛貿易は、長い間英国で最も大規模で、最も儲けの多い商売であった。

ステープルとは羊毛その他特定の重要商品を取引する指定市場をいう。

 

ステープル商人は為替の複雑さに苦労した。やたら貨幣の種類が多く、品質の悪いものが多かった

 

ステープル商人は

羊毛を買うためにコッツウォルドの畑に遠出し、

マーク街の勘定場で働き

ロンドンからカレーへ

続けてまたカレーからロンドンへと船で旅行し

カレー市場で外国商人と取引し

市の季節にはフランドルの市市を馬で駆けまわる

 

第六章 コークサルのトマス・ペイコック

ヘンリー七世時代のエセックスの織元

 

家屋・記念碑・遺言はいずれも中世の最後の二世紀の間に大勢力となって繁栄してきた中流階級の非常に急激な発展を示す絶好の資料である。

 

 

望遠鏡以前の天文学 古代からケプラーまで(後半)

第8章 イスラーム世界の天文学

9世紀から15世紀までの間、ムスリムの学者は科学的知識のあらゆる分野において卓越していた。特に天文学と数学への貢献は著しいものだった。

 

天文学が異なる二つのレベル、

すなわち理論を持たず空に見えるものだけに基づいた民間天文学

組織的な観測と数学的な計算や予知に関わる数理天文学とにおいてイスラーム世界で栄えた。

 

アラビア語で書かれた最古の天文学テクストは、7世紀にはすでにムスリムに征服されていたスィンド(インダス川下流域)とアフガニスタンで書かれたと思われる。それはテクストと表から成っており「ズィージュ」と呼ばれた。

 

ムスリムの暦は太陰暦である。暦月は三日月が最初に見えた時に始まる。月の初めと終わりを正確に決定することは、断食の月であるラマダーンや他のさまざまな宗教的行事にとって特に重要である。

 

ラマダーンの始まりに関する混乱が、今ではしばしば見られる。この混乱は、三日月がある場所では見えるが別の場所では見えないという事実と、まさしく新月の最終通告をする宗教学者天文学者に耳を傾けたがらないことに由来している。

 

第9章 中世ヨーロッパの天文学

かつての属州にあったローマの学校が姿を消し、ギリシア語が忘れ去られていた西洋では、ローマ帝国の崩壊によって、基本的に二言語併用であった文明が消滅した。

 

一般に科学史、そして特に天文学史において、この「暗黒の」世紀について報告するに値する理由

・天地の創造者としての唯一の神というキリスト教の信仰の伝播が、自然に対する一般的に態度を変え、かつて自然現象に関係があると考えられた多くの神や霊魂を排除することで、自然現象に学問的アプローチの道を作った。

キリスト教典礼が、時間の計算に対する新たな需要を生んだ。

 

カロリング朝時代(800年頃)以降、通常は田舎にあった修道院の学校以外には、数を増しつつあった司教座聖堂の学校があった。これは都市部に置かれ、俗人と聖職者の門弟の両方に開放されていた。

 

1200年以前はどの学問分野においても現存するギリシア語作品のほとんどが、イスラームの地で生まれた多くの著作とともに、ラテン語に翻訳された。

 

中世の学生は少なくとも天文学宇宙論の初歩を習得することなしに修士の学位を取ることができなかった。

 

自分自身の持つ豊かさに気付かなかったコペルニクスは、もっぱら、自然ではなく、プトレマイオスを代弁することを引き受けたのだ。それにもかかわらず、彼は誰よりも自然に近づいた人物であった。

 

第11章 中世後期およびルネサンスの天文器具

本格的な天文観測が始まる本当の転換点は、1492年にクリストファー・コロンブスがスペインから西に向かって出帆した15世紀末に訪れた。

南北アメリカ大陸の発見によって、正確な天体観測に対する実用的な必要性が生じた。

 

第12章 中国、朝鮮、日本の天文学

グノーモン

地面に垂直に突き刺した棒。1年のさまざまな時の正午の日影を測定することであり、その結果、太陽暦を採用することを促した。

 

第13章 現代における古代天文学の活用

古代史に記録された天文現象

日食と月食超新星現象として知られる巨大星の爆発、彗星、太陽黒点、流星雨、隕石、そして北極光

 

古代や中世の長期にわたる観測記録で、太陽の活動や地球の自転が識別できる。

また超新星爆発のように稀にしか起こらない現象の記録は、古代のデータが有効

 

前8世紀末頃に、ようやく最古の組織的な観測記録が、バビロンと中国で始まる。

 

1006年5月の初め頃、ヨーロッパ、イスラーム、そして東アジア(藤原定家の明月記の中で記述あり)で観測した人々は、南の空で光り輝く超新星が現れたのに気づいた。

 

1181年の秋、おそらく歴史上最も暗い超新星が見られた。中国と日本の天文学者だけが発見していた。

明月記に記録があるが、ヨーロッパでもイギリスのネッカム(1157-1217)も著書の中でこの超新星に言及していた。

 

古代の天文学者が残した観測記録がなければ、われわれは、宇宙の遥かなる広がりの中や、地球それ自体の上で起こる多くの変化に気付かなかったかもしれない。

現代の天文学者が、十分な装備を持たずとも勤勉であった先人たちに感謝するのは当然である。

 

 

 

望遠鏡以前の天文学 古代からケプラーまで(前半)

望遠鏡以前の天文学 古代からケプラーまで 表紙

望遠鏡以前の天文学

古代からケプラーまで

クリストファー・ウォーカー 編

山本啓二・川和田昌子 訳

恒星社厚生閣 発行

2008年11月5日 初版第1刷発行

 

肉眼しかなく、器具も不十分な時代でも、一生懸命に天を観察し、記録に残し、理論立てていった先人の苦労が偲ばれます。

 

序文

17世紀前半に最初の天体望遠鏡が現れる。

 

ギリシャ人が平板な地球という理論を退ける。

しかし地球が中心という考えは、ニュートンの時代まで一般的には続いていた。

 

天文学占星術のどちらが最初に生まれたかを問うことは、鶏と卵のどちらかが先かを問うことに似ている。

古代のほとんどすべての天文学者は、占星術師でもあった。

 

コペルニクスは1543年に『天球の回転について』の出版によって太陽中心説を改良し

1609年には望遠鏡が使われ

1687年にはニュートンが『プリンキピア』を出版し、天文学は近世と呼ばれる時代に入る。

 

第1章 エジプトの天文学

エジプトの位置天文学の初歩的な形態である技術により、365日という時の単位、夜と昼それぞれの12区分、そして比較的正確な太陰暦を生み出した。

 

エジプト最大の伝説のひとつである、ラーに生命を与えた天の女神ヌウトの神話は、時間計測と暦の両方の発展に影響を及ぼし、神聖なる王権という概念を生み出し、王位の母系継承につながった。

ヌウトは天に広がる裸の女性として描かれた。太陽はその口に入り、星の斑点のある体を通って、産道から現れるように見える。

 

ピラミッド時代とも呼ばれる古王国時代は、二重の暦体系、強固な経済、そして宗教的な規律を享受していた。そしてそのすべては基本的には太陽、月、惑星の観測に基づいていた。

 

第2章 メソポタミア天文学占星術

イラクで仕事をしたことがない人々は、メソポタミア天文学者が晴れた夜空に助けられたということをしばしば述べているが、これは事実ではない。

月と惑星の最初と最後の見という最も重要な現象は、地平線近くで起こるが、メソポタミアの地平線は塵と暴風雨でよく不鮮明になることがある。

 

バビロニア天文学者占星術師は、遅くとも紀元後1世紀後半まで、バビロンのベール神殿で生きながらえていた。しかしその時までには、彼らの天文学的伝統の実質的な内容は、すでにギリシャ人の手に移っていた。

 

第3章 プトレイマイオスとその先行者たち

古代ギリシア人にとって、天文学は実用的なものだった。すなわち、それは十分な暦がなかった時代には、農作業や宗教儀式を行う時を決めるための手段だった。

 

古代ギリシア人は、多くの星や星の集まりを確認していたが、目に見える全天を星座に分けるという考えはなかった。

 

ギリシア天文学の将来にとってきわめて重大な展開が見られたのは、前5世紀に、はるかに進んでいたメソポタミアから知識が伝えられてからである。

 

アテネのメトンがギリシア最初の「科学的」天文学者だったと考えられている。

なぜなら、まず彼は実際に観測をし、次に伝統的な農事暦を常用暦に合わせようとしたからである。

 

幾何学天文学に適用するという試みを、ギリシア人が初めて行った。

 

サモスのアリスタルコス(前3世紀)が、今では「太陽中心説」と知られる体系を打ち立てるに至ったが、それは古代ではほとんど評価されなかった。

 

ギリシアの数理天文学を記述的なものから予報の学問へと変容させたのはヒッパルコスであった。

 

プトレマイオスは130年から175年頃までアレクサンドリアで活躍していた。天文学書「アルマゲスト」を書く。

 

アルマゲストにより最高潮に達したギリシア天文学は、幾何学に基づく理論(ギリシア独自の知識)と観測に数値に基づく予知(ヒッパルコスを介してメソポタミアに由来する)という天文学へのアプローチをきわめて首尾よく融合していた。

 

第4章 エトルリアとローマの天文学

ユリウス・カエサルのもとで、改暦するためにギリシア天文学研究が利用された。それまでの太陰暦は、カエサルの時代までにかなり混乱しており(365日の)常用年が太陽年より3か月ほど先行していた。したがってすべての時代がずれていた。

前45年以降は、365日の太陽暦が採用され、4年に一度、閏年があった。

400年ごとに約三日長くなりすぎるが、ユリウス暦は1582年まで続いた。

その年、教皇グレゴリウス13世の命令で10日が省かれ、グレゴリオ暦が採用され、今日まで使われている。

 

第5章 ギリシャ後期およびビザンツ天文学

いわゆる「古代」から「ビザンツ時代」への移行は、大ざっぱにいえば、アレクサンドリアという知的中心地からコンスタンティノープルという別の中心地に、そして異教からキリスト教という環境に、天文学が移行したことだといえる。

 

天文学に関してルネサンスビザンツから受けた最大の恩恵は、皮肉にもその最も保守的な性格のために、古代の著作を良いテクストで保存したということであった。

 

第6章 紀元後千年間のヨーロッパの天文学:考古学的記録

1 天球儀

2 数理的な歯車装置

3 暦の考案

4 携帯用と固定式の日時計

 

第7章 インドの天文学