マルセイユのイフ城

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マルセイユノートルダム・ドゥ・ラ・ガルド寺院から見たイフ城
マルセイユノートルダム・ドゥ・ラ・ガルド寺院から再びフリウル諸島方向の写真です。
前に記事にした後ろの島々と違い、手前のイフ島のイフ城については日本の観光案内でもよく述べられていますが、改めてマルセイユ市のHPから引用します。

 

Situé au milieu de la baie de Marseille, à environ un mille nautique du Vieux-Port, l'île d'If a longtemps servi de mouillage aux pirates, aux contrebandiers, ou plus paisiblement aux pêcheurs. Le Château d'If est la première forteresse royale de Marseille.

マルセイユ湾の真ん中に位置し、旧港から約1海里(約1852m)の距離にあるイフ島は、長い間、海賊、密輸業者、または平和的に漁師の停泊地として機能してきました。イフ城はマルセイユで最初の王室の要塞です。

C'est François Ier qui a ordonné la construction d'une forteresse sur un îlot de l'archipel du Frioul pour protéger l'accès du port, en 1516.­ Dès 1580, elle a été convertie en prison d'Etat.

1516年、港へのアクセスを保護するために、フリウル群島の小島に要塞の建設を命じたのはフランソワ1世でした。1580年から国の刑務所に改築されました。

 

Si on se souvient parfois de prisonniers célèbres tels le Chevalier Anselme au XVIe siècle ou le Comte de Mirabeau au XVIIIe, il faut reconnaître que la renommée mondiale du Château d'If est liée à un personnage de fiction d'Alexandre Dumas, Edmond Dantès, futur Comte de Monte-Cristo.

16世紀の騎士アンセルムや18世紀のミラボー伯爵などの有名な囚人を思い出すかもしれませんが、イフ城の世界的な名声は、アレクサンドル・デュマによる架空の人物、エドモン・ダンテス、いわゆるモンテ・クリスト伯に関連していることを認めなければなりません。

Classé monument historique en 1926, le Château d'If  est l'un des sites les plus visités à Marseille.

1926年に歴史的建造物として登録されたイフ城は、マルセイユで最も訪問された場所の1つです。

Il s'agit d'une construction carrée de trois étages mesurant 28 mètres sur chaque côté, flanquée de trois tours, percées de larges embrasures. La tour Saint Christophe, au nord-ouest, est la plus haute et permet de surveiller la mer.  Les tours Saint Jaume et Maugovert sont à l'opposé, au nord-est et au sud-est du Fort. Elles sont reliées entre elles par une terrasse sur deux étages.
De hauts remparts, avec des plateformes à canon, surmontent les falaises. L'ensemble faisait du Château d'If une puissante citadelle.

これは、各辺28メートルの3階建て(1階・上階・テラス)の正方形の構造で、大きな砲眼を備えた3つの塔が側面にあります。北西にあるサン・クリストフの塔は最も高く、海を眺めることができます。サン・ジョームとモーゴヴェールの塔は反対側で、砦の北東と南東にあります。それらは上階の上のテラスでつながっています。
大砲の発射台を備えた高い城壁が断崖の上にそびえ立っています。全体でイフ城を強力な要塞にしました。

 

 

マルセイユの街並み

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マルセイユの街並み
これは宿泊地から撮ったマルセイユの街並みです。
右側のノートルダム・デザクール教会のソヴテール塔がやはり目立っています。
その前の建物には屋根裏部屋が連なっているようです。
パリで働いていた時の事務所も屋根裏部屋みたいな感じでしたが、そんなに狭苦しくは感じませんでした。
街並み自体は、他のヨーロッパの街に比べると、ごちゃごちゃしているような感じです。
南のマルセイユらしいとも言えるかもしれませんが、それでも日本と違い、巨大な屋外広告が見当たらない点はさすがヨーロッパだと思います。
 

ローマのアウグストゥス霊廟が公開

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ローマのアウグストゥス霊廟(2021年3月時点)
(ローマのアウグストゥスの霊廟が公開されている、との記事です。
自分は2009年の年末にアラ・パチスなどを訪問し、この霊廟のそばも通ったのですが、その時は写真を撮っていませんでした。
記事にあるように閉鎖中で、修復工事で外観も殆ど見ることができなかったからだと思われます。
でもこういうニュースを読むと、工事中でもとりあえずその場所を写真にとっておけばよかったですね。
変遷の経緯を読むと、遺跡というものは、昔を表すものだけではなく、その後の時代時代を反映するものだと改めて痛感します。
あとこのそばにある教会のファサードが気になったのですが、当時は教会名がわかりませんでした。この記事をきっかけに確認すると、サン・ロッコ教会だと判明しました。)

【AFP=時事】初代ローマ皇帝アウグストゥス(Augustus)の巨大な霊廟(れいびょう)が数百年ぶりに修復され、イタリアの首都ローマで先月から一般公開されている。

テベレ(Tiber)川岸にそびえるこの霊廟は、紀元前28~23年、アウグストゥス帝のために建てられた。アウグストゥス帝は40年に及ぶ在位中にローマ帝国を築き上げた人物で、古代ローマの将軍・政治家ユリウス・カエサル(Julius Caesar)は大おじに当たる。

 円柱状の基礎部分の直径は約90メートル。かつては上部にイトスギの木がずらりと植えられ、最上部にはアウグストゥス帝の銅像が立ち、廟全体の高さは45メートルほどあった。

 アウグストゥス帝と妻リウィア(Livia)が埋葬されている中心部の部屋は、当初は表面が大理石とトラバーチン(石灰岩の一種)に覆われており、その周囲には一族を埋葬する墓室も用意されていた。

 ローマ帝国が滅亡すると、アウグストゥス廟は墓としての役割を失い、他の古代ローマ遺跡と同じく、用途がさまざまに変化していった。中世には要塞(ようさい)となり、ルネサンス時代には庭園や闘牛場に。1900年代初頭には、この上にコンサートホールが建てられた。

 1930年代になると、ファシストの独裁者ベニト・ムソリーニ(Benito Mussolini)が再び霊廟として一般公開する。ムソリーニは、自身の政権についてローマ帝国の後継というイメージを打ち出すことをもくろんでいた。

 その後2007年に閉鎖され、修復工事が始まるが、工事は現在も完了しておらず、現場にはクレーンがそそり立ち、多くの作業員がせわしなく働いている。

 廟の大きさから考えると、アウグストゥス帝が着想を得たのは、エジプトのアレクサンドリア(Alexandria)にあるアレクサンダー大王(Alexander the Great)の墓か、現在のトルコに当たるハリカルナッソス(Halicarnassus)に建てられ、「古代世界の七不思議」の一つに数えられていた霊廟だったのではないかと専門家らはみている。

 入場券はオンラインでのみ購入可能で、すでに6月末分まで完売している。【翻訳編集】 AFPBB News

マルセイユ・フォス港の東部エリア

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ノートルダム・ドゥ・ラ・ガルド寺院から見たマルセイユ・フォス港東部エリア

 

再びマルセイユノートルダム・ドゥ・ラ・ガルド寺院からの眺め。
旧港の向こうには長く伸びる防波堤に守られた「新港」があります。
この港の正式名称はマルセイユ・フォス港と呼ばれています。
フォスというのはマルセイユから西に50キロメートルほどに位置するフォス・スール・メールという街からきています。ここにも別の港があります。
この街はマルセイユと同じブッシュ・デュ・ローヌ県に属しています。だから離れている港を一体化しているのかもしれません。
マルセイユの方が東部で、フォスの方が西部となります。
マルセイユ・フォス港のHPを見てみると、

 

Bassins Est : une zone portuaire urbaine, située au cœur de la ville de Marseille, 400 ha (entre la Joliette et l’Estaque), considérée comme un port de proximité en Méditerranée pour les marchandises et les passagers.

東部ドック:マルセイユ市の中心部、400ヘクタール(ジョリエットとエスタックの間)に位置する都市の港湾地域で、商品や乗客のための地中海沿岸の港と見なされています。

Bassins Ouest : une zone industrialo-portuaire à Fos-sur-Mer de 10 000 ha (soit la surface de Paris intramuros), dont 3 000 ha d’espaces naturels, considéré comme le port de la massification et du « deep sea », dédiés aux grands flux intercontinentaux pour l’industrie et la logistique.

西部ドック:10,000ヘクタールのフォスシュルメールの工業港地帯(パリ都市圏の面積とほぼ同じ)で、そのうち3000ヘクタールは自然地帯であり、巨大で「深海」の港と見なされ、産業とロジスティクスの主要な大陸間流通のために捧げられています。
 
bassinは辞書を見るとドックという意味が書いていましたが、日本語でドックとこれらの港をあらわすのは、大規模すぎて変かもしれません。
東西の違いをおおざっぱにいえば、マルセイユは乗客や商品、フォスは原材料を扱っていることになるのでしょうか。
あと、HPの中で見つけた印象的なフレーズは、「青い経済のための緑の港」というものでした。
青というのは海の青だけでなく、フランスの青という意味も含んでいるのでしょうか?
緑というのは環境を表しており、地球に優しい港づくりを目指しているそうです。
各港には見学コースも設定されていました。豪華客船とかを間近に見学できて楽しそうです。
 

ストラスブールのレプュブリック(共和国)広場

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ストラスブールのレプュブリック広場に咲くモクレンの花
画像はモクレンの花が咲き誇るストラスブールのレプュブリック広場です。
以前この広場の記事を書いた時には、現地で購入した日本語観光冊子の訳にならい「連邦広場」としたのですが、それは誤りで「共和国広場」と訳すのが正しいようです。
この広場は1881年に整備されました。この時はドイツ支配時で「皇帝広場」と名付けられ、皇帝ヴィルヘルム一世の騎馬像が据えられました。
その後第一次世界大戦が終わると、領有の変更とともに1918年、共和国広場と呼び名が変えられます。
そして1936年、皇帝の騎馬像は撤去され、画像の真ん中にあるような戦没者慰霊碑が据えられます。
この石像はドゥリヴィエというフランス人彫刻家により制作されました。
母が二人の瀕死の息子を膝の上に抱きかかえているのですが、母がストラスブールを表し、西を向いた息子がフランス、東を向いた息子がドイツを表しているそうです。
しかしこの慰霊碑の願いもむなしく、今度はナチスに蹂躙され、1940年には「ビスマルク広場」と改称されます。
そしてフランスの帰属に戻った後、1945年に再び「共和国広場」に戻されました。
広場の名前ひとつとってみても、アルザスの複雑な歴史が伺えます。

石像の向こう、更に延長線上には、大聖堂の姿が確認できます。
最初は広場の近くにあり、尖塔が印象的なサン・ポール教会かなと思ったのですが、よく見るとノートルダム大聖堂でした。
今のように大変な時代でも、春になると花は咲き乱れます。
そして慰霊碑は変わらず鎮座し、大聖堂は遥か天を目指して、しっかりそびえ立っています。

(物語 ストラスブールの歴史 中公新書 を参考にしました)

マルセイユ7区の風景

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ノートルダム・ドゥ・ラ・ガルド寺院から見たマルセイユ7区

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マルセイユの区(arrondissement)と連合区(secteur)

再びマルセイユノートルダム・ドゥ・ラ・ガルド寺院から見たフリウル諸島方面の画像です。
本土側も諸島も、おおよそマルセイユの7区となります。
フランスでは区(arrondissement)はパリやリヨンの大都市で導入されています。
ただ、パリやリヨンは各区ごとに区議会と区長が置かれていますが、マルセイユでは16の区が2区ずつにまとめられて8連合区を構成し、連合区ごとに区議会と区長が置かれています。

パリの場合、右回りにらせんを描いて20区を分けていますが、マルセイユは最初は同じ右回りですが、外側は左回りになっています。 
海があるためか、すんなりと右回りだけではいかなかったようです。
このようならせん構造を見て、日本の姫路城と江戸城の堀のらせん構造を思い出しました。
もちろん全く別の話に過ぎませんが、街が大きくなっていった痕跡および力の根源を、こういうらせん構造でも垣間見ることができます。

 

ダンテ没後700年 文学の巨匠にまつわる五つのこと

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ウッフィツィ美術館前のダンテ像
去年、ラファエロ没後500年だったのですが、今年でダンテ没後700年になるのですね。
芸風は違うとはいえ、どちらも最重要なルネサンス人です。強引にいえば、ルネサンスはダンテに始まり、ラファエロで終わったのかもしれませんが。(個人の感想です)
フィレンツェに行った時、ダンテの家はなぜか正月1月1日から開けてくれていて、訪問出来ました。
神曲の煉獄編の前半は時々読んでいるのですが、キリスト教的価値観という風船を、現世の愛憎入り交じった人間模様のエピソードという気体でキンキンに膨らましているような感じです。

ダンテ没後700年 文学の巨匠にまつわる五つのこと


【AFP=時事】世界文学の巨匠ダンテ・アリギエーリ(Dante Alighieri)は、著作「神曲(Divine Comedy)」が最も有名だ。「イタリア語の父」としても知られるダンテが死去してから、今年で700年となる。ダンテについて知っておきたい五つの事柄をまとめた。