
“熱烈歓迎”の入港
訪問者のうち「富山県日ソ友好視察団」は主に新湊市関係者で構成された。
「新潟代表団」は県を挙げてという意気込みがうかがえた。
新潟市は定期航路復活への期待を込めて、姉妹港締結を提案し、新湊市は文化・スポーツ面での交流について具体案を用意していた。
1922年の総引き揚げ以来、これだけ多数(250名)の日本人の訪問は初めてのこと。市民の歓迎ぶりは予想外で、ツアーの成功を予感させた風景だった。
ルパーシカは昔はロシアの普段着だったが、今は民族舞踊の時しか見ることはできない。
地名を「ウラジオ」という「インツーリスト」の人
もともと「ウラジオ」という簡略化は、語源を無視した日本の民衆の発明で、ロシア語を知る人からみれば奇妙な呼び名には違いない。
大阪商船『航路案内』(大正5年)では
「邦人は、多く之を浦塩と単に呼んで、横浜をヨコハ、長﨑をナガサというに均しい弁慶がな、ぎなた的の滑稽を敢えてしているのである」
明治大正の習慣を残す日本人はともかく、ロシア人のくせに平然と語源を無視する人の出現に、私はちょっと複雑な気持ちになる。ソビエトにも「新人類」はいたのである。
美しく、すがすがしい町
ウラジオストクは、どこから歩けばいいのか。それは何といっても「スウエトランカヤ」であろう。今はレーニンスカヤというが(現在はどうなんだろう)、この通りは建設初期から、この町を代表する目ぬき通りで、3大百貨店も、ここにあった。
プーシキンの像がある。
ガイドが「プーシキンはこの町に来ました。チェホフ(チェーホフ)も来ています」と言っていた。チェホフはともかく、プーチキンの死は1837年。その23年後にロシア領となったウラジオストクに来れるわけもないのだが、ヨーロッパロシアほどの歴史を持たないこの町としては、お国自慢の一つも欲しいという心情が生んだ「伝説」であろう。
ウラジオストク日本人小学校では、高学年になると週2時間、正課としてロシア語の授業があった。その小学生の教材に選んだのが、プーシキンの詩と聞けば、私はその水準の高さに驚く。
ゴシック調、赤レンガの寺院
日本人はドイツ寺院と呼んだが、正しくはカタリーチェスキー寺院。ロシア正教でないだけに、寺院として復活する可能性はなさそう。
同行したワダさんのウラジオストクの暮らしは、大正13年春で終わり、同僚とともにハルビン支店に移るのだ。 今度の旅は、それ以来65年目のウラジオなのであった。
ネベリスキーの碑
ネペリスキー(1813―1876)は、ロシア海軍の軍人で、間宮(タタール)海峡を探検し、サハリンが大陸とは地続きでないことを確かめた人物として知られている。
大正12年9月、関東大震災の報が伝わると、アドミラル・サード(海軍公園)で義援金募集の国際大園遊会が催された。
当時の沿海州の状況については、4年2ヶ月にわたった「シベリア出兵」が、やっと日本の撤兵によりカタがついたばかりである。
この日本の内政干渉は、極東シベリア、沿海州に深い傷痕を残した。それにもかかわらず、ロシア側が日本のために、義援金募集の催しを企画したことに、私は感じ入った。
「チユーリン」は革命前、極東ロシアの「地元」資本を代表する企業であった。「地元」と、特に断らなければならないのは、言うまでもなく、その上にドイツ系の「アルベルス」が君臨していたからである。
一方的に他国に乗り込み、布告もなく戦火をひらき、そして敗北する。「失敗に終わった不義の戦争」と言われるシベリア出兵は、地元住民に大きな損害を与えただけでなく、ロシア領に生きる日本人住民の運命をも一変させた。
3月にはニコラエフスクで、日本軍の奇襲攻撃から、いわゆる「尼港事件」を引き起こしている。この軍の行動には、日本人住民の多くが道連れにされた。真相は伝えられず、一般住民の死が大きく「尼港の惨劇」として報道され、国内に衝撃を与えた事件だった。
セルゲイ・ラゾ(1894―1920)
レーニンスカヤの一郭に銅像あり。
革命軍のリーダーとして最前線に立つ。
アメリカ軍撤退直後の休戦状況の中で、彼は日本軍との交渉に立ち会い、その調印直前、一転して襲撃に出た日本軍にとらえられ、反革命軍に引き渡され、26歳の若さで殺された。
自由に歩いてみたものは
沿海州がロシア領となった直後から住み着いた朝鮮人の子孫をこの地で探すのは、今では難しい。戦前のスターリン時代、ほとんど、中央アジアに強制移住させられているからだ。
旧名「カレースカヤ」は朝鮮の通りを意味する。文字通り、そこから西、アムール湾にかけて、かつて朝鮮人が多く住んでいたところだ。
ワダさんは、一度も「朝鮮町」へ行ったことがないという。危険だからと、大人は子供たちを近寄らせなかったのだ。
けれども、同胞からも疎外されていた「料理屋」の女たちは、この町で暮らしていた。
改めて気づくのだが、この町には指導者の大きな肖像画がない。スローガンの大看板も見ない。そのせいだろう、私はヨーロッパの町を歩く旅行者の気分でいたような気がする。いや、昔のロシアの町と言った方が私にはピッタリする。この港町の空気は昔から変わっていないのではないか。そんな気がしてくる。