
チェーホフのなかの日本
中本信幸 著
大和書房 発行
1981年5月30日 初版発行
一 はじめに
本稿は、チェーホフのなかの日本という未開拓の問題に対する試論である。
二 日本におけるロシア人
チェーホフが南ロシアのアゾフ海沿岸の港町タカ゚ンローグに生まれたのは、1860年1月29日である。
チェーホフが青少年時代に旅行記を読み漁り、とりわけ『ドン・キホーテ』と『フレガート・パルラダ』を愛読していたのは、注目に値する。
『フレガート・パルラダ』は、作家ゴロチャーロフ(1812-1891)が1853年にプチャーチン提督の秘書官として長崎に来航し、条約交渉に立ち合い、その体験を記録した旅行記 である。
三 『ミカド』
『ミカド』は、イギリスの作曲家アーサー・サリヴァン(1842-1900)作曲、ウィリアム・ギルバート作詞の二幕のオペレッタである。
『ミカド』に主演したスタニスラフスキーたちは、1886年末から翌年春にかけて日本人軽業師の一家と起居を共にしている。そして日本のあらゆる習慣を彼らから学んだ。
『ミカド』の正式題名は、『ミカドあるいはティティプの町』である。もとより、ティティプという町は、日本にはない。
(秩父からきたのでしょうか?)
その当時のロシアに外交官以外の日本人がいて、ロシア人と親しくしていたことは、注目すべきである。
今のところ、その軽技師5人の芸名は明らかになったが 、一家の消息は分かっていない。
(掲載されていたポスターには、佐々木虎吉や佐々木又吉、などの名前が見える)
四 旅立ち
チェーホフは1890年4月21日、モスクワからサハリン目指した。
サハリン旅行の行程は1890年1月末には確定された。チェーホフは帰路日本に寄ることにした。
五 ブラゴヴェシチェンスクの一夜
ブラゴヴェシチェンスクに到着したその日のうちに、チェーホフは日本人を見かけ、日本の女性と接触したのである。
「あのことにかけては絶妙な手並みを見せ、そのため女を買っているのではなくて、最高に調教された馬に乗ってるような気になるでしょう」とチェーホフの手紙にあり。
ブラゴヴェシチェンスクは、1856年に作られたウスチ・ゼイスキー軍事拠点に始まる。1858年、その地に建てられた寺院の名にちなんで現行のプラコ゚ヴェシチェンスクと改名された。町は軍事上、通商上の要衝として急速に拡充される。
1878年、榎本武揚はブラゴヴェシチェンスクで日本人に会っていないし、まして悪所のことに触れていない。
チェーホフがブラゴヴェシチェンスクを訪れてから約3年後の1893年に、騎馬旅行の福島安正はブラコ゚ヴェシチェンスクに立ち寄っている。
福島も、そこで在住の日本人に会ったことは記録していない。
1899年に特別任務を帯びてシベリアに渡り、ブラゴヴェシチェンスクに留学した石光真清
チェーホフが1890年6月26日にブラゴヴェシチェンスクで日本人を見ているところからして、80年代の末頃から、日本人、日本女たちがブラゴヴェシチェンスクに住みつき、日本の女郎屋が経営されていたことが明らかになる。ちなみにこのことを記録した他の資料は、今のところ見出されていないのである。
1902年、海軍少佐広瀬武夫がブラゴヴェシチェンスクに6日間滞在している。
「人口 も 4万 近いというだけあって、日本人も増えてくる。職業は写真師、洗濯屋、石工、大工などで、後はいかがわしい職業の天草女だけである」と『ロシアにおける広瀬武夫』にあり。
チェーホフがブラゴヴェシチェンスクで接した日本女は、言うまでもなく、からゆきさんの一人である。 からゆきさんは主に九州の長崎・島原・天草の貧しい娘たちで、女衒や仲介業者の甘言に騙されて海外へ連れ出されたのである。
万延元年(1860)に長崎の対岸稲佐郷に、ロシア人専用の遊女屋、 露西亜マタロス休息所が開かれ、これが後に稲佐遊郭となる。
若者宿、娘宿が盛んで、「異性間の婚前交渉が平然と行われ、異人歓待の見られる九州西へを辺の村々」の風土で育った娘たちの優しさと温かさ。
石光真清も1900年8月に ニコリスク付近のトンネル工事の現場ヘ行馬車の中で、2人のロシア人青年が行った日本の遊女評を紹介している。
ブラゴヴェシチェンスク在留の清国人が大量に虐殺された事件の直後のことだ。