交路からみる古代ローマ繁栄史(第一部)

交路からみる古代ローマ繁栄史 表紙

交路からみる古代ローマ繁栄史

陸の道・河の道・海の道が古代ローマの繁栄をつくった

中川良隆 著

鹿島出版会

2011年9月10日 第1刷発行

 

本書は、陸と水の交易路とはどのようなもので、いつ、どうしてつくったのか、そして古代ローマの繁栄にどのように結びついたかという疑問を解明することを主眼としています。

 

第一部 すべての道はローマに通ず

第一章 ローマ街道の意義

フェニキアやギリシャ、そしてローマの植民市は、母体となる都市が領土を周辺に拡大するという形態ではなく、全く異なる場所へ飛び地的に、新たな都市国家をつくった。

フェニキアやギリシャの植民市は、通商のための海上交易路は別として、母市と緊密性を高めるための陸上交易路や軍事用道路をつくるという発想はなかった。彼らは大海原を道とした海の民であった。

陸の民である古代ローマ人は、フェニキア人やギリシャ人とは発想が全く違った。植民市と首都ローマのつながりは、交易や自治の面はさておいて、軍事的な面が強固であったのだ。つまり、植民地では手に負えない軍事面を首都ローマに依存した。

首都ローマと植民市の間の強固な結びつきを可能にするため、軍事用道路兼交易路が不可欠となった。その具体的事例が、アッピア街道である。

 

紀元前390年7月、ローマは北方よりガリア人に攻め込まれてしまったのだ。7ヶ月間の占領と略奪の限りを尽くされた。

その次にローマが占領されたのは、帝国衰退期の410年、西ゴート王アラリクスによるローマ大略奪の時である。800年もの間、首都ローマは安泰だったのである。

 

ローマ街道の多くが国道に変わっている。古代ローマ人は偉かったというのか、路線の設定は、いつの時代でもあまり変わらないものなのだ。

イタリアに高速道路ができたのは、ムッソリーニが首相の時代である。それまで2000年間も、ローマ街道は主要道路の位置を保ち続けていたのだ。

 

ローマ帝国時代の輸送コストは、「海上:河川:陸上=1:4.9:28」で、道路輸送は圧倒的に不利であった。 しかし道路による移動の優位性は、何と言っても定時性の確保である。長距離の水上輸送の場合、帆走となるので風に恵まれなければならない。

 

高速進軍のために、平坦性や直線性を求めるローマ街道にはそぐわない位置に都市が多い。従って、現在の高速道路のように、街道は直線性・平坦性を確保して、都市にはランプウェイ(自動車専用道路出入口)からの専用道路。この考え方はペルシャの「王の道」を踏襲している。

 

ローマ市内の混乱を防ぐため、カエサルは紀元前45年の「ユリウスの地方自治法」で、ローマ市内への昼間の一般車両乗り入れを禁止した。

 

敵軍の妨害や不通箇所発生でも目的地に到達できるように、複数経路の確保が必要である。アッピア街道の建設は、ラティーナ街道のみではサムニテス族との戦争遂行に支障をきたすために建設した複線化の事例である。

 

第二章 ローマ帝国以前の諸外国の道路網

クレタ島の道は4000年後の現在でも舗装版の割れは少ない。すでにこの時代には、接着材による道路の一体化と、積層による舗装道路の考えがあったのだ。古代ローマの技術者も顔負けの素晴らしい技術である。

 

メソポタミアで特筆すべきことは、新バビロニア王国の王ネブカドネザル2世(在位紀元前605〜紀元前562年)が建設したバビロニアの行列道路である。

 

アケメネス朝ペルシャ最盛期の王、第3代のダレイオス1世(在位紀元前522〜紀元前486年)は全長2500kmの「王の道」をつくった。

へロドトスは「王の道」の情報伝達システムであった駅伝制度が整備されていたことの素晴らしさについて、記述している。

「王の道」は軍事用が主目的であるが、民間人も使用できた。ではなぜ「王の道」というのか。それは国を統一するため、道を交易用ではなく、王が独占できたということである。

 

古代ローマは、アッピア街道完成の紀元前312年を契機に、計画的に街道の整備を開始した。街道建設のハードとしての道路構造や施工法は、エジプト・クレタやバビロニアの方法を、そして長距離高速道路システムや駅伝制度等のソフトは、ペルシャの方法を模倣したのである。

 

第三章 ローマ街道を使った国家統治・防衛と旅の安全・楽しみ方

限られた軍団数で、ローマ街道を使ってどのように国土の拡張及び防衛をするのか

・帝国内の住民に反乱を起こさせない。そのため強圧でなく、住民により良い生活と自治を保障することにより、ローマ世界に住む幸せを感じさせる。

・他国との国境を基本的に海・大河・砂漠とした。例外はブリタニアのハドリアヌス長城、ライン川とドナウ川の間の長城、ダキアの突出部分であった。

・基点駐屯地からの迅速な移動

・首都ローマからの指令を迅速に伝達できる駅伝制度

植民市を多く配置すれば、軍団基地の数は減らすことが可能となる。そしてその逆も成り立つ。

植民市に入植した人々の多くは、退役兵である。従って一朝事ある時は、ローマ軍の一員になることができた。

 

ポイティンガー地図

古代ローマ時代の駅伝・郵便システムに沿った道路網を図示した。

アウグストゥス帝の右腕と言われたアグリッパが、20年の年月を費やして行った測量結果をもとにしていると言われている。

 

世界の七不思議

紀元前2世紀にビザンチウムのフィロンが選定

・ギザの大ピラミッド

・バビロンの空中庭園

・エフェソスのアルテミス神殿

・オリンピアのゼウス像

・ハリカルナッソスのマウソロス霊廟

・ロドス島の巨像(灯台)

・アレクサンドリアの大灯台

 

第四章 ローマ街道の建設技術

道路の資材を遠方より運ぶことはありえない。手近に使用できる材料で施工を考えて道路を建設する。

そのため場所により道路に使われる材料は大きく異なる。

 

紀元前450年につくられたローマ初の成文法、十二表法

十二表法の名前は、12枚の銅板に記されたことに由来する。

この法律はもともと、平民と貴族のゴタゴタを解決するためのものであり、当時の先進国アテネに、共和政ローマの元老院議員を派遣調査して作ったものである。

 

なぜローマ軍人は土木工事が得意かというと、行軍中、毎日のように宿泊する陣地設営の土木作業に従事していたからである。

 

カエサルは著作の『ガリア戦記』に、紀元前54年夏のライン川渡河の橋梁建設状況を詳しく記している。

ライン川橋梁建設の凄さ

・ケルンとボンの間に、材料の調達、船の製作、橋の建設と10日間で成し遂げた

・打つことが難しい斜杭を打った

・上流側に3本1組の防衛工を設置

 

カエサルは下戸だった。

 

ドミティア街道の要衝の地ニームは、当時人口2万人くらいだとされている。その程度の町のために、ポン・デュ・ガールのような大橋梁を建設した。

 

ルーマニアという国名は「ローマ人の土地(国)」を意味する。

ルーマニア国歌2番の歌詞中には「今こそ世界に知らしめよ ローマの血を引く我らの血潮 胸に誓いて賞賛するは 歴戦の勇者 雄々しきトラヤヌス帝」と歌われている。

ルーマニアには古代、ガタエ人(ラテン語でダキイ人)と呼ばれた民族が居住していた。しかし、トラヤヌス帝の侵攻により、ローマ帝国領の属州ダキアとなった。金鉱山目当ての侵略と言われている。属州ダキアの存続はわずか170年程度であったのだが、ルーマニア国民は、ダキイ人であることよりもローマ帝国の末裔であることを誇りにしているのである。

 

古代ローマの面白さは、奴隷は一生奴隷とは限らず、有能であれば解放奴隷となり、ローマ市民権を獲得できたというところである。父親が奴隷、子供がローマ皇帝という事例が2つある。