
ウラジオストクの旅
海の向こうにあった日本人町
杉山公子 著
地久館 発行
原書房 発売
1989年12月15日 発行
1989年の5月、新潟港からウラジオストク(ウラジオストック)に客船で旅行した著者の紀行文です。
この時が日本とウラジオストクの直行便が再開した第一便でした。
著者の方は、
昔の日本人の跡はどれくらい残っているのか。それに、生まれ故郷ハルビンの面影も窺えるのかではないか。
この2つを確かめるのが、この旅に参加した目的だったそうです
ウラジオに行ける
近年、私は自分のふるさとハルビンの歴史を元に、北の地に生きた明治大正記の日本人のことを調べている。
調べてみるとウラジオストクは、19世紀末に都市建設の始まったハルビンにとって、源流とも母港とも言える存在で、そのことを知ってから「一度は行ってみたい町」になっていた。
出港地が敦賀ではなく、私はちょっと失望した。敦賀なら、沿海州との交流さかんな頃の定期船の出港地だ。はからずも先人と同じ航路を行けると喜んでいたのだ。
持っていく資料
・市内地図(大正4年のもの)
・ウラジオストク年表
・日本人商店の広告集
・古い「浦潮案内」からの抜粋
船はソビエトの観光船ルーシ号で、宿泊も食事も全て船内。まだ外国人用のホテルが完成していないためだという。
出発 2週間ほど前、ウラジオ入港がダメになり、ナホトカ に上陸してバスに入るという連絡が入った。
しかし出発2日前に、予定通りウラジオ入港となった。
ルーシ号に乗る人びと
ルーシ号は1986年建造で、ウラジオストク港に所属し、普段は横浜-ナホトカ航路に就航しているという。
ルーシは「ロシア」のこと
ウラジオストク入港はほとんど絶望的だったが、駐日ソビエト大使やハバロフスク市長の努力もあって、2日前に一転解決したものだという。
日本人移住の歴史
沿海州の歴史で特徴的なことは 周辺からの住民の流入で、またこれら多民族の流入、定着がなければ、人口の希薄な、この地方の発展は望めなかったことだろう。
最初に入ってきたのは朝鮮の農民だった。
当時、朝鮮では越境は重罪で、見つかれば殺されたが、それでも多くの農民が重税と凶作から逃れて、沿海州に入ってきた。
ロシア側は朝鮮人農民を歓迎し、土地を与えて定着を助けた。そのため、朝鮮からの影響が急増、時にロシア側を混乱させることもあったが、朝鮮人移住者は総じて現地に同化し、この地方の生産を担う民族集団として定着していった。
一方、初期のウラジオストクで、ロシア人に迫るほど多いのは中国人住民だった。
北の地と縁の深いジャーナリスト大庭柯公は、『露国及び露人研究』に書いている。
「長崎は稲佐の若い男どもが『マンジュリア』(マンジュール号)という露西亜の汽船に乗り込んで、初めて浦潮斯徳に渡ったのが、文久2年の1862年でした」
1876年日本の渡航者が100人近くとなり、日本政府は ウラジオストクに在外公館を置いている。
沿海州にはアジアの民族だけでなく、ヨーロッパからも入ってきた。その中で特異な存在はドイツ人で、彼らは経済界で目覚ましい成功を収める。
特に企業「クンスト・アルベルス」は別格だった。
ウラジオストクとヨーロッパを結ぶ定期航路がロシア義勇艦隊汽船により開かれたのは1880年のことだが、その5年後、明治政府も日本郵政に対し、定期航路開設を命じている。
この頃は毎月1回、長崎から朝鮮の釜山、元山を経てウラジオストクを結ぶ5日間の行程である。
1889年、ウラジオストクにおいて鉄道建設が始まった。
基礎工事を請負った日本人業者は、母国に人集めに行き、1000人近い男たちを渡航させた。
『東露要港・浦塩斯徳』(1897年)を書いた松浦充美が沿海州を取材して歩くのは、川上俊彦が本を出した 3年後で、川上がロシア側の資料をもとに、いわば机上で書き上げたのと対照的に、積極的に現場を訪ね、足で書き上げている。
松浦は日本人「青楼」のことも書いている。青楼とは遊郭のことで、北の地ではなぜか「料理屋」と呼んでいた。日本人の「料理屋」には、もちろん日本の娘たちがいた。
アムール湾を望む日本人墓地には43の墓標があった。松浦が確かめて歩くと、没年の多くは22、3歳。法名の末尾は信女と読めた。売られて海を渡った娘たちの、ここは終の地であった。
1896年10月、日本政府は大阪の大家七平汽船に対し、逓信省命令航路として、新潟―ウラジオストク線、函館―コルサコフ線の開設を命じている。
ウラジオストクに東清鉄道建設局が開設され、満州に測量隊が派遣された。鉄道のルートが決まり、中心の位置に、建設基地とも言うべき都市を造ることになった。これが後のハルビンである。
ハルビンに最初に入った日本人は宮本チヨという女性で、都市建設の始まったばかりの98年のことだった。
宮本チヨは熊本県天草の海辺の町に生まれた。父親は山林地主だったが、チヨはロシア人と世帯を持っていた遠縁の「およねおば」に誘われ、渡航を思い立つ。
反対した父親も弟の同行を条件に折れ、チヨと弟の岩松は明治21年、海を渡り、チヨはおばのすすめで医務局長公邸に住み込んだ。
チヨはウラジオストクから、ハルビンの医務局長として赴任するプレチコフと共に、コサックの一隊に守られて陸路、満州に入っている。