
道、果てるまで
ユーラシア横断3万キロの日々 + 4大陸10万キロの記憶
戸井十月 著
新潮社 発行
2011年4月15日 発行
2009年7月から11月まで120日間、バイクとサポートカーで、ポルトガルのロカ岬からロシアのウラジオストクまで走破した記録です。
文中に過去の4大陸走破の時の逸話も挟み込んでいます。
第一章 鰯と向日葵
シェリーは、樽の中にあっても少しずつ木に吸われ、そして蒸発していく。
熟成してる間に蒸発してなくなる分のことを「天使の分け前」と呼ぶのだそうだ。
第二章 バルカンの俠気
クロアチアのドブロヴニクを後に40キロほど南下するとボスニア・ヘルツェゴヴィナのとの国境が現れるが、ここには看板が立っているだけで人もおらず、気がついた時にはその領土を通り過ぎてモンテネグロの国境に行く手は阻まれる。実際、アドリア海に面したボスニア・ヘルツェゴヴィナの領土は南北で20キロほどしかなく、時速80キロで走っていれば15分で通過してしまう計算になる。
役人や警官の人あたりが良いとは言えないが、仕事ぶりはきちんとしている。一口にバルカンの人々と言っても6つの民族は混在しているのだから簡単には括れないが、今のところ、男は無骨で無愛想だが根は優しくて俠気のある奴が多く、女は一見シャイではにかみ屋だが内面は情熱的で芯の強い娘が多いという印象だ。
ガイドブックなどにはトルコが東西文明の十字路のような記述が多いが、実際は、ここバルカン半島で東西はすでに交錯している。
皆で相談し、テッサロニキに2日滞在して体を休め、3日後にトルコに向かうことに決める。ここでの2日間は4人がそれぞれのやり方で勝手に過ごすことになる。長い旅では、こういう休息日を時々挟まないとチームワークが持たない。長い付き合いの仲とはいっても、毎日毎日同じ顔ばかり見ていたのでは誰だってウンザリしてくるというものだ。
第三章 アナトリアの微笑
アナトリアで発掘作業する大村幸弘さん
第四章 不真面目なイラン人
イランのセイレーンを後にして東に走ると、行く手に深い緑の山並みが現れた。カスピ海沿岸の平野地帯と、中部に広がる高原砂漠地帯とを分けるエルブールズ山脈。標高5000mを越える山を含む山脈は広大で懐が深く、まるで夏のアルプスを縦走するような心持ち。少なくとも、砂漠の国というイメージからはかけ離れた風景である。
「不真面目なイラン人」であるところの現地ガイドはラマダーンの断食を全く無視。それどころか無理な断食かいかに健康に悪いかを力説する。実際断食明けのバカ食いなどのせいでイラン人の多くが健康を害しているらしい 。一神教の協議や価値観をすべての人々の暮らしに押し付ける無理と矛盾が、今にも爆発で噴出しそうなイランの道端である。
「中央アジアの北朝鮮」と陰口を叩かれるトルクメニスタンは閉鎖的な独裁国家で、国が決めた旅行者のスタッフが随行しなければ外国人が陸路で旅することはできない。今回の旅のルートで、このような不自由さを旅人に押し付けてくるのはトルクメニスタンと中国だけである。
第五章 “国境”という異界
「公の場に権力者の画や像を飾るような国はろくな国ではない」と言ったのはキューバ革命を起こしたカストロやゲバラだったが(実際、キューバには、時の権力者の画や像を公の場に飾ってはいけないという法律がある)、その言が正しければ、イランもトルクメニスタンもろくな国ではないということになる。
原野の先から立ち上がってきたトルクメニスタンの首都、アッシュガバットの町並みを見た時は我が目を疑った。目が点になるとはこのことか。何しろ、町が真っ白で、まっ青な空の下に巨大な墓石が並んでいるみたいなのだ。トルクメン語で「愛の町」を意味するアシュガバットは、2006年に死去した前大統領ニヤゾフの命令で、イタリアなどから取り寄せた白大理石で大改造されたのだという。
トルクメニスタンとウズベキスタンは、隣り合わせているのに全く違う空気の中にあった。ウズベキスタンの道端には好奇心ともてなしの気持ちに溢れた人々が生き、町には暮らしの温もりと匂いが満ちていた。
第六章 天山の雪 タクラマカンの砂
中国の標準時間は無理やり北京時間に統一されているが、実質的な時間差は東端と西端で5時間。北京で日が昇っても新羅はまだ闇の中。
中国人ガイドは肩を落として曰く「この国からは儒教の精神がなくなってしまいました。みんな自分さえ良ければいい、自分が儲かればいいという考え方になってしまった。全ては白い猫も黒い猫もネズミを取る猫は良い猫だと鄧小平が言った時からおかしくなったのです。悪いことをしようが何をしようがネズミを取ればいいんだ、他人のことなんか構っちゃいられない、ともかく、自分は儲けてやるんだという国民になってしまいました」
夜になってたどり着いた包頭は何億というLEDが闇に点滅している巨大なパチンコ屋のような町。どうして、こうも趣味が悪いのだろう。
第七章 道、果てるところ
たくさんの日本人がモンゴル人ライダーに助けられたが、その1人から聞いた話は感動的だった。
夜になり彼は山の中で道に迷った。モンゴル人ライダーが現れてメインルートまで連れて行ってくれた。
「どうして、ここに出られたんだ?」と訊くと、モンゴル人ライダーは無言で頭上を指差した。夜空は何万という星で埋め尽くされていた。
「星を見て走るんだ」
モンゴル人ライダーの、ヘルメットの中の目がそう言ってたと彼は言う。
父は、私の名前を十月にせよと電報で母に知らせた。生まれた月が10月だから単純にそうしたのではなく、1917年のロシア十月革命に思い入れがあってそう名付けたのだと初めて聞いたのは、それから14、5年経った後だった。
酒好きのロシア人をネタにしたジョークの定番
エリツィンと息子が喋っていた。
息子 お父さん、酔っ払うってどういう感じなの?
エリツィン そうだな。そこにある2つのコップが4つに見えたら、それが酔っ払っていることだ。
息子 お父さん、コップは1つしかないけど?
シベリアを横断するM58号線はあちこち工事中で、土と砂利のダートを走らされる箇所も多い。
東西に8000キロ延びる道の工事現場を走り続けているようなものだが、その一大工事の進め方を見ていると、ロシアという国の底力とロシア男の武骨な律儀さのようなものを感じる。この道が完成したらシベリアを貫く大動脈になるのだろう。
エピローグ
ウラジオストクは美しい町だった。家並みも海も、そして道行く人々も。バイクと車を船に乗せるための手続きに悪戦苦闘する合間を見つけては、人口60万人の北の港町を一人で散策した。
11月1日。遠ざかっていくウラジオストクの町は白一色に塗りつぶされていた。結局私たちの乗った「ルーシー号」がロシアと日本を結ぶ、この年最後の便になった。ウラジオストクの港は、来年の春まで雪と氷に閉ざされることになる。改めて振り返ると、最後の最後まで、結構危ない綱渡りの連続だった。