凡例
固有名詞は、英訳読みを避け、当時のラテン語音に近そうなカタカナ読みを考えた。例えば「ジュリアス」「シーザー」ではなく「ユリウス」「カエサル」とする、等。ただし、もとより専門家の作業ではない。
(本文中にガイウス・カエサルと出てくる人は内容や年を考慮すると、どうやらユリウス・カエサルと思われます。アグリッパの息子のガイウス・カエサルとは違うような気がします。いわゆる有名なカエサルの本名はガイウス・ユリウス・カエサルですし)
ローブ文庫版の充実した脚注を見ると、フロンティヌスは、自身で参照しているはずの史料をそのまま述べず、話を無意識的にか意図的にか改変している場合も少なくないと知られる。
第Ⅰ部 指揮官としての用意周到たれ
原著者による第Ⅰ部のまえがき・抄
私は、過去に幾多の将軍たちが見せた素晴らしい手際を、なるだけ平易に略記し、状況別に整理した戦術事例集を、ここにまとめた。
ギリシャとローマの史家たちは、貴重で豊富な戦訓を我々に遺してくれている。
しかし困ったことに、現代ローマの公人は多事多忙だ。悠々とその全てを熟読して、軍隊司令官として有益な要素を抽出・玩味していられる時間を持てないのだ。
極力簡潔な手引書でなくば、急場の頼りとしては、間に合わないであろう。
Ⅰ-1-3
ラエリウスは細身の杖を振り上げて、奴隷を罰するようにスタトリウムを打ち据え、スパイの正体がバレるのを防いだという。
(平家物語の安宅の関を思い出す)
第Ⅱ部 野戦に臨んで知っておくべきこと
原著者による第Ⅱ部のまえがき・抄
この第Ⅱ部では、開始された戦闘中、および、敵部隊との交戦の直後に起こり得る状況と、その参考になる事例を列挙しよう。
Ⅱ-Ⅰ-6
ある日、イピクラテースは、軍隊の後をついてくる商売人たちの一群(英語で「キャンプ・フォロワーズ」と呼び、売春婦まで含む)に、 兵隊の格好させて芝刈りをやらせ、一方で本物の兵士たちは隠しておいた。
Ⅱ-Ⅰ-17
神に等しきウェスパシアヌス・アウグストゥスは、ユダヤ族が何の仕事もしてはいかんと決めている「安息日」を狙って攻めることで、彼らを征服した。[西暦70年]
※ フロンティヌスと同時代の話なので、現存の貴人をはばかり、大げさな賛辞が与えられている。ここに限らずフロンティヌスは、ローマの近過去の記述にはゴマすりにも見える現皇統への政治的な配慮を尽くし、かつまた 著名貴顕の不首尾の事例を述べる場合もいささかも嘲笑的に響かぬよう筆を抑制している。
(まあ大人の事情で仕方がないと思います)
Ⅱ-Ⅲ-6
※ クナクサ会戦の一次史料と言えるものは、当の傭兵部隊の中級幹部であったクセノポーンが著した『アナバシス(1万人の退却)しかない。クセノポーンは、ギリシャ傭兵隊は1人も負傷せずにペルシャの大軍を2度も壊乱させた、などと自慢している。しかしフロンティヌスは、そんなはずはなかったろうと疑って、彼の推理を展開している。
Ⅱ-Ⅲ-7
※ クラウゼヴィッツは『戦争論』の中で、(古代の戦史は現代の参考にはならない)と語っているけれども、さすがに『フロンティヌス戦術書』くらいは耳学問で知っていただろう。
Ⅱ-Ⅶ-1
※ 紀元前390年より古いローマ史の記録は、侵入してきたガリア人に焼き尽くされたため存在しないという。それを西暦1世紀にリウィウスが想像で補って国史を編んだ。
Ⅱ-Ⅶ-9
※ 西欧史家は、恥を知り名誉を重んずる「騎士道」精神は、古代ペルシャの騎兵の中でまず生じたエートスだった、と解している。
(今のイランにその影響は残っているのでしょうか?)
Ⅱ-Ⅷ-7
※ヌマンティアの戦いは、自由を求めたイベリア原住民を、スキピオが多重の壁と河流変更工事(人口沼)により兵糧攻めにして降した。スペイン人ならよく知っている歴史で、セルバンテスも戯曲を書いている。羽柴秀吉の備中高松城攻めも、あるいは原案はこの辺だったのかもしれない。
Ⅱ-Ⅷ-13
神君であらせられたユリウス・カエサルが率いたローマ軍の騎兵部隊が、スペイン南部のムンダでの激戦中、退却してきた。腹を立てたユリウスは、彼の乗馬を目にみえないところへ連れ去れと命じて、自らは一人、あたかも歩兵になったという体で大股で横隊の最前列へ歩いて行った。部下の騎兵たちは、指揮官を捨てて退却したことを恥じ、攻撃を再興した。[紀元前45年]
Ⅱ-Ⅷ-11
ガリア人の王コムミウスが、カエサルのローマ軍に敗れて、海峡対岸のブリテン島へ落ち延びようとした。海岸まで出たところ、風は絶好の追い風だったが、潮汐が思わしくない。そのためコムミウスの船体は河口沖の浅瀬に乗り上げてしまった。それでもコムミウスは展帆を命じた。
後方から迫ったカエサルは、帆柱が風に揺れているさまを遠望して、敵はもはや全速で遠ざかっているから、これから追いかけても補捉できず、ブリテン島に逃げ込まれてしまうだろうと判断して、追跡を諦めた。[紀元前57~前31年]
※ フロンティヌスは西暦75~78年にブリテンを統治していた間にこの面白い逸話を聞いて、作り話と知りつつ収載したのだろう。歴史家ジョン・クレイトンによれば、コムミウスはカエサルによってブリテン王に据えられたのだという。
第Ⅲ部 要塞攻防の着眼
原著者による第Ⅲ部のまえがき・抄
わたし(フロンティヌス) の考えでは、城塞の攻防に関する軍事技術は、今やもう発展の限度に達してしまっている。
Ⅲ-Ⅹ-7
※ 他の史家がローマの面白くない敗戦エピソードとして忘れようとする出来事を、フロンティヌスは特記して後輩への戒めにした。