
近代将棋 四月号
昭和54年4月1日発行
編集兼発行人 永井英明
近代将棋社 発行
桜を見ていたら(しだれ桜ではありませんが)、昔読んだ、「近代将棋」に連載されていた、天野宗歩の小説の一場面を思い出しました。
小説天野宗歩 青嵐の棋客(第三回) 斎藤栄 作
尾張藩の名古屋城下にて
留次郎(後の宗歩)も、生まれて初めて見るしだれ桜の巨木に目を見張った。江戸には桜の名所が多いが、しだれにお目にかかる機会はなかった。
天保四年四月九日 上田頼母邸における、天野留次郎と勝浦利右衛門の対局
一呼吸、二呼吸…留次郎は、当然の同歩に、長い時間をかけた。その間に、勝浦利右衛門の勝ち気が火のように燃え上がって、盤上を覆うのを感じた。
彼は藩の面目にかけて、この一戦に勝とうとしている。そしてそのチャンスは、次の一手で到来するのだ。
留次郎は、左手で同歩と払った後、フト頼母の方を見て、
「おお、桜の花びらが、あのように…」
と言った。
頼母と勝浦は反射的に庭のしだれ桜の巨木を見た。一陣の強い風が、しだれた枝を揺り動かし、そこから紅の花びらが嵐となって散っていた。
「落花の舞とはあのことかな」
頼母は呟いた。全く見事な光景であった。
勝浦は再び盤面に目を落とした。そして懐紙の上から、一歩を取りあげると、1三歩と垂らした。
(…)
「うっ」
と呻くと、ぐらっと勝浦の上体が庭側の畳に崩れ落ちた。
「 勝浦、どうした?」
慌てた頼母の大声に、隣室から郎党が飛びこんで来た。
あまりの逆転負けに、勝浦の神経の糸がプツンと切れてしまったのである。彼は昏倒し、しばらくはそのまま起き上がれなかった。
庭園のしだれ桜は何事もなかったように桜吹雪を振り敷いていた。
(…)
「 それは違う。私はあのとき、わざと庭のしだれ桜のことを話題にした。相手は極度の緊張の中にいた。それを一瞬、私の言葉につられて視線を外らせたばかりに、矛先が鈍った。つまりは私の奇策のためにつまずいたのだ。それが1三歩の一手になった。あのままなら、当然1二歩、1三歩と連打する棋力の持ち主だった…」
どのくらい当時の史料が残っていたのか、また斎藤先生がどれだけ現地等の調査をしたのかはよく分かりません。 ただ将棋のアマ高段者でもある斎藤先生なら、対局日と棋譜があれば想像力だけでも、全てを書くことが出来たと思います。
棋譜を一通り並べてみて、1三歩のところで、「うん?」と思い、 その手を指すに至った状況を想像してみたのだと思われます。