
敗者が変えた世界史 上
ジャン=クリストフ・ビュイッソン
エマニュエル・エシュト 著
神田順子 田辺希久子 訳
原書房 発行
2019年9月25日 第1刷
原題は、LES GRAND VAINCUS DE L'HISTOIRE『歴史の偉大な敗者』です。
日本人ではなく、フランス人が書いたものなので、やや目新しさがあります。
序文 敗者の美学
英雄詩と歴史を司る文芸の女神クレイオは老獪で一筋縄ではいかぬ。クレイオのお眼鏡にかなった敗者は殉教者に変容し、死後に思いがけず名声を得ることがある。そうなると、彼らの敗北は犠牲とみなされて、彼らの戦いには大きな意味が与えられ、支持者たちはこれを長らく伝えようと精力的に立ち回り、伝説が生まれる。しかし、これとは逆に、最後まで毅然としていた敗者の事績が、勝者たちが練り上げた黒い伝説にぬり潰されることが多いのだ。歴史は勝者によって書かれるからだ。
敵を侮辱もしくは無視すること、この二つは同じことを意味する、以上にまずい手はない。
第1章 ハンニバル ローマを震えあがらせた将軍
17歳までハンニバルは勉学と軍務の習得に全ての時間をあてていた。フェニキア文字の読み書き、傭兵を供給する民族や部族の言語、ギリシャ語、フェニキア系リビュア人の言葉、ベルベル語、ラテン語を学んだ。文学、戯曲、戦略、著名人物の伝記の手ほどきも受けた。彼は10歳から、同年齢のほかの子どもたちと同じように兵士たちの従僕となって、戦闘を間近で体験した。穀物の粥を主な内容とし、時には干し肉のおまけがつく粗食を兵士たちと分かちあい、地面に横たわって寝た。
ハンニバルの死とほぼ同じ頃に、彼の好敵手であったスキピオも亡くなった。2人の英雄には共通点が多かった。ほまれ高い名家に生まれ、最高の家庭教師から教育を受け、幼少期を終えるとすぐ軍事の手ほどきを受け、 ごく若い頃から戦場で才能を発揮した。2人の将軍は、頑迷なまでに人生を戦いに捧げた。2人は故国を遠く離れて日々を送った。そして2人とも同国人に裏切られた。
第2章 ウェルキンゲトリクス カエサルに「ノン」といった男
いくつかの勝利をあげ、英雄的に抵抗したにも関わらず、アレシアの戦い(前52)で敗れる。この挫折はガリア独立の夢に終止符を打つが、その後にフランスとなる一帯に祖国愛の種を蒔いた。同時に、フランス国民の物語を語りづくることになる一つの伝説が誕生した。
ローマが征服した土地の責任者たちがローマの利益にかなう協力者となるよう目を光らすため、カエサルはガリア諸部族の支配階級の子弟に半ば留学生、半ば捕虜という一風変わった身分で一定期間をローマで過ごすことを義務付けていた。ウェルキンゲトリクスは成年になるまでのちょうど3年間、やがて自分の敵となるカエサルに付き従って戦場を駆け巡り、現場で戦争術を学ぶことができた。
「[敵の]指導者たちが連れてこられた。ウェルキンゲトリクスは 引き渡され、武器は彼の足元に投げ出された」
カエサルが以上のように極めて簡潔にウェルキンゲトリクスの降伏を模写していることは、カエサルは一貫して自分のことを三人称で記していることと並び、昔も今も『ガリア戦記』の読者にとって驚きである。
やがてローマの支配者となるカエサルはおそらく、ガリアの蜂起は重大事態であったと印象を与えたくなかったのだろう。さらっと語ることで、敵の力と脅威の度合いのみならず、彼自身が陥った窮地をも希釈して伝えることができる。こうして『ガリア戦記』でカエサルは謙虚を装って自制した筆致を貫いたが、おべっか使いたちがウェルキンゲトリクス降伏のシーンを誇張して伝え、カエサルの軍功を称えた。
第3章 クレオパトラ 失われた幻想
クレオパトラについては、伝説が史実をしのぐことになる。あれから今日に至るまで、彼女は女性が用いるあらゆる側面の体現として扱われることになる。こうと決めたら一歩も退かない女性、野心家、官能的な女、恋する女、しどけない女、男を虜にする女、高飛車な女、人を手玉に取る女、やきもち焼き、服従を拒否する女、 妥協しない女。彼女について人々は想像たくましくし、誇張し、短絡的な結論を引き出してきた。
第4章 ジャンヌ・ダルク 死をへての勝利
歴史家ジュール・ミシュレが弁護役をかって出て、彼女の事績を称えて「政教分離派の聖女」にまつりあげなかったとしたら、これに負けじとデュパンルー猊下[1802-1878、オルレアン司教かつアカデミーフランセーズ会員]が宗教裁判で異端者の烙印を押された彼女がカトリック教会の聖女と認定されるように奔走しなかったとしたら、この娘のことを誰が覚えていただろうか?
ミシュレの40年後、社会主義からカトリック信仰に回帰した作家シャルル・ペギーは彼女の「召命」[神からのお召し]は、悪を凝視してやまない彼女の思い、彼女の内面に芽生えた悪への反発に根ざしている、と考えた。
社会主義者ジャン・ジョレスは、著作『新しい軍隊』(1910)の中で、鎧をまとった彼女に崇敬の念を捧げている。
ジャンヌ・ダルク賛美は社会主義者から極右に至るまで、政治的立場の違いを超える現象となった。
自分は天上の王[神]の命じるところのみに従うと明言していたジャンヌは、政治については素人であった。そして彼女が「気高き王太子」と呼んだシャルル7世が実践していたレアルポリティークの、理想やイデオロギーを二の次とする手法が彼女の破滅を招いた。
当時のフランスは3つに分割されていた
・一方的に成立が宣言された英仏[二重王国]が、欧州大陸において統治するランカスター朝フランス
・時勢に応じてイングランドとくっついたり離れたりする故に、王族であるがフランス王家にとって油断ならないブルゴーニュ公が支配するフランス
・残りが、やがてシャルル7世となるシャルル・ド・ヴァロアが治める「王太子のフランス」
ジャンヌ・ダルクの容貌や外観については一切不明
この時代は、ラバスタンのコンスタンス、ラ・ロシェルのカトリーヌ、ブルターニュのピエロンヌなど、何人もの女予言者を輩出していた。その中で最も有名なのが、ジャンヌの誕生のほんの少し前に死んだピレネーの農婦、マリー・ロビーヌだった。
命の危険を顧みることなく、自分に与えられた使命に全てを捧げていたジャンヌ・ダルクは、政治的かけひきや同族間の確執について無知であった。王太子シャルルは違った。だからオルレアンの勝利に惑わされてなどいなかった。
ジャンヌの最期、火刑台の場にいた人々の証言は数少なく、しかも相矛盾している。
待てば海路の日和あり。これこそが、シャルル七世の統治スタイルの原則であった。自分が善と考えることを実現したいと逸る女戦士ジャンヌは、待つことを最後まで拒否した。シャルル・ペギーのテーマとなる、政治的策動と神秘に近い純粋にな理想との齟齬が明らかになった最初の例である。
ルーアンで行われたジャンヌの異端裁判はシャルルの名誉を汚した。「篤信王」の尊称を持ち、誰よりも敬虔なキリスト教徒とされるフランス国王が魔女のおかげで戴冠できた、と言われてはたまらない。こうした恥辱をぬぐい去るため、シャルルは1450年にジャンヌ異端裁判の見直しに着手した。
第5章 モクテスマ二世 最後の皇帝
アステカ帝国の王
1519年の出来事、新世界の富を求めるスペインのコンキスタドール(征服者) たちのメキシコ上陸である。意志強固で、鋭敏な戦略家だったコルテスに対して、無力な迷信や伝統にがんじがらめとなったモクテスマは弱々しく優柔不断で、尻込みしてはずるずると譲歩し、敗北から破局へと突き進んだ。
ユカタン
侵略者たちの言葉を理解できなかった現地人は「あなたが何を言っているのか分かりません」を意味する「ユクアクカタン」を何度も口にした。スペイン人たちはこれをユカタンと聞き間違え、ここの地名だと誤解した。
第6章 ギーズ公アンリ一世 神に従い、王に反して
カトリック同盟(ラ・リーク゚)との連携を強め、「平和的」な権力掌握でなく、プロテスタントとの全面戦争を選んだことが彼の敗因となった。
1588年5月 パリに外国人の駐屯を禁じる都市特権があったにも関わらず、400のスイス兵を含む6000人の部隊が、王の要請によりパリに入った。「暴君」は自分たちを虐殺するつもりだろうか、と住民は考えた。大樽に敷石、砂、土を詰めたものが並べられた。これがパリの「バリケード」の第1号である。
「バリケード」という言葉は、大樽をさすガロ=ロマン語のbarricaから来ている。