解説 市川慎一
いずれの文もフランスのアシェット社が刊行した旅行専門誌『世界周遊』(La Tour du Monde 1860年創刊)に掲載されたものである。
18世紀の中頃から、自らは外地に出られない人たちも、宣教師の報告や航海士の紀行文を紐解けば、地上には、ヨーロッパの古い文明とは無縁の新しい世界があることを知ることがようやく可能になってきたのである。
19世紀に入ると、蒸気船の出現とも相まって、フランスは空前の海外旅行の時代を迎えることになる。
一 モージュ「日仏修好通商条約全権団随行員の日本観」について
日本の地図では「宗谷海峡」の名で親しまれている海峡は、国際的にはむしろ「ラ・ペルーズ海峡」の呼び名で知られている。名前を冠されたラ・ペルーズ(1741-1788)は、ルイ16世が北太平洋の調査に派遣したフランスの大航海士である。
1787年(天明7年)に宗谷海峡を通過した。
この天明年間というのは、我が国でも南下を続けるロシアとの関係で蝦夷地の警備問題が脚光を浴びた時代に奇しくも符号をする。
フランス側は日本との外交交渉をスムーズに行うため、当時、開国以前から琉球で日本語を習得した神父として知られていたメルメ・カション(正確にはメルメ・ド・カション)を通詞に雇うなど、準備に余念がなかったことが伺われる。神父は初期の日仏関係において大活躍したが、勝海舟から「妖僧」ときめつけられた通詞カションについては、富田仁氏に伝記『メルメ・カション 幕末フランス怪僧伝』があり、幕末から維新にかけて日本に対するフランス外交は全てこの通詞の手腕にかかっていたことが知れるのである。
ニ コラッシュ「箱館戦争生き残りの記」について
榎本武揚自らオランダから回航してきた「開陽丸」の威力を持ってすれば、まだ脆弱だった新政府軍(薩長)の海軍に対しても十分に勝算ありと考えたとしても、当時としてはあながち状況判断を誤ったわけではなかっただろう。
「手記」には、 後に蝦夷地政権の総裁に指名される榎本武揚の名が出てこないのは日本の読者にとって全く意外というほかない。
土方歳三や大鳥圭介なども出てこないが、これら日本人の名前に関して推測しうることは、モージュ侯爵をはじめとして当時のフランス人にとっては、日本人の名前を覚えるのは一苦労だったようなので、コラッシュも榎本総裁の名前も土方らの名前も失念してしまったのではないかということである。
このコラッシュの手記の「さわり」は、鈴木明『追跡 1枚の幕末写真』の中で長々と引用されている。ただ鈴木氏は読者の便宜を図られたためか、氏の引用箇所は全て今流行りの表現を用いれば「超訳」で紹介されている。
三 ウエット「明治七年の富士登山」について
1858年7月29日に、アメリカ領事ハリスがやっと締結にこぎつけた通商条約では、開港場は神奈川となっていた。ところが、当時寒村にすぎなかった横浜も神奈川の一部であると幕府は解釈したことと、何よりも外国人警備には砂嘴上の横浜の方が好都合だったことから横浜が選ばれたのである。つまり、このような言い方が許されるならば、開港後の日本の政策は、横浜の第ニの「出島化」に踏み切ろうとしたものだった。
明治7年頃から、日本側は「外国人立ち入り禁止地域」を緩和せざるを得なくなっていたという。したがって、外国人もかなり自由に国内旅行ができるようになってきていたのである。ただ、外国人がこの条項を利用し、商業上で利益を上げるのを厳禁したので、旅行目的として「健康保全」と「学術調査」等に限ったとのことである。
3年後に富士登山をしたアーネスト・サトウの日記を見ると、イギリス人たちは、江戸から神奈川までは汽車で向かったと記されている。そのうえ、女性にも容易に登れる富士山を、婦人(フジ)の山と洒落るほど日本語の達人だったサトウのことであったから、ウエットらが片言の日本語で立ち往生した珍道中とは比較にならなかったであろう。
モージュの旅行記については、原敬がすでに翻訳していた。原敬の翻訳は毎日新聞の前身「 東京日日新聞」に明治22年8月18日号から9月6日号まで8回にわたり訳載された。