第五章 元禄の長崎
1 初めて見る日本
手紙の中に日本の植物について研究していることだけを書いていて、日本の国そのものについて研究しているとは書いていない。
植物の研究なら、日本側から異議を唱えられることはない。
2 ケンペルの弟子
通詞今村源右衛門が弟子
3 長崎についてのケンペルの記述
「町」の長である「乙名」の義務について、詳細な報告がある。
日本の歴史資料はほとんどまったく、武士階級が書き残した文献に基づいている。
武士にとって五代将軍が発した法令は、今まで見なかったほどの大きな重荷であり、それゆえ彼らはこうした法令の事を、天下万民にとっての苦しみでなかった。
ケンペルのおかげで、人口の90%を占めていた一般庶民にとっては、実はそうでなかったことを知るわけである。
第六章 参府旅行
1 江戸に行く
三代将軍家光のもとで鎖国が行われ、大名の参勤交代が実施されるようになったが、オランダ人に対しても、将軍に敬意を表するために毎年江戸に参府して拝謁するようにとの命令が下された。
ケンペルは江戸時代のたいていの日本の歴史家が書いているのと違い、五代将軍綱吉のことを賞賛している。
2 拝謁
将軍に歌を披露するケンペル
3 特別の拝謁
饗応や医術の披露
4 日本の風習とその国土
ケンペルはヨーロッパの悪い道と比較して、日本の道路を高く評価した。
5 街道を行く人々
ケンペルが最も気に入ったのは気に入ったのは比丘尼である。それは若い女性の物乞いの事で、頭は剃っているが、非常に美しく着飾った人々である。
第七章 京都のケンペル
1 京都を見物する
ケンペルは今日の外国人観光客と同じく、桜の花よりも楽しそうに過ごしている日本人に関心を向けている。
花なら自分の国に帰ってでも見ることができるからである。
2 知恩院
ケンペルによれば、当時は歴代将軍の遺灰と遺骨の一部が納められ、位牌が保管されていた。
3 八坂神社
ケンペルの見た乙女像は、釈迦を描いたものだった。
4 清水寺へ
七重の塔、クルマドウ、金属鏡、音羽の滝
5 方広寺
当時は大仏があった。
6 三十三間堂
多数の観音像、弓術
第八章 帰国と後世への影響
1 日本を去る
オランダのライデン大学で博士号を取得、結婚
2 『廻国奇観』
ペルシャ、無実の証明、鎖国論、医学と治療法、麻薬・コーヒー・タバコ、日本植物誌などの内容
3 『日本誌』の出版
『廻国奇観』の出版後、ケンペルはわずか四年しか生きなかった。これは試供品に過ぎなかった。
死後彼の原稿を基に『日本誌』が出版された。
4 『日本誌』の影響
『ガリバー旅行記』の中で、唯一実際に存在している国が日本
スウィフトはケンペルの原稿を目にしたのだろうか?
あとがき
シーボルトとツュンベリー、そしてケンペルの三人を『出島三学者』と呼ぶことがある。
シーボルトとケンペルはドイツ人で、ツュンベリーはスェーデン人だった。
シーボルトやツュンベリーの時代は、もうすでに蘭学ができていたが、ケンペルの元禄時代はまだ成立していなかった。
ケンペルは弟子にオランダ語の文法を教えた。体当たりでオランダ語を習得した時代に、これは画期的なことだった。