ラペルーズ世界周航記 日本近海編(まえがき 序説)

ラペルーズ世界周航記 日本近海編 表紙

ラペルーズ世界周航記 日本近海編

小林忠雄 編訳

白水社 発行

1988年2月15日 発行

 

最近読んだ二冊の本にラペルーズのことが出てきました。詳しく知りたいと思いこの本を手に取りました。

 

編訳者まえがき

18世紀の後半に、ヨーロッパ人で太平洋の主要な探検航海を行ったのは次の3人である。

フランス。ブーゲンビル(1729-1811)、太平洋横断と世界一周(1766-1769)

イギリス。クック(1726-1779)、太平洋探検航海。第1次(1768-1771)、第2次(1772-1774)、第3次(1776-1780)

フランス。ラペルーズ(1741-1788)、太平洋探検航海(1785-1788)

 

ラペルーズは国王ルイ16世の命をうけ、二隻のフリゲート艦を率いて、太平洋地域の地理学上の探検及び、交易と自然科学の調査研究の目的をもって、1785年8月1日、フランスのブレスト港を出帆したのである。

彼はオーストラリア東海岸に到着するまでの2年6ヶ月間の航海について、欠かさず日記と航海データを記録していた。

ラペルーズ一行の行方不明にもかかわらず、幸いにも1787年9月までの報告は、カムチャツカ半島で下船したロシア語通訳レセップスによって、ヴェルサイユ宮殿のルイ16世のもとに届けられた。そしてその続編にあたるオーストラリアに着くまでの報告は、イギリス人に託送されてフランスに無事届けられた。

この原稿がパリに到着した翌1789年、フランス革命が勃発し、革命政府の国民議会が1791年4月22日にこの航海日誌を出版することを決議し、その編者にミュローが選出された。

ルイ王朝に伝えたラペルーズの記述が革命政府によって出版されたことにより、編集においてルイ王朝とその縁者スペイン王室に関する項はできるだけ削除された。

またラペルーズによる事実の誤認に基づく誤りを訂正し、全体の文体を読者に理解しやすいように改めた。ラペルーズは単純過去を多用していたが、編者は複合過去に修正している。

このラペルーズの世界周航記は、1797年に革命政府により発行されたが、その内容は全編26章の航海日記と、全航海のデータを主体としており、それに同行学者の通信と編者ミュローの序言、ならびに国王ルイ16世の教書(訓令)が加わり、4巻に分かれている。この他、隊員の作製した地図とスケッチが別冊として 刊行された。

この26章のうち、フィリピン出帆から日本海を北上し、ダッタン海峡を調査した後、北海道とサハリン島(樺太島)の間の海峡と、千島列島を通り、カムチャツカ半島の東海岸に着くまでの日本近海編が、第16章から第22章までの7章に記載されている。

そしてこの7章にまたがる周航記を原文のフランス語から日本語に訳し、本書の第1章から第7章に収録したのが、この本の主体となっているのである。

しかし、この巻頭の序文と、巻末の捜索編は、ミュローの序文とフランス、イギリスの資料による私(編訳者)の研究並びに、自ら遺物引き揚げに参加されたバヌアツ居住のディスコンブ氏とニューカレドニアのコナン氏から直接見聞した事柄を私がまとめたものである。

 

序説 この探検航海の起源

ルイ16世は、年少の頃から、地理学の専門家について教育を受けていたので、世界地理についてはある程度の知識と興味を持っていた。

 

海洋探検船にふさわしい名称として、オートリッシュ号はアストロラブ号(古代の天文観測儀。アストロラーベのことか?)と改名された。

異国民との友好増進のための多種類のプレゼントを大量に積載した。このプレゼントは鉄器具、ガラス玉、織物、食器、小間物等の日用雑貨が主なものであった。

 

ラペルーズの生まれ故郷のアルビの所属するタルン県は、海に面することのない内陸の一地方であるが、不思議に多くの海軍軍人が出たところである。今日でもタルン県人は、祖国のために生涯を捧げた、ラペルーズを始めとする30人以上にのぼるこの地方出身の海軍提督と士官を誇りとしている。

 

国王ルイ16世がラペルーズに与えた教書より

報告によれば、カムチャツカ半島に最も近い島々だけがロシアに属し、その南方にあたる島々はロシアの支配をうけていないらしい。