物語 パリの歴史 「芸術と文化の都」の2000年 (前半)

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物語 パリの歴史 「芸術と文化の都」の2000年 表紙

 

物語 パリの歴史
「芸術と文化の都」の2000年
福井憲彦 著
2021年8月25日発行
中公新書 2658

はじめに より
多くの人にとってパリと「芸術文化」というイメージの結びつきは強い。どこから、それは感じられるのだろうか。どうして、またどのようにして「芸術文化の都市パリ」は、またそのイメージは、形成されてきたのだろう。
本書でたずねてみようとするのは、この問いである。

序章 パリのエコロジーと歴史の始まり
中世からパリ市の紋章に船が描かれるのは、まさにセーヌとの関わりの重要性を示している。パリは港であった。もちろんセーヌの川港である。p6

第1章 キリスト教とパリ
1 教会の多い町パリ

2 襲来する外敵と戦うパリ
フランスの社会と文化を捉える場合には、単一の、あるいはごく少数の、民族ないしエスニック集団の単位で考えてはいけない。
特にパリが位置するイル・ド・フランス地域は、古くからのケルト系、ローマからのラテン系、そしてより北方のゲルマン系緒集団が、この地で相互に交流し、時には権力闘争を展開した。p22

第2章 王権のもとで学術文化の都となる中世パリ
1 中世の王権と王都パリの整備
パリは元来、カペ朝のお膝元であったが、フィリップ二世の祖父ルイ六世は改めて1112年に、パリに、王都としての特別な地位を公認した。
カペ朝の古くからの拠点オルレアンもロワール川のほとりにあり、東西と南北のフランスをつなぐ要衝にあるという点では、十分王都の候補たりうる位置にあった。p29

2 セーヌ左岸に始まる新たな学術文化の輝き

3 パリ大学とソルボンヌ

第3章 職人・商人文化の発展と中世末の暗転
1 20万都市パリの発展
セーヌ川は上流でも下流でも、多くの河川を支流として合わせるので、全体の流域はかなりの範囲になり、水運が発達した理由につながっていた。
ロワール川の流域が、国王の一時滞在用の居城を置くには適していても、王国の中心にならなかったのは、ロワール川の流量が季節的に安定していなかったのも一因ではないか、という推定もあるくらい、水量の安定性は必要であったが、セーヌはこの点、問題はなく、むしろ時たま生じる増水の方が問題であった。p44

2 ギルドを形成した職人・商人と市民生活
職人の社団のなかでも、とりわけ歴史が古く威厳のあった団体が肉屋(ブシュリ)だというのも、象徴的である。
戦う人である貴族をはじめ支配階層にこそ重要であった肉という食料を、独占的に扱った彼らは、市政への発言力も強かった。p52

3 危機の時代のパリ

4 パリの戦闘的な自治の姿勢

第4章 ルネサンスのパリ ー王都から王国の首都へ
1 ルネサンスの魅力とイタリア戦争

2 世界のなかのフランス、その王国の首都としてのパリ
1539年、フランソワ一世による「ヴィレル・コトレの法令」により
・文書主義と国家言語統一に向けての第一歩。法令や裁判等の実践は、公文書として記録に残すこと。それにはラテン語や各種の地域言語ではなく、フランス語で記すこと。
・中世以来の各小教区で、教区民の洗礼と埋葬の記録を必ずつけ、毎年それを国王役人に届け出ることを義務化。戸籍登録の原型。p78-79

3 人文主義と学術文化の再活性化

第5章 17・18世紀パリの文化的発展と王権
1 新たな行動様式とアカデミーの創設
17世紀はヨーロッパ史においては「危機の時代」
気候の寒冷化と悪天候による農業の不振や飢饉
疫病の流行
三十年戦争といった長期の国際紛争
フランスでは絶対王政と呼ばれる政治体制で、一定の安定を見せていた。

2 文化活動の高揚とサロンの活性化

3 17・18世紀のパリ都市空間の整備再編