
革命と住宅
ゲンロン叢書015
本田晃子 著
ゲンロン 発行
2023年9月25日 第1刷発行
ソ連成立からの建築、特に住宅の歴史が詳しく書かれています。
はじめに ソ連建築の2つの相
ソ連、そしてロシアでは、絶対王政の時代のように指導者が国民を分断し、その安全や生命を脅かす状況が残存しているかのようだ。しかもそれによって国民にとっての指導者の権威をますます高められている。
そのような非常事態が常態となった環境下で、ソ連建築は常に過少であると同時に、過剰でもあるような状態に置かれてきた。
1980年代には「ミチキー」と呼ばれるグループのような、社会や政治的と切り離された場所で、貧しくとも静かに楽しく暮らしたいと考える人々も出現した。彼らは団地のボイラー係など、低賃金でも自由になる時間が豊富な職について趣味に打ち込み、自宅のキッチンに友人たちを招いては自由な会話を楽しんだ。
革命と住宅
01 ドム・コムーナ 社会主義的住まいの実験
1920年代に登場したのが、旧来の家の否定の上に作り出された新しい家、コミューン型集合住宅「ドム・コムーナ」だった。ドム・コムーナの背後には、住空間を物理的に共同化・集団化することによって社会主義的な生活様式「ブィト」と、社会主義的な心身を持った「新しい人間」を作り出すという、壮大な実験があった。
02 コムナルカ 社会主義住宅のリアル
革命の理想に燃えるポリシェヴィキやコムソモール、一部の前衛建築家たちは、ドム・コムーナや社会主義都市を建設し、生活環境を物理的に共同化・集団化することで、社会主義的な心身を持った「新しい人間」を生み出せると信じていた。一方、そのようなエリートたちの論争の傍らで、この時代の大多数の都市労働者は、すでに共同化・集団化された住宅に住んでいた。ただしそれはドム・コムーナの輝かしい理念の皮肉な反転像というべき、「コムナルカ」と呼ばれる空間だった。
強制的に接収された住宅はそれぞれの自治体(市ソヴィエト)の管理下に置かれ、都市近郊に暮らす労働者に再分配された。このような経緯で誕生したのが「共同住宅」通称「コムナルカ」である。
そもそもコミューンを基盤としたドム・コムーナの住人たちとは異なり、コムナルカの住人たちは必ずしも生活の共同化や集団化を支持していたわけではなかった。彼らの多くはただただ生き延びるためにコムナルカを選んだに過ぎない。よってコムナルカでは当初より相互不信が蔓延していた。
1953年にスターリンが死去し、フルシチョフがソ連の指導者の座に就くと、労働者住宅をめぐる状況は大きく変化した。フルシチョフは労働者住宅の充足を国策として掲げた。その結果、日本では「団地」と呼ばれる家族単位の集合住宅、通称「フルシチョーフカ」が、ソ連全土に急ピッチで建設された。人々はコムナルカかららフルシチョーフカへと先を争って引っ越した。1959年から62年のわずか4年の間に、約900万人が新居へと移り住んだとされている。それはまさに 民族大移動と言うべき現象だった。
03 スターリン住宅 新しい階級の出現とエリートのための家
第一次五カ年計画の目玉だった白海・バルト海運河の建設では、強制収容所の政治犯らを労働力として利用し、右岸と左岸で建設速度を競い合わせた。それによって運河は予定よりも早く竣工したが、大型船舶が航行できないほど水深は浅く、慢性的な食糧不足と過労や事故のために、囚人の死亡率が10%を超えることもあった。
労働の競争化によって、1930年代には同じ労働者の間にいわゆる「勝ち組」と「負け組」が生まれ、社会の階層化が進んだ。そして党幹部だけでなく、新たに実現したこれらの特権階級のために、新たな住宅の建設が始まった。モスクワの目抜き通りであるゴーリキー 通りをはじめ、都市の主要な通りには、住宅難に喘ぐ多くの都市住民を尻目に、「スターリン住宅」、あるいは「スターリンカ」と呼ばれる、豪奢な集合住宅が次々に建設されていった。
いまだ戦災復興の見通しも定かでない1947年、スターリンのイニシアチブによって、第二次世界大戦における勝利とモスクワ建都800年を記念して、首都の中心部に8棟の高層ビルを建設することが決定された。このうち7棟が実際に建設された。
「スターリンの七姉妹」とも呼ばれるこれらの高層建築は、集合住宅だけでなくモスクワ大学校舎、外務省の庁舎、オフィス、ホテルなど、それぞれに異なる用途を持っていた。にもかかわらず、その外観は古典主義とゴシック様式を基本に様々な過去の建築を折衷したスタイルで、いずれも似通っていた。
7つのビルのデザインに共通するのが、中央に向けて高層化していく階段状の構造とその頂点に置かれた尖塔だ。実はこのデザインの決定にはスターリン自身の介入があった。
ソ連時代にはエリートの象徴として描かれたこのようなスターリン住宅は、ソ連解体後になると、社会的・政治的権威への不信や単なるやっかみもあって、露骨にいかがわしい空間として表象されるようになっていった。なぜならこのような特権的な住まいを獲得するためには、何かしらの不正に手を染めざるを得ないはずだからだ。
スターリン時代に、ソ連は反・家族の立場から家族の強化へと、大きく舵を切った。しかもここで言う家族とは、スターリンを象徴的 父とする家族国家観に基づいた、家父長を中心とする家族だった。
フルシチョフの住宅政策がソ連社会に与えた影響は絶大だった。1957年から63年の間に、ソ連の人口の実に3分の1にあたる7500万もの人々が新たな住居へと引っ越したと言われている。そしてソ連全土には日本の公団団地に相当するコンクリート造りの積層住宅、通称「フルシチョーフカ」が出現し、国土の景観を一変させることとなった。
ちなみにソ連型団地の目覚ましい成功は西側諸国でも注目を集め、1960年代には日本からも住宅公団の一団が建設現場の視察に訪れている。
現代ロシア人にとってのフルシチョーフカは、老朽化が激しく、断熱や防音などの性能に劣り、インフラは脆弱で、デザインは画一的、何より狭すぎる、とすこぶる不評である。
それでも、長らくバラックやコムナルカの超過密空間で生活せざるを得なかった1950年代のソ連人にとっては、フルシチョーフカへの引っ越しはまさに夢の実現 だった。
フルシチョーフカの供給のために導入されたのが、徹底的なプレファブリケーションだった。内外壁や柱、床、天井からドアの取っ手のようなディテールまで、あらゆるパーツは規格化され、工場で大量生産された。建設現場では、工場から輸送されてきたこれらのパーツが、大型クレーンなどを用いてまさにレゴブロックのように素早く組み立てられた。
05 ブレジネフカ ソ連型団地の成熟と、社会主義住宅最後の実験
フルシチョフは1964年秋に突然失脚する。フルシチョフに代わって書記長の座に就いたブレジネフは、フルシチョフ時代の施策を覆し、国家による統制と権威主義的な体制を再強化した。しかしその反面、フルシチョフ によって開始された住宅の大量供給政策は、基本的には維持された。集合住宅の規格化・工業化は一層促進され、ソ連各地にブレジネフの団地「プレジネフカ」が出現した。そして1966年から70年の間に、おおよそ4400万の人々がこれらの新居へ移り住んだ。
初期のフルシチョーフカでは、階段でアクセスできる上限の5階建てが主流を占めていたが、プレジネフカは エレベーターの設置によって 9階建て以上に高層化した。
外壁にも様々な工夫が凝らされた。異なった色やテクスチャを持つ素材を利用することから始まって、モザイク・タイルの巨大な壁画が作成されることもあった。
このようにブレジネフ時代には団地の多様化が進んだが、それでもその画一性は、西側メディアの反ソ・プロパガンダのみならずソ連国内のメディアにおいても、しばしば風刺や批判の的にされた。
亡霊建築論
06 ロシア構成主義建築とアンビルトのプログラム
ソ連最初の大規模建設プロジェクトである労働宮殿から、
史上最大の建築プロジェクトとなったスターリンのソビエト宮殿計画、
そしてスターリン体制からの転換を象徴するはずだったフルシチョフの新ソヴィエト宮殿計画に至るまで、
国家規模の最重要プロジェクトは軒並みアンビルト(建てられなかった)に終わっている。
07 ソ連映画の中の建築、あるいは白昼の亡霊
エイゼンシテインとアレクサンドロフの映画『全線』
この映画を通じて人々の注意をソ連農業の集団化・機械化へと向けさせようとした。
この映画に出てくる純白の幾何学形態からなるソフホーズのデザインの起源は、フランスのモダニズム建築家ル・コルビュジェが戦前に手掛けた、いわゆる「白の時代」の住宅作品にある。
1920年よりパリで建築家として本格的な活動を開始したル・コルビュジエは、住宅を「住むための機械」と呼び、住宅も「住む」という目的に従って機械のように合理的に設計されるべきであると主張した。
このようなル・コルビュジエの作品や思想は、雑誌『事物』や構成主義建築家たちの刊行していた建築誌『現代建築』などを通して、ロシアでもほとんど時差なしに紹介されていた。
08 スターリンのソヴィエト宮殿、あるいは増殖する亡霊
ロシア・アヴァンギャルド建築の中でも最もラディカルな作品は総じてアンビルトだった。理由は、それら建築でありながら、大地の帰属を拒んだからである。
ソヴィエト宮殿のコンペ終了後、スターリンが「ソヴィエト宮殿はレーニンの記念碑とみなされなければならない」と発言したことによって、イオファン案の宮殿の頂上に立つ労働者像は、ニューヨークの自由の女神像を大きく凌駕する、高さ約100mのレーニン像に置き換えられた。
しかしその建設は、独ソ戦、ロシア風に言うなら大祖国戦争により中断され、再開することもなかった。
09 フルシチョフのソヴィエト宮殿、あるいは透明なガラスの不透明性について
フルシチョフも新たなソヴィエト宮殿を建設しようとしたが、クレムリンの脇に大規模会議場の大会宮殿を建設することが決定し、完成したため、フルシチョフのソヴィエト宮殿もアンビルトになった。
1962年、フルシチョフには見向きもされなかったソヴィエト宮殿の最終案の模型に、強い感銘を受けた一人のアメリカ人がいた。この時期にたまたまソ連を訪れていたアメリカの建設会社の経営者で、億万長者のダウニングという男である。フルシチョフに無視され意気消沈していたであろうソヴィエト宮殿計画局の人々に、彼は同様の建築物をアメリカで実現することを約束する。そしてこの約束は、1971年に果たされた。ワシントン D.C.に建設されたジョン・ F ・ケネディ舞台芸術センターが、それである。
10 ブロツキーとウトキンの建築博物館、あるいは建築の墓所
住宅から商店や 映画館まで、あらゆる建物が規格化され、あたかもカタログから商品を選ぶように建設することが可能になったソ連の大量建設時代。そこで不要の存在となったのは、皮肉にも建築家たちに他ならなかった。このような状態にあった1980年代のソ連建築界に登場したのが、意識的にアンビルトを目指した一群の若手建築家たちだった。
11 ガラスのユートピアとその亡霊