モンテーニュ 旅日記(上)(バーデン~シエナ)

Ⅲ バーデンからアウクスブルグへ

スイスの国とはお別れであることがわかった。コンスタンツに着く少し前から、ちらほらと貴族の城館を見かけていたからである。スイスには、その種の建物はまずないのだ。

 

モンテーニュ殿は、この旅において3つのことを後悔された。

・ 各地の料理を教わって、帰国後、屋敷でその腕前を発揮してもらうために、料理人を連れてこなかったこと

・ ドイツ人の従僕を連れてこなかったし、だれか地元の貴族に同行してもらうことも考えなかったこと。要するに、ろくでもないガイドのいいなりで日々を過ごすことに、非常なわずらわしさを感じておられる

・ 旅に先立って、それぞれの土地の名所や名物を教えてくれる本を読んでこなかったこと、 あるいはミュンスター(訳注 彼の主著『コスモグラフィア』は当時もっとも成功を博した世界地誌)のような本を旅の荷物に入れてこなかったこと

 

高地ドイツ(南ドイツ) の物価の高さは、フランス以上だ。

 

アウクスブルク

シュトラスブルクがドイツ最強の都市と評されるように、ここはドイツでもっとも美しい都市と評されている。

 

Ⅳ アウクスブルクからヴェネツィアへ

トレントの二リューばかり手前のところで、われわれはすでにイタリア語圏に入っていたのだが、このトレン卜の町では、ドイツ語とイタリア語が半々に話されている。「ドイツ人の」と呼ばれる地区や教会があるし、ドイツ語で語りかける説教師もいる。「新教」のことは、アウクスブルク以降、話を聞かない。

 

「わたし」は、これほど疲れ知らずで、これほど苦痛を訴えることのない殿の姿を、これまで見たことがなかった。道中でも、宿屋でも、出会うものごとに対して気持ちを鋭く張りつめて、 あらゆる機会に異国の人々と話を交わされるモンテーニュ殿。「わたし」は、こうしたことが殿の苦痛を紛らわしてくれていると思う。

 

ヴィチェンツァ

貴族の邸宅が櫛比している。

(訳注 ヴィチェンツァは建築家パッラーディオ(1508-1580)の町で、モンテーニュは彼の建築物を数多く目にしていることになる。)

 

パードヴァ

剣術、ダンス、乗馬を教える学校を見て歩いたのだが、

(訳注 パードヴァは由緒ある大学都市で、学問の中心地でもあったはずだが、モンテーニュは大学のことには一言もふれない。これに関しては、当時、学生の暴動が発生、当局の弾圧を受けて、大学の機能が麻痺していたからだともいう。)

フランスの貴族たちが100人以上、教わりに来ている。この点について、モンテーニュ殿は、これでは、学校に通うフランスの若者たちにとっては大変に具合が悪いと考えられた。 こんな風に自分たちで仲間を作っていたら、自国の習慣や言語にすっかり慣れてしまい、外国の人々と知り合い、交遊する機会などないからである。

 

Ⅴ ヴェネツィアからフィレンツェへ

フェッラーラ

われわれはある教会でアリオストの肖像を見たのだが、その著作に載っているよりも丸顔だった。この人は、1533年6月に59歳で亡くなった。

(訳注 アリオストの没年はモンテーニュの生年にあたる。アリオストの墓は当初、市内サン・ベネデッド教会にあり、近くには「アリオストの家」が残る。

なお、モンテーニュは、このフェッラーラで、長編叙事詩『エルサレム解放』の作者タッソと会っている。正確には、狂気を理由として、この宮廷詩人が幽閉されていた聖アンナ病院の地下牢まで会いに行ったのである。この訪問については『エセー』には記述がありながら、『旅日記』にないのは不思議だが、 秘書が同行せず、モンテーニュも口述しなかったのだろう)

 

フィレンツェ

われわれは大公の宮殿を拝見したが、 ここで 「東洋の宝石」(不明)を模造したり、水晶細工をして、楽しんでおられるのだ。大公は錬金術とか工芸に関心があり、大建築家でもあられる。

(訳注 大公フランチェスコ1世・デ・メディチが錬金術に入れ込んでいたのは有名である)

 

モンテーニュ殿は大公の正餐に出かけられた。

太公夫人(有名なビアンカ・カッペッロ)が首座につかれ、ご自身はその次に座られた。

 

Ⅵ フィレンツェからローマへ

シエナ

大公は、 かつてのシエナの標語や銘文などを現状のまま残しておられるから、それらが至るところで「自由」を告げている。

(訳注 あくまでもモンテーニュの印象にすぎない。現在、シエナを訪れてよく見ると、市庁舎や市門などを含めた各所に、支配者メディチ家のマークである「丸薬」の紋章が見られる)

 

シエナの要塞にあるメディチの紋章