ガリレオ・ガリレイ(岩波新書 評伝選)

ガリレオ・ガリレイ 表紙

ガリレオ・ガリレイ

青木靖三 著

岩波書店 発行

特装版 岩波新書 評伝選

1994年10月20日 第1刷発行

 

 

ガリレオの著書・書簡・裁判記録などの原資料にさかのぼって 400年前の真実を掘り起こし、この不運な先覚者に加えられた弾圧とそれに対する抵抗の真実を探っています。

本書はもともと1965年11月20日岩波新書青版として刊行されたものです。

 

 

はじめに

科学の歴史はある偉大な天才から次の偉大な天才へと峰を伝ってなだらかに 現代に至っているものではない。 それは常に激しい格闘の末に獲得されてきたものなのである。 科学者個人個人の血と汗と涙と 、そしておそらく汚物にもまみれた必死の苦闘の末に獲得されてきたものなのである。

 

 

1 時代、家系、 幼少年時代

ガリレオ・ガリレイの生まれた年は1564年、あの英国の大劇作家 シェイクスピアの生まれたのと同じ年 、そしてその月日は2月15日 、あのルネサンスの最後の巨匠と言われる大彫刻家ミケランジェロの死ぬ3日前のことであった。

ガリレイ家そのものは、ルネサンス時代のフィレンツェを通して存続してきた古い名誉ある市民階級の出身であった。

しかしガリレオが生まれたのはフィレンツェではなく同じ トスカーナ の大公領内であったピザの街であった。

そこで10歳まで育った。

 

 

2 ピサ大学生時代

1581年ガリレオはピサの大学に入学した。

 

 

3 リッチ、数学との出会い

父の友人だった オスティリオ・リッチに数学の手ほどきを受けた。

 

 

4 ピサ大学教授時代、新しい運動論

ガリレオの生涯にわたる仕事を概観してみると、 一貫して2つの問題がもつれあって続いている。地上における運動の問題と天上における運動の問題である。この2つの問題は、ある意味では近代科学の性質を貫いているものでもある 。そしてガリレオの死んだ年に生まれる ニュートンが『プリンキピア』 (1687年)で この2つの問題を統一して解決した時に、近代科学は真の意味で成立したと言えるのである。

 

 

5 パドヴァ、生活

28歳で パドヴァの大学に転任したガリレオは、その後 18年間 、1610年に当時の トスカナ大公コジモ2世に招かれ、故郷 フィレンツェの宮廷お抱えの数学者となるまで、ここに勤める。

パドヴァ大学の所属するヴェネツィア共和国は、経済活動の分野におけると同様に 、知識の分野でも 思想、信条に関わらず 個人の人格を尊重し、 自由に活躍できる基盤を提供していた。

 

 

6 パドヴァ、研究

ガリレオパドヴァに移る前後に、2つの注目すべき著作 『アリオスト傍注』と 『タソー(タッソー)考』とで、自分の詩についての考えを明らかにしてる。

 

 

7 望遠鏡、新世界の発見

1543年に出版されたコペルニクスの『天球の回転について』は、 明らかに地動説をとりながらも 、決して騒ぎを引き起こしもしなかった。 むしろそれを攻撃したのは、ルターのような聖書を重んじる 新教徒たちの方であった。

パドヴァでブルーノーが捕えられ、 1600年にはローマで火あぶりにされている。 そしてブルーノーは確かに コペルニクスの支持者ではあった。 しかし彼が火刑に処せられたのは地動説を唱えたからというより、むしろカトリック信仰の教義から見て異端だったからである。

 

 

1609年 望遠鏡の発明、というよりも、これによる様々な天体観測が始まる。

 

 

新世界の発見を我々は歴史上三たび経験したと言える。

コロンブスによるアメリカ大陸の発見

ガリレオによる月に山や谷のあること、また 木星に衛星のあることの発見

・そしてソビエトの月衛星ロケット、ルーニクによる月の裏側の写真撮影による発見

(3番目はこの本が書かれた時期の時代を感じます)

 

 

ガリレオ 以前には、世界はただひとつ 、地球とその周囲の月より下の空間に限られ、その外部は異質の世界と考えられていたのに対して、 ガリレオは天上の世界も、地球と同質の世界であると推測させる事実を発見した。

 

 

8 『星界の報告』

ガリレオは自分が発見した惑星をメディチ星と名付けた。

かつて自分の友人でもあり弟子でもあったコジモ二世の恩恵と友情のきずなをさらに強固なものにしようとした。

 

 

月表面の不規則さと、そこでの太陽光線の反射の事実は、月は固有の光を持つ不滅の天体の一つであるという考えを打倒した。

またメディチ星の発見は、宇宙には大地とは別に、運動の中心となりうる天体が他にもあることを証明した。この新惑星は、月が地球に対して持つ関係を木星に対して持つ。

 

 

9 フィレンツェ

10 サグレドの警告

宮廷をいうものは嵐の海と同じで、いつだれが競争の烈風によって沈まないまでも、苦しんだり悩んだりしないといえるのか、またいつ邪悪でねたみ深い人間の中傷によって、君主がその正義と徳とを高尚な人間を破滅させるのに使わないと誰が断言できるのかと警告する。

 

 

11 太陽黒点

もしコペルニクス説が真実であるなら、金星にも月と同じ相の変化、みちかけが観測されるはずだ。

 

 

ガリレオ太陽黒点の観測により、太陽そのものの運動と回転とを認めることとなった。

 

 

ローマ教皇庁内の内務省、文部省、法務省検察庁を一つの省に集めたような検邪聖省

 

 

12 聖書と科学

木星の衛星、月表面の凹凸、金星のみちかけ、土星太陽黒点、こういったものの観測によって、ガリレオは1597年にケプラーに自分の地動説の立場を述べた。

 

 

当時では、天文学的・物理学的な世界像が社会的なせ世界像、つまりイデオロギーとまったく重なり合っていたのである。

そして当時のイデオロギーとは教会の解釈する聖書であった。

ガリレオはこのイデオロギー上の問題をあくまで科学者として、科学の対象とし科学的に解決しようとしたのである。

ガリレオの生涯にわたる根強い楽天主義、また不用心は恐らく彼の、そのような科学者としての自信の表れであっただろう。

 

 

13 第一次裁判

大地はコペルニクスのいうように自転しながら公転している。そこで地表面のある部分は公転速度プラス自転速度、反対側は公転速度マイナス自転速度の速さになる。このような地表面の各部分の速さの違いから海水に動揺が生じる。これが潮汐だというのである。

この慣性法則の発見者としては、この法則を無視した誤った理論をガリレオは生涯、抜け出ることはなかった。

 

14 『黄金計量者』

1618年 秋 驚くべき現象が天に現れた。彗星が3つ現れたのである。

 

『黄金計量者』は、グラッシの『天秤』の文章を引用し、これを徹底的に批判するという念入りなの論争の書

 

15 教皇ウルバヌス八世

16 あらたな作戦

17 父子、兄弟

18 『天文対話』、印刷まで

19 『天文対話』

『天文対話』が取り上げた主題

・地上で経験しうる物理現象 、そしてこれが天動説 、地動説 いずれの立場に立っても十分に説明されることが示される 。つまり地動説の可能性を示すのである。

・天文現象。 これによって一歩進んで 地動説の蓋然性を示す。

・海の満干現象によって、今まで解けなかった問題が いくつかは解けるようになったと主張される。

 

20 『天文対話』、反響、ローマ召喚

21 第二次裁判経過

ガリレオの訴因

ガリレオは大地の運動、太陽の静止を仮説的に論ぜず、絶対的なものとして取り扱って命令に背いたこと

ガリレオは謝って 満干の現象を、現実には存在しない太陽の静止性と大地の運動性のせいにしたこと

ガリレオ1616年に検邪聖省が彼に与えた命令のことを欺いて黙っていたこと

 

22 断罪、異端誓絶

23 裁判以後、『新科学対話』、印刷まで

24 『新科学対話』、最後の日び

『天文対話』が科学的・論理的なパトヴァの街で研究された内容と、文学的 ・芸術的なフィレンツェの街によって与えられた形式との、緊密な調和の上に成り立った傑作であったのに対して、 そしてまたルネサンスヒューマニズムの精神をもって書かれた最初の近代科学の書物であったのに対して 、『新科学対話』は同じ対話形式を踏み、 同じ3人の登場人物を持ちながらも、もはや 、あのフィレンツェの文学的 技術的香気が失われ、 ヒューマニズムの精神も死んでると言っても言い過ぎではあるまい。

 

1642年1月8日 死去

 

25 アルチェトリの家財目録