
チェンバレンの明治旅行案内 横浜・東京編
B・H・チェンバレン W・B・メーソン 著
新人物往来者 発行
昭和63年1月20日 初版発行
本書は『日本旅行案内』 "A Handbook for Travellers in Japan " の第3版(1891年)を抄訳したものです。原書は明治20年代までの外国人の日本地誌研究を集大成したもの、とのことです。
本書について 高梨健吉
まず序論があり、日本の歴史地理から風俗習慣に至るまで、外国人旅行者として心得るべきことが要領よく解説されている。
序論 日本文化総論
英語を理解するガイドは開誘社という、横浜と神戸に本社、東京と京都に支社をもつガイド協会で得られる。ホテルに申し込めばよい。
(注 開誘社は外国人用ガイド専業組合として1879(明治12)年に設立され、伊藤鶴吉(イザベラ=バードの従者)らのガイド経験者が発起人となった)
覚えておいてほしいのは、日本語を発音する時には、子音は英語に近い発音でよいが、母音はスペイン語やイタリア語で発音することである。
日本では神道と仏教は実際には全く混合しているので、純粋の神道者あるいは純粋の仏教徒の数は極めて稀なのである。唯一の例外は薩摩地方である。この土地の領主が[豊臣]秀吉と手を結んで仏教僧の一部を迫害して以来、彼らは放逐されたのである。
日本の仏教におけるコンスタンチヌス大帝[キリスト教の保護者]は、推古天皇(593年~621年)の皇太子であった、聖徳太子であった。
愛染明王
この神は愛の神として人々から見られている。(注 恋愛の祈願、染物業者、水商売の女の信仰対象)
770年 印刷術の導入
(注 木版印刷のことをしめすが、この年、日本では最古の木版印刷物『百万塔陀羅尼』が印行された)
809年 ひらがなの発明
(注 古来、空海(弘法大師)を平仮名の発明者に比定する俗説が広まっていた。空海の著作の中に「五十音図」が収められていたため、彼がアイウエオの発明者であるが如くの伝聞があった。この説は今日では全く否定されている。五十音図は仏教の悉曇、つまりサンスクリット語のアルファベットに由来する。したがって、809年という年は平仮名の発明とは 何の関係もない)
左甚五郎(1594~1634?)
日本最大の木工彫刻家であるが、左ききのため「左」とあだ名された大工である。
秀吉はときおり日本のナポレオンとよばれる。
弘法大師(774~834)
四国の今の金刀比羅宮の近くの屏風ヶ浦が彼の生地である。
日本旅行案内 旅程
ルート1 横浜
横浜は大部分の旅行者が最初に日本のこころにふれる場所である。開港場のうちで最大のところで、実質的には東京の港である。
日本のこの地域に開港場を設けることが決定した時、横浜ではなく繁栄していた神奈川が選ばれたのは当然のことであった。その神奈川は横浜とは対岸の今は部分的に埋め立てられてしまった小さな湾に面していたのである。しかし、日本政府(江戸幕府)は神奈川に不都合を感じたのである。神奈川は東海道の街道筋にあたり、外国人と江戸を上下する武装した大名行列とが衝突することが懸念されたので、その代わりとして横浜の借地に便宜が与えられたのである。
ルート2 横浜からの小旅行
行合川
腰越の近傍の村で日蓮が死刑執行人の手中から不思議にも解放された時、使者がすぐに鎌倉に急行し、その後の処置をあおいだのである。一方、同じ頃、死刑執行猶予の令状が執権北条時頼の宮殿から送られた。2人の使者は偶然にもこの小川で出会ったのである。それ以来、行合川と呼ばれるようになった。意味は「会合の川」である。
ルート3 鉄道で横浜から東京へ
ルート4 東京
眼鏡橋(現在は万世橋として知られている)は、その丸いアーチに由来している。その左側の運河の場所は「仙台の泣き堀」として一般に知られている。
地元の言い伝えによると、仙台の大名伊達綱宗は吉原に多大の財貨を浪費するくせがあった。将軍はそのみだらな生活から綱宗を立ち直らせるために、その贅沢をやめさせようとして、堀のこの部分を深く広げる工事を綱宗に命じたのであった。この工事は綱宗の資産を使い果たし悲嘆にくれてようやく成就したということである。
上野博物館の展示物
第四のケース。キリシタンの遺物。
[注 伊達の遣欧使節が日本人に公になったのは岩倉使節団がイタリアのベニスを訪れてからである。早速、イギリス公使パークスが1873年に日本アジア協会でこの出来事を口頭発表した]
このケースの中の展示物には、十字架の前で祈る支倉常長の油絵、ローマの名誉市民の称号を与えられたことを記すラテン語の文書、聖なる絵画、ロザリオ、十字架、ひらがなで書かれたカトリックへの帰依をあらわす小さな日本の書物、日本語とラテン語で書かれた伊達政宗からローマ教皇への親書の写し、イタリアの服装をした支倉の肖像などがある。
ルート5 東京近郊
解説 外国人の日本研究における『日本旅行案内』の位置 楠家重敏
アーネスト=サトウは1862年に来日して以来、イギリス外交官という地位を利用して日本各地を訪れることができた。数回にわたる彼の紀行は『一外交官の見た明治維新』という回想録にも垣間みられるが、特筆大書しておきたいのは彼が自分の日記をもとにして英文の新聞や雑誌に日本国内の紀行文や地誌に関する記事を寄せていることである。
第2版で注目されることは、地誌の増補よりも序論の充実であろう。数字でいうと、初版の20頁が第2版で一挙に100頁あまりとなっている。
『旅行案内』は第3版より編者がサトウとホーズからバジル=ホール=チェンバレンとウィリアム=ベンジャミン=メーソンに変更されたのを契機に、書名も『中部および北部の日本旅行案内』から『日本旅行案内』に成長していった。
『日本事物誌』(初版)は『旅行案内』(第2版) の序論が質的発展をとげたものであった。
日本では 明治中期頃まで山岳地帯についての信頼のおけるガイド=ブックが存在していなかった。もっぱら山岳信仰が障害となっていた。そのため一世を風靡した志賀重昻の『日本風景論』も多くの情報を『日本旅行案内』(第3版)にもとめなければならなかった。
1894年に『日本旅行案内の』の第4版が出た。この版はフランス文学に意外な貢献をはたしたのである。フランスの劇作家で駐日公使にもなったポール=クローデルは『日本旅行案内』(第4版)を携えて1898年に来日した。
この1ヶ月ほどの日本での体験をもとにしてクローデルは作品をあらわしていったのである(渡辺守章『ポール・クローデル』)