五木寛之全紀行3 遥かなるロシア ロシア編

五木寛之全紀行3 遥かなるロシア ロシア編 表紙

 

五木寛之全紀行3 遥かなるロシア ロシア編

五木寛之 著

東京書籍 発行

平成14年8月4日 第1刷発行

 

五木さんのヨーロッパ紀行を読んできましたが、やはり五木さんには、ロシアが一番似合います。

 

シベリア上空を飛ぶ飛行機の中で五木さんの隣に座った大先生

五木さんからロシア語を教わる

お早よう、は「ドブロエ・ウートロ」

ありがとう、は「スパシーボ」

と教えてあげる。

それを手帳に書き込む大先生。そしていびきをかいて寝る。

その間に、ちょっと手帳の中身を覗きこむ

お早よう、は「丼ウォーター」とあり

ありがとう、は「千葉水郷」と書いてあった。

モスクワの街で大先生にあったので、聞いてみたら、よく通じたとのこと。

 

ホテル・モスクワのバンドは女だけの編成で、ドラマーはものすごいグラマーだった。彼女の手にかかると、ドラマのスティックが、本当に爪楊枝のように見えるのである。

 

1965年のソ連旅行のコース

まず横浜からソ連船舶公団の船でナホトカへ行く。バイカル号という名の貨客船だ。そこからはシベリア鉄道イルクーツクへ。

さらにアエロフロートのターボ・プロペラ機でモスクワへ飛ぶ。モスクワからレニングラードまでは、有名な 〈赤い屋号〉という特急に乗る。

それが最も安く、かつ面白そうなコースだった。

 

ドイツ風の〈ペテルブルク〉が 〈ペトログラード〉に変わったのは、1914年、ドイツがロシアに宣戦布告してからです。〈レニングラード〉と呼びならわされるようになったのはロシア革命後の1924年です。

 

世界には必ず一つの国に、新旧 2つの街というものがあります。ポーランドは首都ワルシャワに対してクラクフという古い都。フィンランドですと、新しい街ヘルシンキに対して、昔、首都のあったトゥルクという美しい街。

ロシアの場合は、モスクワの方が非常に古く、レニングラードはロシアの新しい顔なのです。

 

かつて私たちはヨーロッパから渡ってきた数々の歌を、小学唱歌などで愛唱してきました。それらの「庭の千草」や「蛍の光」やその他の歌を、それぞれスコットランド民謡、とかアイルランド民謡とか、呼んできましたね。それらを勝手にイギリス民謡とは言っていません。

それなのに、ロシア民謡だけはイージーにロシアの歌として扱ってきたのです。そして、哀愁を帯びたロシア民謡は日本人の感受性に馴染みやすい、などと言っていました。

これは考え直すべきではないでしょうか。ウクライナ民謡、カザフの歌、アルメニア民謡、グルジア古謡などと言わなければならないのではないかと思うのです。

 

エスペラントには常に2つの側面がつきまとう。1つはコスモポリタニズムの色調であり、もう一つは創始者ザメンホフユダヤポーランド人であるということだ。

 

革命後のソ連エスペラント運動が一時的に生き生きと花開いた時期は、ソ連における政治の革命と芸術の革命とが手をつないで歩いた短い幸福な時期であった。

 

ドイツでナチスが政権を握った1933年の秋頃から、トロツキストに対するモスクワ裁判の行われた1936年にかけて、ソビエトエスペラント同盟は解散させられ、エスペラントによる国際通信は禁止された。

そして1937年末には、それまで続けられていたエスペラントによる国際放送も中止された。

それは戦争の危機を前にして国際的スパイ活動に備える実際的な処置にすぎなかったのかもしれないが、やがてスターリンとジュダーノフの指導のもとにソビエト愛国主義が唱えられ、コスモポリタニズムが排撃されるに及んで、エスペラントは理論的にも政策的にもその息の根を止められてしまった。

 

日本にエスペラントが紹介されたのは、1900年頃と言われている。最初の学習者として丘浅次郎の名が知られているが、二葉亭四迷エスペラントと多少の関わりのあった人物だ。

宮本正男の著書『大杉栄エスペラント運動』によれば、当時の朝日新聞の記事に、〈1906年最大のトピックスは、浪花節エスペラントの大流行〉という文章があるという。大杉栄もまたエスペラントと関わった一人だった。

 

サンクトペテルブルクでのコンサート

最初のチャイコフスキーの曲が始まった。隣の椅子が妙に揺れ動く。

そこに座っている小柄な老人を見ると、頬につたう涙を拭おうともせずに、その老人は必死で嗚咽をこらえようとしている。そのために体が震えて、五木さんの椅子にまで振動が伝わってくるのであった。

その日はレニングラード攻防戦で、悲劇的な包囲戦が開始された記念の日。悲しみの記念日。

かつて包囲された地獄のこの街で、手袋をはめてチャイコフスキーを聴いていた青年がいたとしたら、彼は今七十歳を過ぎているはずだ。その彼が老人になって、悲しみの記念日に同じ場所で同じチャイコフスキーを聴くということは、ありえないことではない。

 

1992年のモスクワやサンクトペテルブルク

日本のメディアではやたら悲惨さを伝えていたが、実際に行ってみると、全然そんなことはなかった。

 

フランス語の苦手な NHK の偉い人が、パリで〈新聞くれ!〉を連発してちゃんと通じたという。

(シルヴプレ、か)

 

レニングラードの青春 [対談]前橋汀子

五木 バッハというのは、例えば教会の曲であるとか、祝典曲であるとかという風に主題を与えられて、ずいぶんたくさんの曲を毎週、毎月、仕事と言ってはおかしいですが、勤勉に書いた人みたいですね。だからいわゆる芸術家の自由奔放な生き方というのではなくて、大変勤勉にコツコツと、ある意味でサラリーマンみたいなところがあったんじゃないでしょうか。