日本脱出記 大杉栄

日本脱出記 大杉栄 表紙

 

日本脱出記
大杉栄 著
大杉豊 解説
土曜社 発行
2011年8月15日 初版第2刷発行

このブログでは多くのヨーロッパ紀行を載せていますが、その中でもこの本は特異です。
フランスの当時の牢屋の様子などが詳しく書かれています。
バリやリヨンの町並みに対する感想は辛辣です。フジタらが活躍していた、狂乱の時代だったからでしょうか?
当時の事情で、全体的に伏せ字の部分も多いです。
ちょうど同じ頃、柳田国男も、国際連盟関係でヨーロッパにいたのですね。

日本脱出記 ヨーロッパまで  1923年4月5日、リヨンにて
上海のホテルで唐世民という偽名で宿泊する大杉栄
その名を見て、笑いこける友人
その名は唐の太宗の名で、日本で言えば豊臣秀吉とか徳川家康とか言うのと同じことで、その偽名の正体がすぐわかった。本当の中国人でそんなバカな名をつける人はいないから。

カルト・ディダンティテ(警察の身分証明書)
フランスでは外国人はもとより、内国人ですらも、みなその写真を1枚貼り付けた警察の身元証明書を持っていなければならない。
(今も内国人は持っていなければならないと思います)

パリの便所  1923年4月30日、パリにて
今パリではミディネットが同盟罷工している。
このミディネットというのは字引を引いてもちょっと出てこない字だが、ミディすなわち正午にあちこちの商店や工場からぞろぞろと飯を食に出てくる女 という意味で、いろんな女店員や女工を総称するパリ語だ。そしてこのミディネットがやはり、正午の休み時間に、本職の労働以外の労働するという話を聞いた。
(仏和辞典をひいてみると①[やや古](パリの服飾店の)女子職人 、お針子②ミーハー[族]の女の子、とありました)

牢屋の歌  1923年7月11日、箱根丸にて
パリの女の世話のないことは、前の「パリの便所」の中で話した。が、そこでは、物がちょっと論文めいた形式になったために、だいぶかみしもをつけて、その中の「僕」という人間がいつもその世話のない女を逃げ回っているように体裁をかざっていた。
が、体裁はどこまでも体裁で、事実の上からいえばそれは真っ赤なうそだ。逃げまわっていたところじゃない。 追っかけまわしていたくらいなのだ。
(正直でよろしい・笑)

酒に弱かった大杉さん。しかし、
牢に入ってみて、差し入れ許可の品物の中に葡萄酒とビールの名が入っているのを見出して、退屈まぎれにそのどっちかを飲み覚えようと思った。
その結果白葡萄酒を飲めるようになった。

入獄から追放まで  1923年8月10日、東京にて
どうせどこかの牢屋を見物するだろうということは、出かける時のプログラムの中にもあったんだが、とうとうそれをパリでやっちゃった。

パリのサン・ドニの集会で日本のメーデについて話した後警察に捕まる。
未決監であるとともに、また有名な政治監であるラ・サンテ監獄に入るが、最初の4、5日は外のレストランからのごちそうを食べることができた。しかし預り金がなくなると、牢屋の食べ物になった。

フランス追放ということで、マルセイユで船室などの確認のため、一旦船に乗る。
それから 一晩、友人たちとマルセイユでお別れの遊びをしようとしていたが 、一旦船に乗った以上は降りることはできない。国境から出てしまったという形になり、降りれば再びまた国境に入ったものとして、6ヶ月の禁錮に処される。

外遊雑話
船の中で、ポーランド人の若いピアニストが中国人の労働者を怒鳴りつけていた。
それを見たロシア人たちが、そのピアニストに食ってかかっていた。
しかしそのロシア人も、ユダヤ人だと言うと、まるで見向きもしない。

大杉さんがフランスに着いてからの主な仕事の一つは、毎朝パリから出るほとんど全部の新聞に目を通すことだった。

パリについた晩、夕飯を食いに、宿から外へ出てみて驚いた。その辺はまるで浅草なのだ。しかも日本の浅草よりも、もっともっと下劣な浅草なのだ。
貧民窟で、淫売窟で、そしてドンチャンドンチャンの見世物窟だ。軒なみに汚いレストランとカフェとホテルとがあって、人道には小舎がけの見世物と玉転がしや鉄砲屋の屋台店が立ち並んでいる。そしてそれが 5町も6町も7町も8町も続いているのだ。
リヨンの停車場前の広場が何かで大にぎやかだというので、ある晩行ってみるとやはり 同じドンチャンドンチャンと玉転がしと文まわしと鉄砲とだ。そしてそこをやはりパリのと同じように、5フランか10フランかの安淫売がぞろぞろとぶらついている。

大杉栄 略年譜 より抜粋
1903(明治36)年 東京外国語学校(現、東京外国語大学)に入学
1906(明治39)年 エスペラント語学校を設立、講師となる
1915(大正4)年  フランス語講習会を開講