
MOCT モスト
「ソ連」を伝えたモスクワ放送の日本人
青島顕 著
集英社 発行
2023年11月29日第1刷発行
自分が初めてゲットしたベリカードはモスクワ放送でした。1980年の事です。
一番よく聴いたのはロシアの声になってから、2003年から05年くらいだったと思います。
「人に歴史あり」という通り、基本どのような人にもそれぞれの歴史があるものですが、この放送局に関わった人々の人生は、ソ連、ロシアが絡んでいることもあり、更に興味深い歴史になっています。
題名のMOCTとは架け橋という意味です。
第1章 「つまらない放送」への挑戦
モスクワ放送で10年間アナウンサーを務めていた西野肇さん
自らの若かりし日々の出来事を綴った書籍『冒険のモスクワ放送 ソ連”鉄のカーテン”内側の青春秘話』を出版する。
レービン課長は1967年から、ソ連崩壊を挟んでロシアになって、さらに21世紀に至るまで、40年間以上も同じ職を続けた。
元外務省で作家の佐藤優さん、1975年、高校一年の夏にソ連・東欧を旅行した時、モスクワ放送を訪ねている。
佐藤氏曰く「1975年のソ連は豊かな社会だと実感できた。住宅や地下鉄、バスがしっかりしていた。それが外交官になって86年に行ったときは貧しくなっていた。87年から95年には外交官として住みましたが、どんどん貧しくなっていくのを感じました」
第2章 30年の夢探しの旅
多民族が共存していたソ連は、比較的人種座別の少ない社会だったと言われている。
外からイメージするような巨大な白人だけの社会ではなかった。
モスクワ放送の新人職員が家財道具をそろえるためには、局の女性職員と架空の婚約証明書を作ることになっていた。
それを国営デパートに持っていくと、布団や枕といった品物を待たずに買うことができた。
「婚約」なのだから、その後に結婚しなくてもおとがめはない。
1993年10月のロシアの政変
局についてみると、共産党系と民主派系のロシア人幹部が何通りかの「政治解説」のどれを使うかで言い争っていた。
レービン課長は不在だった。レービンさんという人はいつもそうだったのだそうだ。重要なときになればなるほど、自ら決めることを避けた。
ゆえに責任を問われることなく、40年もの間、課長の座に居続けることができたのではないか。
この政変の直後、モスクワ放送はロシアの声と名を変えた。
インターバル・シグナルもムソルグスキーの曲にかわった。”キエフ(キーウ)の大門”をテーマにした曲だ。
日向寺さんが「別の国(ウクライナ)のことをテーマにしているのでは?」と尋ねたが、
ロシア人のスタッフは「ルーシ(古代ロシア)はあそこから全てが始まっているのだから」と問題にされなかった。
いつもロシア当局の言いなりで放送したわけではなかった。
北方領土のニュースを伝える時、日本人職員は、ソ連・ロシア側の立場である「南クリル4島」という言い方をせず、「南クリル4島、いわゆる北方領土」と言い換えていた。
そうしなければ日本のリスナーに伝わらなかったからだ。
聞きつけた何者かが局幹部に告げ口をしたことがあったそうだが、事情を説明して乗り切ったそうだ。
第3章 偽名と亡命と
ソ連の対外放送「モスクワ放送」は1929年10月にドイツ語から始まった。
日本語放送は第二次世界大戦中の1942年4月14日に始まる。
放送局は亡命者と社会運動家の家族によって担われた。
日本向けモスクワ放送の初代アナはムヘンシャンは福岡県筑豊地方出身の緒方重臣さん
鉱山労働者を経て、遠洋航海の船員となり、ウラジオストクで亡命
1946年12月3日にハバロフスクからの日本語放送が始まる。
モスクワから45分、ハバロフスクから計2時間と、ハバロフスク発の方が時間が長かった。
ハバロフスク支局の放送で反響があったのは、シベリアなどに抑留されて収容所にいる人たちの消息を1日4回各5~7分流した「おたより放送」
第4章 「日本人」のままで
アナウンサーや翻訳員として働いた清田彰さん
夜が更けてから、収容所の警備兵が手製タバコを巻くのに使ったソ連の新聞の切れ端を通訳が持っていた辞書の助けを借りて読む。
知り合った女性との仲を引き裂かれる。当局の監視の下での生活
ゴルバチョフに対してはペレストロイカを行ったが、どんどん後退して、旧勢力が台頭して放送局での検閲が厳しくなって、仕事ができなくなった。