第5章 迷いの中を
ハバロフスクは人口が60万人を超える大きな都市なのに、空港から市内に行くのに、公共交通機関がない。
第6章 望郷と、ねがいと
モスクワ放送から届く返信には、イラスト付きのカードや絵はがき、番組表とともに、直筆の丁寧な手紙が添えられていた。
(自分も受け取っていました)
岡田敬介さんが書いていた。
丁寧すぎる手紙の内容や、文字の大きさや形は1970年代以降、ソ連崩壊を経てモスクワ放送がロシアの声に変わった後のおよそ40年間にわたって、ほとんど変化がない。
岡田さんは日本課に届く手紙をすべて開封する権限を持っていた。
日本の新聞も検閲し、切り取ってから日本人職員に日本人職員に見せていた。赤旗さえも七夕の短冊のように切り刻まれた。
日本人職員の監視役でもあったようだ。
2013年7月1日、ロシア人としてモスクワで亡くなる。
ハバロフスク支局に勤めていた中川公夫さん。37歳アムール川で亡くなる。
父の秀男さんが亡くなった時にアムール川に散骨された。面倒な許可は取らず、こっそりと。
第7章 伝説の学校「M」
ミール・ロシア語研究所
代々木駅前の雑居ビル「平和ビル」にあった。ミールは平和の意味だが、平和ビルというのは偶然
かつては正しい発音ができないと口の中に手を突っ込まれて矯正された。
著者そこに通う。厳しかったが、勉強するのがこんなに楽しいと思ったのは初めてだった。少しずつだけれども、確実に力のつくことが実感できたから。
そこの所長の東一夫さんは本名はシミズだった。
当時のソ連は本名を隠して生きることも少なくはなかった。
岡田嘉子さんのように樺太の国境を越えて亡命。どうやって越境したのか謎が残る。
第8章 その後の2人
肋骨レコード
レントゲン写真をレコードに使用。健康診断で使われた肋骨が写っているのが多かった。
西野さんは坂田明さんをレポーターにして肋骨レコードの番組を作成
番外 ラジオが孤独から救ってくれた
モスクワ放送の日向寺さんの番組にも出演。ニッポン放送の周波数の隣
エピローグ
ソ連がアフガニスタンに侵攻していた1983年5月、モスクワ放送の英語放送のアナウンサーが二日間にわたって計五回、ソ連による侵攻を批判する放送をしていた。
十字を切る順番は正教では上下右左の順。カトリックなどの上下左右とは反対
ソ連、ロシアとモスクワ放送の日本語放送の歴史
1942年 4月14日 日本語放送開始
1946年 12月3日 ハバロフスクからの日本語放送開始
1956年 日ソ国交回復
1959年 レービンさんが入局
1967年 レービンさんが日本課長に就任
1980年 モスクワ五輪
1983年 9月1日、大韓航空機撃墜
1991年 12月、ソ連崩壊
1992年 岡田嘉子さん死去
1993年 モスクワ放送がロシアの声に改称
2009年 レービンさんが退局
2014年 ロシアの声がラジオ・スプートニクと改称。インターネット放送に
2017年 5月、人間の声による放送が終了
2022年 2月24日、ロシアがウクライナに侵攻