旅する貴族 「南島旅行見聞記」解説 酒井卯作
柳田の性格についての物語がある。先学者たちはよく私どもに行った。「柳田先生には鼻ひげの黒い時代と白い時代がある。鼻ひげの黒い時代の先生は厳しかった。まるで剃刀の刃だ。この時代に先生の許で長く交際を続けるものは少なかった。お前たちは先生の鼻ひげの白い今だけしか知らないから幸せだよ」
人間を評価するにあたって、その時代区分を鼻ひげの黒と白とに分ける仕方が私に面白かった。
戦後、吉田茂が内閣を組織したとき、入閣の誘いを断った柳田が、「私には敵がありますので」と言ったという。その言葉の裏には、あの徳川一族の柳田下ろしの一件を思わずにはおられない。
明治43年(1910)の5月、伊豆の下田にて
旅館ではなく、ある民家で泊めてくれるというので、柳田がここで海を見たり考え事などをしていたら、この様子を見た家の主人は、この客は自殺するのではないかと考え違いして、とうとう宿泊を断ってきたという。
柳田の旅の半分以上は和服姿の旅だった。袴をはいて白足袋、これが柳田の旅姿であった。女性の白足袋は普通であるが、男の白足袋となると格式を必要とした。柳田はそれが似合う人だった。
沖縄本島の国頭地方を歩いた柳田は、「草鞋もはきクリ舟も試みた」と述べている。
クリ舟とは刳り舟のことで、1本の松の大木の幹を掘り込んで造った船をいう。
晩年、柳田も旅を思い出しながら、藁で作ったものより、茗荷(みょうが)の葉で作った草鞋の方が丈夫だと語っていた。
茗荷の系統は、特に稲作地帯でない山村や離島などでは、藁の代用として珍重された。
柳田の人生の後半、民俗学の旅はどのようなものだったか。私はこれを2つの型に分けてみた。1つは民俗学の弟子たちを伴っていく旅、もう一つは一人旅で、その代わりに荷物を持つ者を伴う旅である。
村の駐在に頼むと、荷物を持たせる者を指名してくれる。
柳田はよくその手を使ったが これは高級官僚だからできたことで、普通はそうはいかない。結局はあまり村仕事に重要でない女、子供にこの仕事のお鉢が回る。
柳田は子供が好きだった。女性にも礼儀正しかった。元々民俗学を学ぶ者にとっては子供と女性は大事な存在である。なぜならこの人たちの言葉には嘘がない。村の話を聞くのに、最も信用できる人たちである。
国際連盟委任統治委員会の委員としてジュネーブへ赴任する話であるが、柳田には、実は気の重くなる話であったようだ。理由はいくつもある。喧嘩して役人を辞めたばかりである。また朝日新聞社との約束をまだ果たしていない。それに家族との相談もある。
ヨーロッパという国に対する関心も薄い。日本のように土地ごとに豊かな風習を持つ国と違って、カトリックの支配する機会は単調だ。変化に富んだ日本の郷土研究をするものにとっては、ヨーロッパの生活はまるで真空地帯に生きるに等しい。しかし先輩の新渡戸稲造氏の指名とあれば、これを断るわけにもいかない。
諫早の駅で、無心に遊んでいる子がいて、これが羨ましかったという話と重ねてみれば、ジュネーブに行くことの柳田の気の重さがわかる。
(確かに気は重かったとは思いますが、ここに書いてるように100%嫌だった、とは思えない。柳田はドイツ語やフランス語など語学も習得していたし、ヨーロッパにもかなりの興味はあったと思う。嫌だと言っていたのは、元官僚らしい用心深さもあったと思う)
柳田はかつて笹森儀助の『南島探検』を高く評価しながら、残念ながら笹森は歴史の勉強しなかったとこぼしていた。もし笹森が琉球の歴史をよく知っていたら、あの本はもっと立派な内容になっていたはずだ、そういうことである。