記憶の中のソ連 中央アジアの人々の生きた社会主義時代(第4・5章)

記憶の中のソ連 中央アジアの人々の生きた社会主義時代 裏表紙

第4章 スターリンの死と時代の終わり

証言: ラジオが24時間体制でスターリンの病状を伝えていたのを覚えている。2~3分ごとに「こうなりました」、「ああなりました」とラジオから聞こえてきた。

 

スターリンの死は、まず共産党や政府の権力争いの発端となった。その中でもスターリンに最も近い位置にした部下のベリアと、彼に反対するフルシチョフとその協力者の間で対立が深まった。

スターリンの死後、ベリアの影響力は増すと思われた。それは内務省や秘密警察とのこれまでのネットワークを背景とした、現実味を帯びたものであった。彼も自身の影響力を維持し拡大させようとしていた。

それに対してフルシチョフと他の共産党幹部はベリアの巨大な権力を牽制することを考えていた。その結果、1953年6月ベリアの解任と逮捕・死刑が執行された。それがきっかけとなり、1956年の全ソ連共産党20回大会では、ベリアのこれまでの犯罪行為の公表と、スターリン時代の弾圧に対する批判が行われた。ついに、スターリン時代の秘密主義政治が終わりを告げ、多くの共産党員の命が救われたのである。

 

スターリンの死に対する反応

・ スターリンの死を個人的な悲劇として受け止め、心から嘆き悲しむ人

・ その死により自分たちの生活や将来に不安を覚える人

・ 限られてはいるが、その死を喜んだ人もいた。弾圧や命を狙われる危険性から解放された人たち

特徴的な点としては、これまで見たことがないほど多くの人が涙を流したことが挙げられる。

レーニンが亡くなった際にこうした光景は見られただろうか。

証言: スターリンは、恐ろしいほど厳しいやり方で国を統治してきたが、その厳しさの中に優しさがあるというイメージを人々にすり込むことに成功していた。だからこそ彼が亡くなった時、人々は外に出て大声で泣いたんだ。

 

彼らにとって、スターリンは父親のような存在であり、彼抜きに自分たちの生活を想像することはできなかった。スターリンは最も国民の感情に近い指導者であった。そのイメージが維持できたのは、いつも同じ服装していたことと関係が深く、私欲のない彼の性格の現れであるとみられていたからだ。そのイメージとカリスマ性もあり、彼の存在は多くの人にとって精神的な支えであった。それだけに、彼が亡くなった時、パニックを起こした人は数えきれないと言われている。

 

第5章 停滞の時代か、黄金時代か

ブレジネフとラシードフがソ連及びウズベキスタン共産党の指導者として君臨した時代は、これまでになく長期にわたったため、この時代の評価は人によって大きく異なっている。

 

フルシチョフは農業改革の一環としてトウモロコシの栽培を促進した結果、店からパンが消えたことを思い出す人は多い。フルシチョフのことを「コーン作り」と記憶してる人も少なくない。

フルシチョフに対する人々の評価はあまり高くなく、記憶にも鮮明な形では残っていない。スターリンのようなカリスマ的な存在と比べると、フルシチョフへの尊敬度はかなり低かったようにみえる。

 

ブレジネフは、1906年ウクライナで金属工場の労働者の家庭に生まれた。一家はウクライナに住むロシア人だった。

プレジネフの最も大きな功績は、1956年にカザフ共和国共産党第一書記の時に推進した処女地開拓事業である。

ブレジネフの政治スタイルは、リスクを冒したり何かを決断したりというよりは、安定とバランスを保つことに特化したものであった。それが彼の強みでもあり、弱みでもあった。

また温厚な政治家だった。

私生活では狩猟を好んだ。彼の機嫌をとるために、近くに猪を走らせ、それを撃たせるという演出も行われた。そこではプロのハンターが密かにブレジネフと同時に射撃することによって撃ち損じを隠し、書記長をいつも上機嫌で帰したという。

また勲章やメダルをこよなく愛したことで知られ、彼にはかつて前例がないほどの勲章が授与された。その数は200ともいわれる。

 

ブレジネフは温厚な人柄にもかかわらず、厳しい決断と処置を取らざるを得ない時期もあった。まず、1968年チェコスロバキアで起きた「プラハの春」に対してである。

そしてもう一つは、1979年12月のアフガニスタンへの軍事侵攻であった。

 

ソ連時代のウズベキスタンに暮らした人の中には、ブレジネフ書記長の時代をラシードフ時代と認識している人が少なくない。

 

ソ連時代の指導者の評価で特徴的なのは、権力を握って強い実行力をふるっている間は褒めちぎり、引退すると今度は批判して中傷する傾向があることである。ラシードフもその例外ではなかった。

しかし、独立後のウズベキスタンでラシードフは英雄視され、彼の名誉回復につながった。それには2つの理由がある。1つはカリモフ政権にとって、ウズベキスタン国民を統合し、自己アイデンティティを確立するには人々を動員する国民的英雄が必要だったからである。

また国民にとっても、ラシードフの仕事への姿勢は大変評価が高く、人柄や国民とのコミュニケーション能力を評価する人も非常に多い。

 

綿花事件

モスクワからの要求に応じるために、ラシードフらは綿花の生産量を水増しして報告した事件。

ソ連全土で捜査への支持や横領に対する厳しい 措置を求める声が上がったが、ウズベキスタンの国民は異なった見方をしていた。モスクワの狙いはウズベキスタンの指導部に圧力をかけ、これをつぶすことにあるとみたのである。

彼の謙虚な私生活から判断して、その資金は自分のためではなく、ウズベキスタンのために使ったと信じている。首都であるタシケントのメトロ(地下鉄)や多くの建物は、巨額の資金なしには建設不可能であり、仮にラシードフが不正をしたとしても、それは国民のためであり、タシケント改善、美化するためには仕方がなかったとみる人は多い。

 

ラシードフは評価されてるが、過大評価や先入観が影響してる可能性もある。その理由は、

・ ラシードフ時代と現在のウズベキスタンにおける経済・社会状況を比べる国民の多くは、かつての生活向上を評価し、それに対するラシードフの貢献を課題に評価する傾向にある。

・ラシードフをウズベキスタンの国益のためにソ連中央と戦った英雄とみなす

・ソビエト政権と現政権によるラシードフの過小評価

 

現在、ソ連の1960-80年代の時代を「停滞の時代」と名付ける研究者は多い。しかし、その時代は生活環境の面ではむしろ向上したと受け止められることもある。

人々は、給料が良かったこと、食べ物や洋服が買えたこと。他の共和国に行ってそこで暮らす人々の生活や考え方を学んだことなどを懐かしい経験としてあげている。

 

証言: ブレジネフの死後、頭に痣がある新しいシャーが出てきた。ゴルバチョフという人だった。ゴルバチョフはブレジネフ以上に演説が長くて内容も複雑で、全くと言っていいほど理解できなかった。

 

証言:ブレジネフとラシードフの時代は物が安くて何でも手に入り本当に良かった。しかし、唯一私が不満に思っていたのは、綿花の収穫に若い女性やまだ幼い子供までも動員して、何ヶ月も手伝わせたことだ。

 

多くの専門家は、この時期を評価する際に政治やガバナンスのあり方、政権と一般国民の間の関係、政治体制の本質などを評価の基準にする が、一般国民は生活水準という目線でその時代を評価する。