
柳田国男の宮廷時代
山下紘一郎 著
而立書房 発行
2026年6月10日 第1刷発行
柳田国男の宮内書記官兼任から、貴族院書記官長辞任までの期間を狭義の「宮廷時代」としています。
なお新刊につき、目次中心でメモを書かせていただきます。
序 論 宮廷体験をもつ偉大な知識人
当時、農政(学)に精通した法制局参事官として、中枢官僚の道を歩んでいた柳田は、明治41年(1908)1月から大正3年(1914)4月までのあいだ、宮内書記官を兼任する。宮中で2人の天皇に近侍したときに得た体験は、柳田の人生、思想、学問に深い影を落とさないわけにはいかなかった。
柳田国男最晩年の回想的自伝『故郷七十年』からは、幼少期以来彼の接した鮮やかな印象、驚き、不安、恐怖、好奇心などが時間をかけじっくり発酵するうち、最初は小さく見えた体験がしだいしだいにふくらんできて、やがて彼の知的世界のなかに見事に包摂されていく例をいくつも拾い上げることができる。子供の時からの様々な印象や体験を、柳田は驚異的な記憶力で蓄積・貯蔵し、膨大な記憶の宝庫から資料とテーマを自在に引き出しては、それらを普遍化させる形で、今日私たちが「柳田学」と呼ぶ多彩な学問体系を築きあげたのである。
Ⅰ 宮廷時代
近現代日本の大知識人のなかで、みずから宮廷時代をもつのは柳田国男ただ一人である。
第一章 生産農民への眼差しと勤王心
第一節 飢饉体験から農政学へ
「布川の町に行ってもう一つ驚いたことはどの家もツワイ・キンダー・システム(二児制)で一軒の家には男児と女児、もしくは女児と男子の2人ずつしかいないといふことであった。私が「兄弟8人だ」といふと「どうするつもりだ」と町の人々が目を丸くするほどで、このシステムを採らざるをえなかった事情は子供心ながら私にも理解ができたのである。」
もしも故郷の村里が「二児制」の風習をとっていたならば、8人兄弟の6番目に生まれた自分などは、さしずめ母親から間引かれる運命にあっただろう、という潜在的な恐怖、哀切の感情もまた、記憶の奥底深くとどめられることになった。
第二節 歌の師松浦萩坪
大日本帝国憲法(明治22年)および教育勅語(同23年)が発布され、天皇制国家確立してからの国家社会において、精励刻苦して高位高官に就き、陽のあたる道を歩んだ者は、ほとんど例外なく天皇敬愛者であった。その人物の評価が天皇からの距離で測られた時代である。だが天皇敬愛をいい条、こうした心情の裏面には多くの場合、俗臭芬々たる欲望の付着するのが通例であり、その内容は立身出世であり名誉であった。
日露戦争は日本の辛勝にも終わるが、日露講和条約が調印されて間もない翌38年10月、柳田は長兄鼎、次弟静雄ら7名と千葉県布佐の竹内神社に、「旅順陥落之日建」(旅順陥落は明治38年1月1日)と 刻んだ「戦勝記念碑」を建立、桜木500本を植樹する。柳田自身の強烈なナショナリズムの表現であった。
第二章 宮中および皇室令をめぐる人びとと柳田国男
第一節 相次ぐ皇室令の公布と法制局
第二節 大学の師岡野敬次郎は宮中でも上司であった
第三節 宮内大臣官房調査課長栗原広太
明治天皇の崩御を聞いた山県有朋公は、涙に濡れた顔を上げて、「伊藤(博文、明治42年10月ハルビン駅で暗殺)はいいときに死んだナー」と誰に言うともなく呟いた。
柳田の本官は法制局参事官であった。葬場の儀が行われたのと同じ大正元年(1912)9月13日、恩赦の詔書が出され、同月26日恩赦令・大赦令が公布される。その恩赦(大赦・特赦・減刑・復権)の事務作業に、柳田は忙殺されるようになっていた。
法制局で誰もが一様に嫌う仕事に、特赦に関する事務があった。だが、膨大な関係資料を年中読まねばならない辛気臭いこの仕事を、柳田だけは「面白がって、いつまでもその仕事をやっていてて他人にまはそうとしなかった」(『山の人生』『故郷七十年』)。「偉大なる人間苦の記録」(『 山の人生』)が、彼の心を惹きつけてやまなかったからだ。
第四節 宮内省御用掛多田好問、稿本「登極令義解」をとりまとめる
第五節 宮廷歌人次兄井上通泰の引き立て
第三章 宮廷生活および大嘗祭
第一節 明治・大正両天皇のそば近く仕える
当時宮内官が常備を要する洋服は驚くほど多かった。洋服だけで身代を潰されてしまうので、貧乏な家では、宮内官を養子に迎えることはできない、そういわれるほどだった。
第二節 大正の大嘗祭に奉仕する
大礼使事務官の柳田は大正4年(1915)10月31日、京都行幸供奉を仰せつけられ、生涯で最も緊張する日々が始まった。
大嘗祭は11月14日。
(『山の人生』二 人間必ずしも住家を持たざること の中にこの間の日のエピソードが出てきます。
“しかも世の中とこれだけの妥協すらも敢えてせぬ者が、まだ少しは残っているかと思われた。大正4年の京都の御大典の時は、諸国から出てきた拝観人で、街道も宿屋も一杯になった。11月7日の車駕御到着の日などは、雲もない青空に日がよく照って、御苑も大通りも早天から、人をもって埋めてしまったのに、なお遠くの若王子の山の松林の中腹を望むと、一筋二筋の白い煙が細々と立っていた。ははあサンカが話をしているなと思うようであった。もちろん彼らはわざとそうするのではなかった。”
こんな大切な時にも柳田はサンカのことを思っていたのですね)
柳田国男による大嘗祭に関する建議書は、大任を終え帰京した直後に書かれたと推定される。献策先は元老山形有朋といわれるが、頼みとする官界の先輩上山満之進の説得で思いとどまったといわれる。
第四章 朝日新聞時代および国際連盟委員就任
第一節 「白虹事件」と朝日入社
柳田は入社の条件に、最初の3年は国の内外を自由に旅行させてもらい、それが終わったところで正式の社員として入社したい、という希望を述べたところ、意外にもあっさり村山社長は承諾、大正9年8月から同社の客員になることが決まる。月々の手当300円、旅費は社の規定により別途支給という破格の好待遇であった。村山が、いわば虫のよい条件を呑んでまで柳田に執心したのは、「白虹事件」で一挙に幹部社員を失った社の建て直しをはかるため、優秀な人材を補充しようとする努力であった。
大正8年5月、柳田の「祭礼と世間」が東京朝日新聞に連載されたところ、なかなかの評判をとった。村山はその頃、政府弾劾など硬派の政治論で痛い目に逢った直後だけに、このようなやわらかい文化的なタッチで論説(社説)に新風を吹き込むことを思いつく。
第二節 東宮御進講と貴公子西園寺八郎
第三節 吉野作造舌禍事件で宮内次官関屋貞三郎に働きかける
注目を引くのは、吉野の発言を指して「不用意」と述べているところだ。柳田は言葉の一つひとつを慎重に選びながら講演を続けた。柳田は型破りの官僚ではあっても、教壇から学生相手に、自在に喋ることに慣れた吉野と違い、長い官吏経験、宮廷生活を通して身につけた用心深さがあったのだ。
第四節 昭和の大礼と削られた論説
Ⅱ 常民と天皇制─宮廷時代以降
第五章 稲を植える天皇─生物学研究とその反発のはざまで
第六章 靖国神社と柳田国男─人神信仰およびケガレと「神うつし」
第一節 柳田の靖国神社観
第二節 神道指令下の靖国神社
第三節 小祭・みたま祭の創始
第七章 農地改革の受容と批判─「中堅農民」創出の強調と「垣内」の活用