貴族院書記官長 柳田国男

貴族院書記官長 柳田国男 表紙

 

貴族院書記官長 柳田国男

岡谷公二 著

筑摩書房 発行

1985年7月10日 初版第一刷発行

 

柳田国男が大正三年から貴族院書記官長に就任してから六年間、辞任までの出来事を追った本です。

 

一 就任

 

二 最初の同志たち

柳田にとって、農商務省と法制局の仕事は決してその学問とは無縁ではなかった。

しかし貴族院書記官長の仕事となると、彼の学問とは結びつかない。

この時期の彼の学問のよりどころは『郷土研究』だった。

 

三 「巫女考」と「毛坊主考」

後半生の柳田は、柳田家に養子に入り、官吏というもっとも堅実な職業について、漂泊とは反対の道を選んだ。

比喩的にいえば、柳田家や官吏という職業は、神隠しに合わないための逃げ場所だったのだ。

彼にとって、漂泊は、誘いであると同時に不安や恐怖の対象であった。いや、不安や恐怖であるゆえに誘いであった。p45

 

四 台湾総督府とのかかわり

 

五 御大礼

大正四年、大正天皇即位式大嘗祭、つまり御大礼が行われた。

大正天皇の京都入洛に際し、柳田は大令使事務官の職務に誠心誠意没頭しながらも、『山の人生』の一節に見られるように、サンカの営みを見逃さない彼の姿があった。p68

 

大嘗祭において、柳田が何よりも痛感したのは、「宮中のお祭りは村のお祭りとよく似ている」ということであった。

「豊かなる秋の収穫を終わって後、直に新穀を取って酒を醸し飯を炊き神に感謝の祭りを申す」主旨において、宮中の祭儀と小さな村の氏神の祭りには規模を除いては、何の変りもなかった。p79

 

六 物知り翰長

人間柳田国男を知りたいと思う者にとって、貴族院書記官長の時期ほど関心をそそられる時期はない。

この時期彼は、学問には全く関係のない人々、むしろそうした営みに携わるむきを「学者先生」として軽蔑する人々のなかに立ちまじって身を処さねばならず、彼の人間は試され、容赦のない批判にさらされたので、そこには後年の彼には見られない、さまざまな姿がみられたはずだからである。

 

「一つ目小僧の話」や「隠里の話」「祭礼と世間」を新聞に連載する柳田

眼前の政治とはなんの関係もないような文章を、貴族院書記官長を現職とする人物が、大新聞に長期にわたって連載するとは、前にも後にも、それほど例のあることではあるまい。p86-87

 

大正五年の新聞のゴシップの中で、国男が「エスペラント語の研究に夢中」となっているのは関心を引く。

一般に彼がエスペラント語に熱をあげるのは、大正十年、国際連盟委任統治委員に就任して、ジュネーヴに住んだ時だと言われているからだ。p89

 

柳田は元来、一高、帝大では第二語学としてドイツ語を履修し、フランス語は知らなかった。

明治四十二年、アナトール・フランスの作品を激賞した後、これからそろそろ仏蘭西語でも研究して原文について読みたいと述べている。

それから大正五年までの間に、アナトール・フランス読みたさに、フランス語を独習したらしい。p90

 

国際連盟委任統治委員時代を別にすると、貴族院時代は、柳田国男が最も頻繁に外国人と交際した時期だった。

その中でもっとも深く交わったのは、イギリス人のロバートソン・スコットとロシア人のニコライ・ネフスキーだった。

プロパガンダ戦史』の中で、スコットは「イギリスの宣伝秘密本部から派遣された宣伝工作員だった」と断じている。P95

スコットと柳田は、同じ昭和37年、柳田は88歳、スコットは97歳の長寿を全うして死んだ。

 

ネフスキーはいつも中山太郎折口信夫と一緒に柳田のところにやってきた。

それで播磨風土記輪講などを行った。p98

 

ゴシップの一つで、柳田は眠気を我慢して先輩の碁につきあうことがあった。後年の柳田からはとても考えられない。p100

 

大和の郡山の金魚の佃煮の談話をする柳田。政界の生ぐさい動きに背を向けた、どこか超然とした姿がある。p102

 

柳田の貴族院書記官長としての功績

貴族院速記練習所の創設

貴族院規則の全面的改正

 

柳田の神経衰弱の原因の半分は速記の訂正だった。

当時の速記者は、中学を出ているものは少なく、徒弟制度の私塾で技術だけを叩き込まれただけで、知識は低かった。p104

 

七 台湾・中国旅行

貴族院議長にあまり相談せずに旅行に行ったのも失敗の原因だったが、その時点ですでに親密な接触がなかったのでは?p111

 

国男が島崎藤村と絶交したのは、台湾における山林払い下げ問題がきっかけだった。

自然主義者などと言っておきながら、そんな不正をするのが役人の実際だと思って依頼してきたのが侮辱に感じた。p121

 

広東で蛋民の川舟に乗った。海のジプシーである蛋民の生活に関心を持ち、帰国後家船をはじめとする日本の水上生活者たちの関心へと発展していった。p123

 

八 松岡静雄と日蘭通交調査会

国男の四人の兄弟中、仕事の分野で一番近かったのは次弟松岡静雄だった。

だが分野が近い分、ライヴァル意識があり、批判があり、反発もあった。p131

兄の愛情を求め続ける弟と、その期待を絶えず裏切る兄、という構図が浮かんでくる。p134

その二人が、力を合わせて起こした事業が日蘭通交調査会

この時代に、国男はオランダ語もよく勉強し、辞書や文典の編纂を企てた。p148

 

九 日華クラブ

 

十 確執から辞任へ

世が世なら十六代将軍であり、長年議長の座にあった徳川家達が、書記官長を三太夫か秘書程度に思っていなかったとしてもごく自然である。

しかし人並外れて自尊心が強く、きかぬ気で、どのような人間に対しても直言をはばからない国男に、そういう役割を求めるのはしょせん無理である。p172

図書頭とか帝室博物館長とかいう話もあったが、この二つは森鴎外の兼任するものだった。師にあたる人間の地位を冒すことは、国男にはできなかった。それで役人を辞めた。p180

 

柳田は、書記官長の、慣例の肖像画を、決して描かせなかった。p186

 

徳川家達については何も語っていないが、秋風帖の中の「杉平と松平」大正九年に書かれる。

十六代将軍と言っても、たかが聖坊主の子孫だ、という気持ちか?

 

柳田国男と政治 

柳田の社会観は、彼が最も大きな影響を受けた西欧の文人の一人であるアナトール・フランスのものに近い。

フランスの社会観は徹底してペシミスティックなものだ。

『白き石の上にて』

現代の眼で見たら、ネロやパウロが歴史を動かしたようにみえるが、ネロを稀代の悪王にし、パウロを偉大な福音伝道者にしたのも歴史の流れであり、「社会の大きな変化は気のつかないうちに生まれ、しばらくたってからしか目につかず、その変化に立ち会っている人たちは、それに気づかない。」ことが主題になっている。p202