
ローマ人の心
古代帝国の実像に迫る
南川高志 著
講談社 発行
2026年2月10日 第1刷発行
序章 ローマ人の心を碑銘に読む
墓を建て、銘を刻む文化はローマに始まったわけではなく、古代ギリシャ人が先行する墓碑文化を創造していた。代表的なポリス(都市国家)のアテネでは、前5世紀の後半から前4世紀にかけて墓碑の制作が特に盛んで、芸術性の高い浮彫や情緒的な文書を備えたものも数多く作られた。また、ギリシャではポリスの民会の決議、功績を挙げた人物の顕彰や神々への奉納などを石に刻む文化が高度に発展した。ギリシャの文化が本格的にローマに流入したのは前2世紀のことであるが、ローマで墓碑が盛んに作られるようになったのは、もう少し後のローマ皇帝政治が始まった紀元前1世紀の終わり頃である。
ただ、ローマ人の母語であるラテン語で銘が刻まれた墓が非常に多く作られたのは紀元後3世紀の初め頃までであり、その後は減っていった。つまりローマ帝国では、帝国の最盛期に碑を刻む文化が栄えたということになる。
アメリカの研究者マクマレンの見解で重要なのは、碑銘の増減が政治・経済・人口などからは説明することができず、碑が「見られる」ことへの自覚的な意識、自分がある社会の所属者であることを示そうとする「観客の意識」と呼べるものによってコントロールされていた、との指摘である。
私たちは、夫と妻が互いを大切に思う気持ちや夫婦の仲睦まじい関係を「夫婦愛」という言葉でよく表現しますが、ローマ人はこのような理想的な夫婦像を「愛(アモル)」ではなく「調和(コンコルディア)」という言葉でもっぱら表現していました。それぞれの家の都合を背負った夫と妻にとって大事なことは、達成すべき共通の目的に向けて心(コルディア)を一つにする(コン)ことであって、周りを顧みずに情熱的に愛し合うことではなかったのです。
第Ⅰ章 ローマ人はどんな世界に生きていたのか
第Ⅱ章 帝国エリートたちの生きざま
第Ⅲ章 生と死から見る家族の肖像
ラテン語で家族を意味する最も一般的な言葉は、現代ヨーロッパ言語の「家族」の語源となってる「ファミリアfamilia」である。ただ、ファミリアは現代日本語で「家族」という言葉が意味するものとはかなり異なっている。ローマ社会においては、ファミリアは家長である父親とその権力(家長権)に服する妻や子供、息子が結婚している場合はその妻子、さらに家の奴隷や財産をも含むものであった。
葬儀組合
ローマ社会に多数存在していた「組合」の一種で、死に際して葬儀支援したり主催したりすることを目的として活道した組織である。ただ、古代に「葬儀組合」という呼称はなく、19世紀ドイツの大学者モムゼンがローマの数ある組合のうちにこのようなカテゴリーを作り、以来通用している名称
第Ⅳ章 属州の人々の心
ガリア諸属州の中でも、フランス南部に位置し、いち早く前二世紀に帝国領となった属州ガリア・ナルボネンシスとフランス中部以北にあり、激しい「ガリア戦争」の末に帝国統治下に入った諸地域とは、その歴史的事情や属州内の状況に大きな差があるとされてきた。
そのフランス中部以北の地域を、ローマ人は「ガリア・コマタ」と呼んだ。ガリア・コマタとは「長髪族のガリア」の意味で、ローマ人が自分たちとの差異を表すために、その地に住む人々の外見の特徴をもってエスニシティを捉えた表現と考えられる。
第Ⅴ章 平穏な帝国の暮らし
言語学者の研究成果に拠れば、ガリア語は4世紀までは使用され、話されていた証拠があり(最後の史料は陶器の刻文)、5世紀以降に消滅したとみられる。今日、イオニア式のギリシャ文字とラテン文字で書かれたガリア語が銘文で、合わせて160点ほど残されている。特にフランス南東部のアン県で1897年に発見された青銅板に刻まれた暦「コリニーの暦」は、「ケルト人の暦」としてつとに有名である。ガリア語が書かれ、2世紀のものと思われる。ただ、記されているのはカエサルの『ガリア戦記』でガリア人の暦とされている太陰暦ではなく、太陰太陽暦であり、記述に使われている文字もラテン文字とローマ数字である。ローマ人の暦は刻文をよく知っている者が作成した可能性がある。また発見地の周辺に暮らす人々の生活の拠り所となったものというよりも、聖域に神の像とともに置かれた、儀式のためのものと推定されている。
ガリアの人々が文字使用を受け入れたのは、ローマ人のラテン文字が最初ではない。ギリシャ人の植民都市から発展し、ギリシャ文化豊かなフランス南部のマッシリア(現マルセイユ)を通じてギリシャ文字を手に入れ、それを用いて彼らの言語を表したのである。しかし、ローマの影響力が深まると、彼らの言語を先に見たコリニーの暦のように、ラテン文字で表現するようになり、やがてローマ人の言葉ラテン語ラテン文字で表記するようになったのである。
終章 帝国の危機とローマ人の心
帝国西部でも260年に、ライン川下流域の属州下部ゲルマニアの総督であったポストゥムスが皇帝を名乗り、属州首都のコロニア・アグリッピナ(現ケルン)にいたローマ皇帝ガリエヌスの息子を殺害して帝国から分離し、「ガリア帝国」を建てた。これにイベリア半島やブリテン島のローマ属州も賛同したので、帝国西半を支配する大きな勢力となった。
ローマ軍が敗れた帝国東部でも、その後ササン朝によく対抗した隊商都市パルミュラが大きな勢力を有するに至った。
こうして、ローマ帝国は3分割されてしまったのである。