ロシアのサムライ(第二章を除く)

ロシアのサムライ 表紙

ロシアのサムライ

ヴィターリー・グザーノフ 著

左近毅 訳

元就出版社 発行

2001年4月20日 第1刷発行

 

橘耕斎について更に知りたくて、この本を読みました。

ロシア人からの視点というのも貴重ですが、また新たな面を見ることが出来ました。

 

序文 鈴川正久

この小説の原作者である V・グザーノフ氏は少年水兵に応募、第二次世界大戦に参加し、その後海洋歴史小説家として、主に19世紀における日本とロシアとの交流関係を調査し作品としている特異な作家である。

 

はじめに

第一話 ナヒーモフ提督号の金塊の行方は?

第二話 イルトゥイシ号のポンド金貨をめぐって

島根県江津市には、イルトゥイシ号の遭難と乗組員漂着のオベリスク(記念塔)が建っている。

第三話 姿を消したコルチャークの軍資金

 

第一章 海洋探検家にして外交官、ロシア正教

伊豆半島の戸田には日ソ友好記念館(注 造船郷土資料博物館)がある。入り口の2階に通ずる階段と並んで二本のポールが立ち、ソ連と日本の国旗がはためいている。展示物の筆頭はプチャーチン提督の胸像で、これと並んで、下田 及びヂアナ艦上で提督の交渉相手となった日本側全権たちの肖像がある。

 

第三章 ロシアの仲買い

 

第四章 義勇艦隊の船医

「来る日も来る日も義勇艦隊の汽船を待ちわび、遅くとも10月10日までには来てくれるだろうと望んでいる」

この言葉はチェーホフによって書かれたものであり、サハリン島にあるコルサコフ(注 日本名大泊)哨所を去るにあたり、定期航路の汽船ペテルブルグ号を待つおりの感慨を述べている。

 

シチェルバーク医師

軍医にして船乗り、そして新聞『ノーヴォエ・ヴレーミア』(新時代)を通じ、「…好感の持てる医師チェーホフは、興味深いサハリン旅行を終え、ロシアへ向けこの度外洋へ出た」ことを最初にロシア言論界に報じた評論家でもある。

 

チェーホフがシチェルバークと出会ったコルサコフは、義勇艦隊の定期便船(注 1880年から黒海と極東を結ぶ航路に就航)がみな停泊することになっていた場所である。それは1890年10月13日のことで、汽船ペテルブルグ号がおりしもウラジオストックへ向け出航した日であった。

 

チェーホフはコストロマ号遭難について『サハリン島』の数ページに、目撃者である懲役囚のエゴール・エフレーモフ、そして船医のチェルバーグから引用しつつ記したのであった。

 

第五章 ロシア版真設マダム・バタフライ

長崎の稲佐で、現地の女性との間に子供をもうけたロシア士官。

彼の搭乗した艦船アゾフ号には大津事件時のニコライ皇太子が乗っていた。

女性から士官への手紙のなかだちをしたのは志賀浦太郎。彼ほどロシア人とロシアにこれほど通じている人間は長崎にいなかった。

 

第六章 海軍大尉シュミットの妻

 

第七章 仏寺の捕虜(真説)

セレツキー海軍中佐は646日間日本で、主に松山市の仏寺の捕虜として過ごした。これは日露戦争史の中で最も長い期間であった。

 

第八章 サムライの懺悔 旅順でのできごと

日露戦争時、旅順でロシア兵を一対一の戦いで刺殺した日本兵

その行為を悔やみ、そのロシア兵の子孫を探し、その過失の罪を許してくれるように頼め、という遺言を残す。

そのロシア兵はアファナーシエフ中尉であることが判明した。

 

第九章 海の男の名刺

松山市のロシア軍捕虜収容施設で過ごしたクプチンスキーという新聞記者。

帰国後、『日本の捕虜生活』と題した本を1906年サンクトペテルブルグで出版した。

筆者が見る限り著者は観察力に富んだ人物で、物事を客観的に記述し、勝利国を殊更に美化したり、ことさらに貶める書き方をしていない。日本国民については進取の気質に富み、リベラルな気風とし、わけても日本の医師と看護婦についてはその倦むことなき献身を称賛してやまない。

 

第十章 対馬の海で

ナヒーモフ提督号の金塊の話

 

第十一章 消えさった金塊

コルチャークの金塊

 

訳者あとがき

ロシア科学アカデミーから金賞を受賞した畏友中村喜和氏が 『橘耕斎伝』を書いた。

 

我々日本人にも外国人の目から見たら奇妙な認識と思うケースは多いはずだ。ひょっとして、井上靖にしろ大仏次郎にしろ、辻邦生にしろ、あるいは塩野七生にしても、同じ過ちを犯してるかもしれない。

 

この本は純粋な意味での、歴史研究に属するものではない。原著者は、訳者への自己紹介で、「ドキュメント作家、歴史小説家」と自らを規定している。言い換えれば、大筋では史実を踏まえディテールでは潤色をほどこす手法である。

 

ヒストリーとは、平家物語を例に挙げるまでもなく「語り物」であり、ヘロドトスにしても司馬遷にしてもそうではなかったろうか。