
第二章 ロシアのサムライ
ヂアナ号下士官コルニーロフの日記
「3月3日
今夕、ゴシケーヴィチのもとへ僧侶来訪。何でもその話では、25年以前に江戸方面で逮捕された、8名のキリシタンが拷問を受けるところに居合わせたという。…
この僧侶は毎晩のようにゴシケーヴィチのところにやってきては、日本語を教えていた。と同時に、自分の方もロシア語を学ぶわけだ」
ヂアナ号の海軍中尉であったシリングの回想記より
「ある時夜遅く僧侶はまたゴシケーヴィチのもとへ現れ、一刻も猶予ならず匿ってくれと頼み込んだ。外国人と往来したため捕まったのを脱獄して逃げてきたというのだ。早速その僧侶に水平服を着せて、わらくずでカツラをこしらえてやり、同国人の目からしっかりと匿ってやった…」
1855年7月2日
6名の水平が長持を担いで運び出そうとしたが、見張りの役人たちはこれを格別意を止めなかった。
(この長持ちの中に僧侶、増田久米左衛門(橘耕斎)がいた)
増田久米左衛門は、1820年に遠江国掛川藩に属する下級武士の家庭に生まれた。幼少の頃より武術に励んだ。曾祖父や祖父の代には農業を営んでいたが、彼にとって農業は不向きであった。早い時期より家を離れて放浪し、長じて各種砲術をマスター、正式の武門に入るまで戻ることはなかった。だが飽くなき探究心、知識欲が嵩じて、ついに武門を捨て仏門に投じた。仏につかえる道が始まったのである。初期の日本の哲理に関する古文権を渉猟して多く読み漁り、仏教伝播の歴史にひかれ、日本の封建制度に及ぼした中国法体系にも興味を抱いた。これにはいささかの疑念の余地もない。増田久米左衛門が幹事を務めた池上本門寺の寺僧たちは、彼を義賢、つまり賢者と陰ながらに呼んでいた。
外務省庁内だけで使用されている、いわゆる内部資料によると
増田久米左衛門のサンクトペテルブルク到着は1856年4月22日となっている。
増田は見習い水兵たちに日本語を教えた。
ゴシケーヴィチは白ロシア人、増田は日本人、見習い水兵のマレンドゥラ(マレンダ)はポーランド人、カルリオーニ(カルリオーニン)はギリシャ人で、ユガノフはロシアに帰化したドイツ系である。
彼らは皆同じ家に住んでいた。
ゴシケーヴィチと増田が作る辞書の印刷が出来るのは、なんとバリシャーヤ・サドーヴァヤ通りのイリン館にあるヨンセン印刷所ただ一ヶ所ということだった。
印刷所の責任者に対するゴシケーヴィチの提案
印刷所でロシア語テキストを組み、転写用紙にそれを印刷してからその残った字・行間に日本語・中国語の単語を挿入し、それを今度は石板に移して最終的にリトグラフで印刷する。こうして印刷とリトグラフの働きを一つに結びつける。
この日本人には一体いくつの氏名があるのか
ヴラヂーミル・プリブィロフ
増田久米左衛門
橘耕斎
立花久米蔵(農商務省の官吏で、日本における耕斎晩年の知己であった長瀬義幹による)
耕斎は祖国を捨てるまで、橘および増田の二姓を、耕斎および久米蔵の二つの名前を持っていた(森有礼による)そこで増田耕斎といった組み合わせも出てくる。
ロシア帝立科学アカデミーの書評より
「ヨーロッパの学界広しといえどゴシケーヴィチ氏の編纂せるが如き日本語辞典はあったためしがない」
増田久米左衛門と同時代の日本人たちは、この元サムライにして僧侶が、場所、時間、相手に応じて、自分に関する情報の内容をしばしば変えているという。
1858年1月25日
教母をミャートゥレフ夫人(未亡人)として洗礼を行う。
名前をヴラヂーミル・ヨシフォヴィチ・ヤマトフとする
ゴシケーヴィチとその家族は日本へ行き、ヤマトフはその屋敷に独りで暮らす。
通いの小間使いには、 5ルーブルを出していた。
1860年の春、ヤマトフは病気になるが、7月の半ばに復職した。
1862年に公認の政府系新聞『セーヴェルナヤ・ポチタ』(注 発行は内務省)に日本人の記事が出た。
論説の最後は『日本は典型的な政治の修道院である』という言葉で結ばれた。
1862年5月23日、アレクサンドル2世からの通告により、ヤマトフは聖スタニスラフ3等勲章を授与した。
1865年 夏、ゴシケーヴィチがペテルブルグに戻って来た。
ゴシケーヴィチとヤマトフは、日本人留学生たちの最初の教師にして相談相手となった、
外交官にして中国語研究家のゴシケーヴィチの晩年を明らかにする、何らかの文書や手紙が見つかったとしても、極端に少なく、ましてペテルブルグや函館に結びつくものはなかろう。
ゴシケーヴィチは再婚して、オストゥロヴェツ(原注 多年オストゥロヴェツはヴィルノ県に所属してきたが、 現在ではベラルーシのグロズノ州に属する)の田舎町に購入したマーリの領地に引っ込んだことまでは知られている。同地にてゴシケーヴィチが『日本語の語根』を執筆したこともわかっている。
ヤマトフのペテルブルグ生活については、庇護者をヴィルノ(ヴィルニス)見送ってからのち、ばったりと情報が減る。
1868年2月、ヤマトフはカロームナに転居した。
ヤマトフの授業は、1870年10月に開始となった。
サンクトペテルブルク大学の東洋語学部がヤマトフに指定した授業は中国・満州・モンゴル語の3、4年生クラスで、週2回の購読であった。
後に彼はサンクトペテルブルグ大学最初の日本語講師となった。
1874年5月29日付の外務省令
依願退職。アジア局八級通訳官にして七等文官ヤマトフこと。アジア局員外局員。
サンクトペテルブルクの内務省所属警察本部に照会があり、同所からアジア局へ回答書が発送された。
「…ロシア国籍を抹消されたヴラヂーミル・ヤマトフは…警察の報告に日本へ 国外退去と記載」
1874年秋に帰国
日本側歴史研究者たちの説によれば、芝増上寺で仏門のうちにて独り隠棲して過ごしたという。以前の信仰に戻り、氏名も増田甲斎とした。隠者として仏陀に帰依すること10年、自らを、友を、ペテルブルグを、ロシアを語ることなく終わった。
増田甲斎は、1885年5月30日に他界した。
日本の歴史研究者たちによれば、その墓碑には銘があり、長崎出身の長瀬義幹なる人物が記している。墓石上部には家紋がうたれ、墓誌に曰く、ヴラジーミル・プリブィロフこと、橘耕斎こと、ヴラジーミル・ヨシフォヴィチ・ヤマトフこと、増田甲斎こと僧増田久米左衛門、士族にしてロシアで言う特権身分の出自とある由。