日露外交の先駆者 増田甲斎

日露外交の先駆者 増田甲斎 表紙

日露外交の先駆者 増田甲斎

木村勝美 著

潮出版社 発行

1993年7月25日 発行

 

先日読んだ『幕末おろしや留学生』の中に出てきた橘耕斎について興味を持ったので、図書館の検索で氏の本を探したところ、この本が見つかりました。

増田甲斎というのは橘耕斎の別名です。

同じ人でもこの本での見方や印象は『幕末おろしや留学生』とはかなり違います。

著者はノンフィクション作家とのことですが、この本は小説の形式で書かれており、想像力も働かせたものだと思われます。

 

序章 友情

ベラルーシミンスク市郊外に、ゴシケビチ記念資料館はある。

展示品の中に明らかに日本で作られたとみられる煙草入れがあった。

「この煙草入れは、ヤマトフ(増田甲斎のロシア名)が帰国の際、ゴシケビチに送ったものです」

と、同館の係員が説明する。

 

第一章 脱国

下田郊外を散歩していたゴシケビチ達が突然、身なりの貧しい中年の男に会った。その男は懐中から十字架を取り出した。そして「私は、隠れキリスタンの子孫で、ゼズス、マリアを生命より大切にしている」と訴えた。 これがゴシケビチと順知の出会いだった。

順知の本名は、掛川藩士増田粂左衛門(後年、甲斎と改める)で、前藩主太田資始のお部屋番である。

太田は甲斎に密命を与えた。おろしや国の探索である。

順知は連夜、ロシア人上官の宿舎宝泉寺へ通った。

 

この僧侶に水兵服が着せられ、カツラがつけられ 彼の同国人の視線から、この僧侶を巧みに隠した。

そしてプチャーチンの使用していた居室にかくまった。

 

司祭が例祭に使う儀式用具の収納箱に甲斎を入れて、グレタ号へ運び込んだ。

 

グレタ号の乗組員は様々な人種で構成されていた。スペイン人、スウェーデン人、オランダ人、黒人、支那人などで、船長と水夫長はドイツ人だった。

 

香港に到着した時、膨大な量になった日露辞典の下書き資料を見て、予定の1/3は終了したとゴシケビチは言った。

 

甲斎はサンクト・ペテルブルグのネフスキー大通りと、サドーヴァヤヤ通りが交差する辺りで、支那人の経営する商店を見つけた。緑茶や醤油、刻みタバコ、蜂蜜などを売っていた。

 

第二章 帰化

日露辞典の編纂において、最も重視した資料はメドハースト語彙集と早引節用集だった。

早引節用集は、1854年に瓜生政和によって作られた簡易辞典である。

日露辞典は日本文字もあるため、活版印刷だけでは無理だった。よって活版印刷と石版印刷とを併用した。

常用漢字表は、毛筆による墨書である。

洋紙が厚手で粗悪だったため、筆の消耗が驚くほどと激しかったので、なじみの支那人商店主が連日のように筆と墨とを運んできた。

そして『和魯通言比考』が完成した。

 

入露してから1年半辞典作りだけに取り込んできた。露都探索は手つかずのままだった。

 

安政3年頃、日本に駐在する各国外交官の間で甲斎の脱国が話題になっていたそうだ。

 

帰化するためにはロシア正教の洗礼を受ければいい。

 

増田家の口伝によれば 、葛城王が始祖と言われている。葛城王は後の橘諸兄である。筆名を橘耕斎にしたのは、この言われに基づいた。

 

3度目の春、甲斎は職員寮を引き払い、アパートに住む。『全ペテルベルグ住所録』にヤマトフの名前があり。

 

甲斎は露都探索の第一目標としてクロンシュタット軍港を選んだ。

軍事関連施設をしばしば訪れる甲斎の行動を、ゴシケビチがいさめた。

 

第三章 大義

1860年3月、甲斎は自室で倒れた。

 

甲斎は、竹内施設団を和風の環境で過ごさせるために、小物の購入に走った。あては支那人の店である。

甲斎は使節団に自分の姿を見られたくなかった。自分に大義があるとはいえ国禁を破った罪は免れない。累が太田資始に及ぶことを彼は極端に恐れていた。

 

竹内使節団には外交交渉以外に、隠された目的があった。夷情探索である。

 

甲斎は情報資料を、コルニエブスキーに託して松木弘安福沢諭吉に渡した。

 

第四章 望郷

みなりの貧しい、東洋的な面立ちの人が目立った。彼らはタタール人とコリヤーク人労働者。ペテルブルグにはたくさん住んでいる。

 

甲斎は山内佐左衛門に、自分が博徒の群れに身を投じていたこと、悪事を重ねてきたことを語った。

 

留学生の間に異変の生じているのを気づいた。 山内と市川文吉の間に対立が起こってるのを知った。それは2人の家格から生じていた。

6人の同居生活から独立したいと市川が訴えた。

 

森有礼が甲斎に会った時、藩を去った理由として、有能な人物を罪人にしてしまったことをあげた。

藩を去った後は、僧侶 、占い師、博徒となって諸国を流れ歩き、10年ほど前に出会ったロシア軍艦の乗組員に誘われるままロシアに渡った、と説明した。

 

イギリス人がアイヌの墓を盗掘する事件が起こった時、小出大和守はイギリス領事に激しく抗議した。

 

帰国する山内とともに小出使節団が列車でペテルブルグを離れる時、汽笛がなって汽車が動き出すと、甲斎はワッと声を放って泣き出し、プラットホームに泣き倒れた。

 

第五章 帰心

ペテルブルグ大学日本語学科の教壇に甲斎が立つのは、週に3度である。午前と午後に 1講座ずつ担当した。学生数は午前の部が 11名、午後の部が6名だった。

 

当時の露都には、市川文吉、小野寺魯一、西徳次郎、嵯峨寿安、二木彦七らの日本人がいた。

嵯峨は金沢藩が貿易路開拓目的で送り込んだ密使と噂されていた。

嵯峨にはアジア局にある漢書類の翻訳の下仕事をやらさせてみようと考えた。

 

甲斎は岩倉使節団とは会っている。

 

甲斎は日本に帰る途中ビリノス郊外のマリのゴシケビチの家に立ち寄った。

 

第六章 復権

必ず数名の学生たちが甲斎の周りにいた。彼らにとって甲斎ほど格好の教師はいなかった。ロシアについての質問に丁寧に答えた。

また自由民権運動の運動家も、甲斎の家に出入りするようになった。

 

交詢社の発会式において、福沢諭吉の訪露体験談の後を受ける形で、甲斎は17年間に及ぶロシアでの生活を淡々と語った

 

終章 臨終