ロシアの空の下(三~五)

榎本武揚

万里小路正秀 思春期を露都で過ごした公卿留学生

明治期になってからの最初のロシア留学生の一人が万里小路秀麿(のちの正秀)である。

彼の名前は明治4年岩倉使節団に随伴した50人余りの留学生リストの中に含まれている。

横浜を出港した時、彼の年齢は13歳と二ヶ月あまりだった。

 

榎本武揚のペテルブルグ通信

榎本武揚 はロシア公使として4年あまり首都のサンクト・ペテルブルグに駐在したのち、帰国にあたってはシベリア経由の道を選んだ。旅の時期は明治11年(1878年)の7月26日から9月30日にかけてである。

ペテルブルグからモスクワまでと、モスクワからニージニイ・ノヴゴロドまでは鉄道が動いていた。榎本と3人の随行者たちはニージニイ・ノヴゴロドからは汽船を利用した。

 

シベリア横断のための馬車は四輪で1台に2人乗り、頭上に蛇腹付きの幌がかぶせられるもので、タランタスと呼ばれる長旅向きのタイプだった。

 

シベリア各地での金の採取や、農業や牧畜をはじめとする各種の地場産業、それに キャフタにおけるロシア=清国間の交易の事情などに深い関心を示しているところに、榎本日記の特徴がある。

シベリアを西から東に向かう街道で最も頻繁に出会ったのは、中国から茶を運ぶ馬車の長い行列だった。車列はしばしば四、五十からなっていた。このことから日本からも茶やその他の産物をロシアへ輸出できるのではないか、というアイデアが彼の脳裏に浮かんだ。

 

ペテルブルクからウラジヴォストークまで 66日を要したが、65夜をどこで過ごしたか

鉄道車輌 2

ホテル、駅亭、個人の邸宅 19

汽船   20

馬車   24

 

面白いのは、榎本はウラルを越える際、一度も山嶺を目撃しなかったことである。

ロシアには山が無いのである。

 

四 日露文化交流の諸相

秋田県の「ウラー」 日露のいろいろなつながり

秋田県のある農村でお祭りの時に「ウラー」という歓声を上げるという。

秋田人は特に 北洋漁業に深く関与していた。カムチャツカ行きなど、ソビエト国営企業が雇っていた日本人の4割以上が秋田県人だった。その時にウラーを耳にしたのでは?

 

エトロフ島合戦余話 陽助の白旗

文化4年、つまり1807年の4月29日にクリル諸島の中の択捉島の首邑シャナにロシア軍が襲来し、島の守備隊との間で戦闘が行われた。それは全く小規模のもので、ごく短時間に決着がついたが、2つの国の正規軍が干戈を交えたという点では、史上まれに見る大事件であった。その後、両国間の対立関係を外交的に収拾するのも容易なことではなかった。

 

ゴロヴニンのもたらした仏露辞典

多分、日本に持ち込まれたヨーロッパ二言語辞書の中で最も古いものの一つが、イワン・タチーシチェフのフランス語=ロシア語辞書であろう。1798年ロシア帝国の首都サンクト・ペテルブルグで刊行されたものである。

 

ゴロヴニンらが国後島で捕虜になったのは、ロシアの暦で1811年7月11日だった。

ディアナ号に残されたリコルドは不幸な同僚たちのために、彼らの日用品を国後島の岸辺に届けた。

その中にタチーシチェフの仏露辞書が含まれていた。

 

はじめゴロヴニンから事情聴取するために選ばれた通訳は、上原熊次郎だった。熊次郎はアイヌ語ができたので、捕虜の中のアイヌ人アレクセイを介して幕府の役人とロシア人捕虜の問答が行われた。

 

五 研究ノートから

淡路島に花開く日露交流

淡路島の五色町は『菜の花の沖』の主人公である高田屋嘉兵衛の生まれ故郷である。

 

ニコライ大主教の手紙

日本のハリストス正教会創始者聖ニコライが、1909年(明治42年)名古屋の正教会に勤務する伝教者者の一人薄井ピーメンに宛てた手紙に接する機会があった。

 

異国に漂う祖国のにおい  草の根から芽ぶいた日露交流

東京はモスクワ、大阪はサンクト・ペテルブルグ、京都はキエフ(キーウ)と縁組をしている。キエフは今やウクライナの首都であるが、ロシアという国の発祥の地、ロシア人の魂の古都として京都に釣り合っている。

 

浦潮空港の一夜

元々浦潮は風の強さで知られているのだ。