
ロシア漂流民・ソウザとゴンザの謎
サンクトペテルブルグの幻影
瀬藤祝 著
新読者社 発行
2004年4月3日 初版1刷
物語を脚本の様式で書いています。
その合間に、史実も載せているので、実情の理解に役立ちます。
1章 吹雪の中で蝉が鳴く 1739年 冬
2章 薩摩の国 1728年(享保13年)夏〜冬
3章 運命のいたずら 1728年〜1729年 6月
1729年(享保14年)6月7日、若潮丸は約半年の漂流からロシア領カムチャッカ南端に漂着した。
若潮丸乗組員17名のうち、15名がシュテインニコフ率いる50人隊コサック兵に惨殺される。商人ソウザ・少年ゴンザのみ生き残る。ロシアに残る記録…
1729年秋、ソウザたちはロバトカ岬を後にした。
4章 異国の空 1730年 冬〜1733年 夏
1730年、シベリア・ヤクーツクに到着。5週間滞在
ロシアには「急がば笑え」ということわざがある。急ぐと損をする。そんなことから慌て者のことを「急がば笑え」と言ったりする。
チェーホフがこんなことを書いている。もちろん時代はずっとずっと後のことだが、チェーホフがシベリアを旅し日本の娼婦と床を同じくした。チェーホフはその折の日本の女に感動している。その受け身なしとやかさに。
1733年3月24日、こうして2人はイルクーツク経由で、シベリア第一の都市トボリスクへ向かう。ボリシェレーツク滞在は実に2年余に及んだ。
1733年4月5日、イルクーツク
ソウザは商人だが 、江戸期の商人は義太夫から色々のことを学んだ。文字に始まり、主従の関係、社会の世相、 人間関係のありよう等々。
5章 ロマノフ王朝 1733年 夏〜秋
ボグダーノフは1692年、モスクワの火薬職人の息子として生まれた。30歳半ばにして学問に志し、サンクトペテルブルグにあるロシア科学アカデミー ・ギムナジウムでロシア語文法、ラテン語を学んでいる。
ロシアに残された文献によると、ボグダーノフは初めてロシアに漂着した日本人伝兵衛の子ではないかとの説がある。しかしそれは定かではない。
6章 予備教育 1734年 初冬〜秋
1734年1月17日、ロシア科学アカデミー、ソウザ、ゴンザの肖像画を描く。
2002年に発見されたバイエルによる、「2人の日本人との対話」
「1734年2月1日、二人の日本人が私の家に来た。⋯」
バイエルはヨーロッパの学界ですでに知られているケンベルの日本誌にも詳しく、日本の歴代の天皇のこと等についても尋ねている。
1725年ピョートル大帝は探検家ベーリングに命じてアジアとアメリカは地続きかどうかを調べさせた。1730年、ベーリング帰還。海峡が存在することを報告。大帝の死後探検はしばらく頓挫するが、1733年ベーリングによる第二次探検隊が学者を引き連れで再出発した。ロシアの東方政策の意気込みが感じられる。
ロシアに残る記述。1734年、ソウザ、ゴンザ勅命により陸軍幼年学校附属修道院に引き渡され神学キリスト教を学ぶ。
7章 洗礼 1734年 冬
1734年10月20日、日曜日。ソーザ、ゴンザ勅命によりロシア正教の洗礼を受ける。
8章 水を得た魚 1735年 春〜秋
1735年、ゴンザ、アレクサンドル・ネフスキー修道院神学校でロシア語文法を学ぶ。ソウザは元老院預かりのまま…
1735年、ソウザは製本を学び、ゴンザは絵画を学んだ。
大阪出身の伝兵衛とは、1695年(元禄8年)ロシア・カムチャッカ南部に漂着した初めての日本人漂流者である。1705年、日本語教室の教師となり日本へ帰ることはなかった。
次にサニマこと三右衛門、紀州出身、1710年カムチャッカ東海岸カリギル湾に漂着。その後伝兵衛の日本語教室で教師助手となる。
1734年に新しい日本語教師たち、ソウザ、ゴンザに交代させられた。
ロシア東洋学・歴史報告書より…
ボグダーノフがサニマのいた日本語教室とどのように関わっていたかは記録にない。だが、アカデミー総裁・コルク命により、日本語学校設立に関与したことは間違いない。日本語が話せたという記録もないが、日本人との関わりは深かったように思える。
デスマスクは死後に作られるが、ライフマスクは生前に作られる。雪花石膏(アラバスター)と蝋とを混ぜ合わせ、生暖かい状態にして顔面に塗り、後で型取りされ実物大の像が作成される。従って出来上がったものは本物のように生き生きして見えた。
1735年11月4日、ソウザ、ゴンザの両名を科学アカデミーに配属
9章 言葉の諍い 1736年 初冬
10章 令嬢ゴンチャローワとパウルツキー少佐 1736年 春
1736年4月13日。ゴロフキン、元老院内閣府へ「カムチャッカに漂着した日本船について」「日本語学校の開設とその存在の初期に関わる記録」を提出する。
11章 日本語学校 1737年 春〜秋
1736年6月、元老院訓令により科学アカデミー内に日本語学校が設立される。ソウザ・ゴンザ教師となる。
1736年9月18日。ソウザ死去。43歳。死後、遺影とライフマスクが作られた。絵は行方不明。
12章 コトバはイノチ 1736年 秋〜冬
9月29日、露和辞典の仕事を開始。ソウザの死後11日目
この年、ボグダーノフとゴンザ、項目別露和辞典と日本語会話入門を著作する。
13章 ナターシャ 1737年〜1738年
1737年、ボグダーノフは内閣府の命により、「日本人たちがどんな方法でロシア帝国にたどり着いたかに関する簡単な報告」という文書をあげている。
1738年10月27日、『新スラブ・日本語辞典』完成、ゴンザ20歳
14章 氷の宮殿 1738年 冬〜夏
15章 新スラブ・日本語辞典 1739年 夏〜冬
帝政時代の官等表を見てみるとゴンザの官位は下から五か六のところにある。つまり十等官どまりである。八等官と九等官の差は非常に大きく、十等官は社会的にもその地位は決して高いものではない。
16章 吹雪の中で蝉が鳴く 1739年 冬
1739年(元文4年)12月15日、ゴンザ没、21歳
1739年 ロシア船初めて日本に来船
ボグダーノフ・ゴンザによる露和辞典は、ついに著書としてロシアで出版されることはなかった。
おわりに
ソウザ・ゴンザの露和辞典を発見し、初めて日本に紹介したのは、語学学者村山七郎氏である(1965年)
そして1985年、それはナウカ社より新スラブ日本語辞典として出版された。