柳田國男全集 8

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柳田國男全集 8
1990年1月30日 第1刷発行
ちくま文庫

この巻では「口承文芸史考」「昔話と文学」「昔話覚書」を収録しています。
いずれも昔話や伝説をもとに、口承文芸を研究しています。

口承文芸とは何か
はじめて口承文芸(la litérature orale)という名を用いた人は、フランスのポォル・セビオという民俗誌家であった。
いったい仏人は我々が蕗の薹(ふきのとう)の苦みを嗜むように、いつもわずかばかり矛盾のあるような新語をこしらえて、感覚の刺激を楽しむ風があるが、この「口承文芸」なども生真面目な人の耳には、何か落ち着きの悪い自家撞着を、含んでいるように響くことであろう。 p14
(柳田さんのこの独特な比喩とフランス人論が興味深いですね)

日本語における「昔話」
ドイツ語のメェルヘンというものには、文芸の士が紙と筆をもって、新たに書き下ろした作品も混じっている。それと区別するには特に民衆のメェルヘン(フォルクスメェルヘン)という必要があった。
フランス語のコントもこれと同様で、やはり新作のコントでないことを示すために、こちらを妖精のコントだの、ガチョウの母のコントだのと総称しななければならなかった。
イギリスでもつい近い頃まで、フェアリテイルズというのが、必ずしも妖精の話だけに限らない、我々のいう昔話の総名であった。
それでは誤解が生じやすいので、新たにフォクテェルズという語を用い始めた。
フランス語も今はコントポピュレエルが普通の名になっていて、この二つはともに民間説話と訳せられている。p83-84
(昔話の伝説と神話 より)

p217 竹取翁 より
富士登山史の中で、「本朝文粋」巻12の「富士山記」の中に富士山頂上に竹が生えていたとの記事
作者の都良香は天慶3年に46歳で没している。その頃は富士山の噴火の激烈な時期だった。
単なる虚構ではなく、幻覚を語られ信じられたという信仰の支持があったからではないか。
更に貞観6年の大噴火があった次の年の12月、甲斐の国司は富士山の頂上に目もあやかなる石の神殿が建ったという報告をしている。

鳥言葉という昔話
ドイツのテオドル・ベンファイにより、今から(昭和12年ごろ)70年も前に「動物言葉の昔話」を書く。
それから25年ほど後に英国の学者サー・ジェムス・フレエザアが動物の言葉という題で一文を公にする。
第三にフィンランドのアンティ・ファルネが1914年に「動物の言葉の解る男と聴きたがる女房」という題で、やはり同じ説話の蒐集比較をした。
だいたい3人とも、インドに生まれて西の方に流布したということで一致し、東の方については触れられていない。p431-432

セリグマンという英国の有名な学者がやってきたとき、日本人の夢に関する参考書を求められる。
しかし当時は、支那の夢占いの翻訳しかなかった。p443

味噌買橋 p625
飛騨の高山の味噌買橋の話
G.L.Gommeの著、Folklore as Historical Scienceの巻頭に掲げられた一話は、正直な炭焼を行商人に、豆腐屋をただの一市民に、味噌買橋をLondon Bridgeに取り換えれば、9分5厘まで同じものである。
またほぼ同じ口碑が、西部ドイツには4つかたまってある。
ヨーロッパでは話が皆橋になっているのか?
この話の運搬が、少なくとも欧州においては架橋土木の発達期に遭遇し、都会はもとより田舎の人々も、新たに架かった橋を評判にしていた際だったので、話者がその中心をここに置いたのが、偶然にも大いに当たったのではないかということである。
更に一歩進めての想像は、橋が新しい文化の表現であったゆえに、これを占いや呪いの場所に使われ、最も神秘を説くのにふさわしかったので、話者もこれを選び聴く者にも印象が特に強かったのではないか。
あと香川県西部にも味噌買橋のような話があった。