柳田国男と事件の記録
柳田国男と事件の記録
内田隆三 著
講談社選書メチエ40
1995年2月10日第一刷発行
柳田国男による『山の人生』
その冒頭をさりげなく飾る、哀しくて悲惨だが、冷徹に美しくさえ述べられている、ある事件。
その謎に迫っています。
『山の人生』を見ればわかるように
柳田の仕事の大半は、習俗の時間の上に流れる歴史を構想すること、だが他方で
その歴史の底面には何か物深い事件が隠れている。
習俗への配慮と平行しながら、彼の文学的な直感はこの種の事件に憑かれてやまなかった。
そしてそれが『山の人生』冒頭の一節になって現れた。p12
第一章 抽象する視線
柳田が描こうとした「歴史」の弁証法について
第二章 可視性の場
伝説と昔話の差異
・伝説は是を信ずる者があり、昔話には一人も無いこと
・伝説は必ず一つの村里に定着して居るに対して、昔話は如何なる場合にも「昔々或處に」であること
・昔話には型があり文句があって、それを変えると間違いであるに反して、伝説にはきまった様式がなく、告げたい人の都合で長くも短くもなし得るということ
柳田は『遠野物語』において
・まず伝説の場を文字言語の空間に転換し、
・次に中性的な標準語の文語体で、一種の翻訳文のように、生々しい「地方性」を脱色し、
・しかも同時にその厳しいほどに簡潔な文語体によって、味付けや文飾の多くなる「説話体」から抜け出している。p79-80
柳田の考える「自然主義」が対象を取り扱うときの態度や視点
・内面や心理の位相を離れ、遠くから鳥瞰するように見ること
・ある抽象的な高い視点から異なる次元、異なる時空を、同じテーブルの上に見ること
・文章の技術にとらわれず、何であれ、いわば写真のように、ありのままを飾らず書くことp84
第三章 描かれた構図
『山の人生』は、山人への畏怖や禁忌といった共同幻覚(を語る言説の編成)を通じて、常民の歴史の同一性を構想する試みとなっている。
それは、フロイトやレヴィ=ストロースが近親相姦の禁忌を通じて、人間の文化の普遍的な同一性を構想した試みと平行しているといえよう。p117-118
「一家心中」といえば、日本に固有の伝統のように思われるかもしれないが、実はそうでもない。
親子心中一般は古くからあったが、それが飛躍的に増大するのは大正末期末頃からだという。
一家心中の流行はむしろ日本の近代が生み出した「新しい伝統」の一つというわけだ。p125
柳田の志向にかなう事件の特徴
・事件の経過において登場する人物の情念や恣意による選択の余地はほとんどなく、ある必然の様相を帯びて事件は悲劇や惨劇にいたる。
・悲劇や惨劇にいたる異様な事件が、美しく、さりげない、自然の風光のなかで起こっている。p149
第四章 事件の現場
『奥美濃よもやま話』の「新四郎さ」という話
『山の人生』の話に酷似
事件(明治37年)
↓
新四郞(事件の当事者の通称)から金子信一へ口承(昭和9年前後)
↓
金子貞二へ口承(信一がこの話を聞いてから「四十年」を経て話す)
↓
金子貞二が記録(昭和49年、本の中に著す)
事件の動機は『山の人生』に書かれている「飢え」ではなく、娘の奉公先での嫌疑によるもの
A 『山の人生』に書かれた、炭焼き男の事件
B 故郷七十年に書かれた事件
D 『奥美濃よもやま話 三』における「新四郞さ」
D1 前段 娘が奉公先で盗みの嫌疑をかけられる事件
D2 後段 一家の心中事件
岐阜地方裁判所にも、岐阜の検察庁にも、東京の内閣法制局にも、法務省保護局恩赦課にも、その当時の記録は残っていない。
Z 通称「新四郞」の戸籍謄本
長男と養女(実際は長女と考えられる)は二人とも明治37年4月6日午前5時死亡と書かれている。
Y 岐阜日日新聞 明治37年4月9日号 6日実子二人を惨殺す
動機は貧苦による飢餓
娘の奉公先については全く浮かび上がっていない。
柳田も新聞報道も、警察の調べや、予審調書、判決のディスクールを共有しているからであろう。
柳田の秋と春の違い
当時のこの地域は米は貴重品だった。
柳田がある差異において書いていること、つまりある種の構造的な曲率をもった表現の空間によって表出している。
岐阜日日新聞 明治39年3月24日号 特赦を受ける「茲に罪跡消滅したり」
柳田と彼を結んだわずかな糸はゆるみ、歴史というよりも時間の流れがその細い一筋の証拠をどこかへ向かってか幾重にも隔てていく。