テクストとしての柳田国男

テクストのしての柳田国男 表紙

テクストのとしての柳田国男

知の巨人の誕生

石井正己 著

三弥井書店 発行

平成27年1月9日 初版発行

 

多くの著作だけでなく、編集にも関わってきた著者による、テクストからみた柳田国男論です。

それにしても、いろいろな柳田論には、いろいろな角度から述べられているのだなあ、と感心します。

 

序にかえて それは『遠野物語』から始まった

遠野物語』の話の内容は過去に起こった出来事が大半であるにもかかわらず、柳田は「目前の出来事」「現在の事実」であるといい、読者にもそう読ませようと考えている。そのための表現の工夫が見られるのが、人名や地名といった固有名詞であり、「今」という時間であり、文語体であったと思われる。

「き」や「たり」「り」という助動詞が頻繁に使われているのは、近い過去の出来事ということと密接に関連している。

 

『定本柳田国男集』の功罪

 

遠野物語』の文献学的研究

定本柳田国男集本以降の『遠野物語』の初版系諸本は、すべて柳田国男の他の著述、特に『山の人生』との組み合わせで構成されているところに特色がある。

 

柳田国男の「豆手帖から」の旅の検証

大島で村長の菅原熊治郎に会う。

その時の柳田国男のいでたちは、乞食とまごうほどの姿だった。

柳田は役場の中で「おしら神や、座敷童子について聞きたいのだが」と切り出した。

しかし村長は話をまともに聞こうとしない。というのも当時、書画を書く者たち、有名人の名をかたる変人など時おり大島の役場を訪れていた。

この風貌、この容姿、帝国貴族院の書記官長がこんな片田舎を訪れるわけがないと最初の印象でそう決めてしまった。

それで適当にあしらって帰してしまったという。

柳田は奮然として「君!(村長に対しては群長さえも使わぬ君という呼称で)日本の歴史はそういうことで成り立っているんだ。君はその歴史を否定するつもりか!」と捨て台詞を残して立ち去ったという。

これは「豆手帖から」の「おかみんの話」と対応する。

 

小子内

柳田は「浜の月夜」を書き、その後日談として「清光館哀史」を書いた。佐々木喜善は「不知の浜風」を書いた。

 

柳田国男の昔話テクスト

柳田の昔話研究は『遠野物語』の刊行から見れば52年続いた。

ヨーロッパの昔話研究から約一世紀遅れて始まった日本のそれは、その約半分が柳田によって先導されてきた。

 

『昔話採集手帖』の方法

 

柳田国男「八戸地方の昔話」

 

メディアとしての雑誌

『定本柳田国男』の「総索引」「書誌」「年譜」の三点セットを使えば、論文や著書が書けるという、安易な柳田論量産を促したところがあった。

 

「テクストとしての柳田国男」という視点では、形態的なレベルでは

単行本(単著・共著・編集・監修・指導)、新聞、雑誌、書簡、日記、原稿・カード、講演・談話、放送、録音、対談・座談会となる。

 

雑誌『民間伝承』の国際性

日本民俗学が軌道に乗ろうとする時期に出された文章に、柳田の「セピオの方法」がある。

セピオはフランスのブルターニュ地方の民間伝承を記録した民俗誌学者として知られる。

 

柳田国男の創元選書

 

柳田国男『村のすがた』に見る挿画の風景

 

柳田国男の放送

昭和36年(1962年)3月7日に柳田国男がテレビに初登場する。

 

柳田国男の書簡研究

「テクスト」の定義は

本文のみならず、箱・カバー・表紙、口絵・挿絵(挿画)・写真・地図、柱の文字、索引などありとあらゆるものを含む総体としてある。

 

柳田の書簡を問題にするとき、やはり注意されるのは自製絵葉書である。

 

絵葉書のまとまったものは、田中正明編『柳田国男の絵葉書 家族にあてた270通』がある。

柳田と家族をつなぐ資料として大変貴重であり、年譜の不備を補う点も大きい。しかし写真版と照合すると読み誤りが多いことに気がつく。