兵庫県の不思議事典

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兵庫県の不思議事典
有井基、大国正美、橘川真一 編
2007年12月10日 第一刷発行
新人物往来社 発行  

兵庫県の様々な謎や不思議を
考古、歴史、産業・鉄道、街道・舟運、人物、神話・伝説、文学、宗教、民俗・芸能、地理・地質、植物の各編に分けて紹介しています。

播磨国風土記の作者は誰?
優しさと美しさのある播磨国風土記
作者の手がかりとしては、かなり漢文の素養に裏付けられた的確な熟語の用い方に目が向く。
となると、当時、播磨国司の大目で、百済から渡ってきた父を持つ楽浪河内の可能性が出てくる。p42

姫路城はなぜ左巻きの螺旋構造なのか
江戸城の縄張りは右向きで、姫路城と見事に対をなしている。
そして螺旋の先端を伸ばせば、ラインはどちらも大阪城に向いている。p67

姫路城を保存した真の恩人は誰か?
補修を建議した中村重遠大佐が城を守った恩人として顕彰されてきた。
しかしその一年前、飛鳥井雅古少将から保存修理の意見書が政府に出され、工事も行われていた。
更に飛鳥井少将に建議したのは、当時の姫路城を現地で直接管理し、荒廃を憂えた工兵第四方面第三管区本署の無名の担当官ではないか。p80

瀬戸内海と日本海を川舟で繋ぐ幻のプランとは?
曳舟で市川をさかのぼり、生野あたりから馬などで中継して山を越え、円山川を経て日本海へ荷物を運んだ、という柳田国男の証言。
わずか五、六年だが実行に移されていた。p123

弁慶は書写山を焼いたのか
平安時代後期ごろ、都の朝廷を中心に性空上人信仰は高まる一方だったことから考えると、諸国で修行した弁慶が書写山に来た可能性は十分にある。
ただ、書写山炎上については、縁起などからみても、そういう事実はない。p131

曼陀羅の島々を守る頂上石に刻まれたペトログラフはなにか?
姫路市家島町の中で最大の面積を持つ西島に「コウナイの石」と呼ばれる頂上石。
この石の足元で、古代人が刻んだペトログラフ(岩刻文字)が平成十年に確認される。
日本ペトログラフ協会は、巨石周辺は先史時代、雨乞いをした祭祀の舞台だったのではないか、とみている。
また更に石を天の御柱と称し、家島=オノゴロ島説まである。p156-157

播磨国風土記の伊和十四丘伝承は何を伝えるか
出雲国風土記との共通性が注目される。
出雲と播磨の人的交流だけでなく、神話のモチーフを共有する文化が背景にあるのだろう。p163

お菊井戸と姥が石伝説はなぜ生まれた?
お菊井戸の伝説は全国に二十以上あるが、姫路の時代設定は現在の城が築かれる以前のもの。
姥が石の物語も、江戸時代の文献には見られない。
二つの伝説は、ともに、市民が姫路城に入れるようになってから成立したと考えていい。
お城に対する庶民の感情移入をそこに読み取ることができる。p172-173

紫式部は須磨を訪れて源氏物語を書いたか?
明石入道が「渚に小さやかなる船寄せ」た箇所の記述は、地元漁民ならではの知識を元にしたものだったが、実際に訪問したかどうかは不明。p176-177

和泉式部書写山に登ったか
中宮彰子に和泉式部が仕えたのは、彼女が三十代半ばとなった寛弘六年(1009)頃のことで、更に性空は寛弘四年には亡くなっていた。
史実と伝説では矛盾が生じる。p177

谷崎潤一郎は家島を歩いたか
谷崎は乱菊物語の連載が始まる1ヶ月ほど前の昭和五年二月に、家島での大々的な取材を敢行していた。p184

デカンショ節のルーツは?
草鞋をはいて篠山を出て行った「デッコンショ」は、帰る時には黒いマントに高下駄をはいて、デカルト・カント・ショーペンハウエルの頭文字をもじって「デカンショ」というはやしことばで帰省し、拍手喝采のうちに迎えられたのである。p208