2015-09-26 ダ・ヴィンチ封印《タヴォラ・ドーリア》の500年 第1章 ヨーロッパ読書メモ #歴史 第1章 《アンギアーリの戦い》と『君主論』 ダヴィンチの研究書で、マキアヴェッリとの関係を中心テーマとしたものはほとんど存在しない。 むしろ美術史家はマキアヴェッリを生理的に嫌い、避けているといったほうが適切だろう。 (トラバの記事の本はダ・ヴィンチをマキアヴェッリのつながりを書いていました) 「アンギアーリの戦い」の作品には、メディチ家は一切関与していない。この作品制作のためにダヴィンチがフィレンツェに滞在していた1503~1506年の間、メディチ家はフィレンツェを一門ごと追放されたいた。 サヴォラローラの栄光と悲劇を見たマキアヴェッリ。君主論において「武装する預言者はみな勝利を占め、備えのない預言者は滅びる」という言葉を残す。 あたかもルターの登場と諸侯を味方につけたプロテスタント勢力の成功を予言している。 マキアヴェッリは交通の要衝「ピサ」と資金的なバック「メディチ家」を失った後のフィレンツェの力を甦るらせるために ①ダ・ヴィンチとミケランジェロ国会議事堂の壁画を描かせる ②市民軍を構成しフィレンツェを防衛し、ピサを奪還する という精神的・実利的な方法を編み出し実行する。 チェーザレ・ボルジアがフィレンツェを包囲し、今まさに最後の攻撃を準備していた。それが1503年の春だった。相前後してマキアヴェッリとダ・ヴィンチがフィレンツェに戻る。 三人の英傑が何を話していたかわからないが、たぶん謀議してクーデターを企て、フィレンツェをチェーザレ中心の君主国にするはずではなかったか。 (かなり突飛な説だと思うが、話としてはありうることである。チェーザレの能力にほれ込み、なおかつフィレンツェでは時間稼ぎのためにこき使われていたマキアヴェッリが不満を持ち、このようなことを考えても不思議ではない)