
忘れられた日本人 宮本常一著 大活字版 表紙
忘れられた日本人
宮本常一 著
岩波書店 発行
1984年5月16日 第1刷発行
2023年7月14日 第75刷発行
2025年10月15日 大活字版第1刷発行
対馬にて
少なくも京都、大阪から西の村々には、こうした村寄りあいが古くから行われてきており、そういう会合では郷士も百姓も区別はなかったようである。
対馬には島内に6つの霊験あらたかな観音様があり、六観音参りと言って、それを回る風が中世の終わり頃から盛んになった。男も女も群れになって巡拝した。佐護にも観音堂があって、巡拝者の群れが来て民家に泊まった。すると村の若い者たちが宿へ行って巡拝者たちと歌の掛け合いをするのである。節の良さ文句の上手さで勝敗を争うが、最後には色々なものを賭けて争う。すると男は女にその体をかけさせる。女が男に体をかけさせることはすくなかったと言うが、とにかくそこまでいく。鈴木老人はそうした女たちと歌合戦をして負けたことはなかった。そして巡拝に来たこれというような美しい女のほとんどと契りを結んだという。
村の寄りあい
兵庫県加古川東岸一帯には、村落の中に講堂と呼ばれる建物が極めて多い。四阿(あずまや)造りで三方吹放しになっており、一方だけ板壁になり、祭壇があって阿弥陀・地蔵・観音などのまつってあるものが多い。このような建物は、中世の絵巻物にも見えるところである。加古川東岸地方では、このお堂が多くの場合ちょっとした村寄りあいの場所にあてられる。例えば、道つくり、溝さらえ、水ひきなどの時には、このお堂の前に集まって話し合いをするのである。
万歳峠
愛知県の名倉村から山を越えて田口の方へ出て行く峠のことである。日清戦争の時まではその峠の頂上まで出征兵を見送って万歳を唱えて別れてきたのであるが、峠の上で手を振って別れると、送られる方はすぐ谷の茂みの中に姿が隠れてしまう。そこで別れ場所を峠の頂上より5丁あまり手前のところにした。そこで別れの挨拶をして万歳を唱え、送られる方はそれから振り返りながら、5丁あまりを歩いて峠の向こうへ下って行くのである。こうして万歳峠が峠の頂上から5丁手前に来たのは日露戦争の時からであったという。誠に細やかな演出ぶりである。こうしたことに村共同の意識の反映を強く見ることができる。
著者の今日まで歩いてきた印象からすれば、年齢階梯制は西日本に濃くあらわれ、東日本に希薄になり、岩手県地方では若者組さえ存在しなかった村が少なくないのである。それらは単に後進的だからそうだったとは思えない。社会構造を別にしたものであると思われるのである。
伝承者が東の方では女が多いが、西日本になると男の方が多くなってくる。
西日本では伝承せられるものが、家に属するものよりも、村全体に関することが多く、東日本ではそれが家によって伝承せられることが多いのではないかと思っている。
名倉談義
日露戦争の時も、日独戦争の時も、今度の戦争の時も…
(日独戦争というのは、第1次世界大戦時、ドイツの根拠地であった青島や南洋諸島を攻撃したことか)
子供をさがす
女の世間
土佐は鬼の国ちうて、恐ろしいところだと聞いておりました。なかなか宿も貸してくれるものもなかったということであります。それで女四国というのは土佐の国を抜いた三国でありました。それで土佐の国境まで行って、三津ヶ浜まで、今度は真直に歩いて戻って、それから東を回りました。
昔は若い娘たちはよく逃げ出した。父親が何にも知らない間に、大抵は母親と示し合わせて、すでに旅へ出ている朋輩を頼って出て行くのである。
土佐源氏
土佐の梼原村の目の見えなくなった、乞食小屋に住む80歳超えの老人の話。
博労をしていた。
わしらみたいに村の中に決まった家のないものは、若衆仲間にも入れん。若衆仲間に入っておらんと、夜這いにも行けん。夜這いに行ったことが分かりでもしようものなら、若衆に足腰たたんまで打ち据えられる。
どんな女でも、優しくすればみんな許すもんぞな。
土佐寺川夜話
梶田富五郎翁
対馬豆酘村の浅藻に住む老人の話
明治5年12月15日、ものすごい北の風が吹いて、44名が行方不明なってしまった。
その中には漁の神様と言われた勝右衛門もおった。勝右衛門は天気を見ること、潮を見ること、魚を見ること、漁のことなら何でも狂うことがなかった。その人さえこの時の時化で死んでしもうたので、今にこの時化を勝右衛門嵐と言っております。
その頃山口県の久賀ではハワイへ行くことが流行っての…。久賀で働きゃ1日が13銭しかならんが、ハワイなら50銭になる。
私の祖父
宮本常一の祖父宮本市五郎について
世間師(一)
日本の村々を歩いてみると、意外なほどその若い時代に、奔放な旅をした経験を持った者が多い。村人たちはあれは世間師だと言っている。旧藩時代の後期にはもうそういう傾向が強く出ていたようであるが、明治に入ってはさらに甚だしくなったのではなかろうか。
山本権兵衛の家へ仕事に行った時など権兵衛がひどくむっつりしていて大工どもにはろくに言葉もかけなかった。「この馬鹿たれ糞くらえ」と思ったそうだが、この人が後に海軍大将で海軍大臣にまでなってびっくりした。「ようまァあんな男が」と思って、どうも腹の虫が収まらなかったら、シーメンス事件で失脚した。「まァまァそれくらいの男じゃった」と伊太郎はよくその話をした。
世間師(二)
将軍の慶喜という人が真っ先に大阪城を逃げた。
後はまとまりもなく散り散りに逃げた。清水中納言という人は、和泉の方に領地があったので、その方へ逃げた。
1日中家の中に閉じこもっていては中納言様も退屈だろうというので、百姓たちが手踊りや歌を歌って慰めることにした。
富木の者は芸がなかったので、角力を取ったが、乱暴者が揃っていたので、土俵の上で殴り合いまでする。中納言様は「こんな面白い角力は見たことがない」と喜んだ。
徳川方は戦争に負けたけれども呑気であった。長州方も勝ったが、乱暴も働かなかった。
文字をもつ伝承者(一)
田中梅治翁は渋沢敬三先生の前で挨拶した。後で渋沢先生曰く、
「あの人はね、今挨拶するのに、普通の人なら手のひらを畳につけて挨拶するだろう、あの人は手を軽く握って、手のひらの方を内側に向けて手をついていたよ。律儀で古風な人の証拠だよ」
文字をもつ伝承者(二)
福島県の高木誠一氏
シンメイさま
長さ1尺足らずの棒の一端に人の顔、大抵は烏帽子をつけた男と垂髪の女の一対で、これに布を着せてあり、青森、秋田、岩手ではオシラ様と呼ばれるものである。それが福島県の中でも平付近に残存している。
高木さんとロシア人ネフスキー氏との交友なども美しいものであった。ネフスキー氏の手紙の一節に「今の不景気のためには、貴下もずいぶんお困りでせうと存じますから深くお察し申し上げます。不景気のために御神明様の数は附えてきたとの由、実に面白い事柄と思ひました」
解説 網野善彦
宮本常一氏の自伝的な文章
・『民俗学への道』に収められた「あるいて来た道」
・『民俗学の旅』
この本で注目すべきは、宮本氏が女性たちの誠に解放的な「エロばなし」をはじめ、ある種の性の「解放」について各所で触れている点である。
ルイス・フロイスが『日欧文化比較』で「日本の女性は処女の純潔を少しも重んじない」と言っていること、男や供を連れずに道を行く女性の性が「自由」だったがゆえに女性の一人旅がなしえたと考えられる点などから見て、ここで宮本氏が話者から聞き出した女性のあり方は、少なくとも西日本においては深い根を持っているとしてよかろう。
ただ「土佐源氏」の主人公が百姓はかたいもので、女性遍歴は「ドラ」のすることと言っているのも見逃しがたい。
歴史学の使命の果たし方
・歴史を対象化して科学的に分析探求する歴史科学
・その上に立って歴史の流れを生き生きと叙述する歴史叙述
民俗学の学問としての完成に達する方法
・民俗資料を広く蒐集し分析を加える科学的手法
・それを踏まえつつ庶民の生活そのものを描き出す民俗誌、生活誌の叙述との総合