宮本常一と土佐源氏の真実

宮本常一土佐源氏の真実 表紙

宮本常一土佐源氏の真実

井出幸男 著

梟社 発行

2016年3月30日 第1刷発行

 

第一章 『土佐源氏』の成立

土佐源氏』において、宮本は山口県周防大島の身についた言葉を核として方言的記述を作り上げた。そしてさらに中国地方・西日本のことば、読みやすさを考慮しては標準語的言い回しをも取り入れて全体を構成した。

 

第一次資料の焼失、取材から十数年後の記述、宮本は採集ノートの焼失にもかかわらず、「おぼえておったんです。それほど印象深い話だったんです」と言うが、『土佐源氏』が「学問」として成立することの困難さの第一因は、やはりこうした事情の中に求めることができるのであろう。

 

毛利甚八の『宮本常一を歩く』より

毛利は「私は宮本常一を挫折した文学青年と捉えている。「土佐源氏」は文学青年時代の夢と、旅を通して培った現実認識が融合して生まれた文学的達成であり、宮本の本懐だったと思う」と述べている。

 

土佐源氏」で橋の下の筵がけの小屋に住む乞食、というのは全く偽りである。

 

宮本自身が「発表しない」と言っていた「ノート」(原作)とは一体いかなるものか。「発売禁止」を予測させ、「男女のいとなみ」にわたる表現 を含むもの。結論から先に言えば、私(著者)はそれこそが『土佐源氏のいろざんげ』であると思う。

 

昭和16年2月檮原村で盲目の老人の話を聞く

昭和30年頃までに『土佐乞食のいろざんげ』を書く

昭和34年8月『土佐源氏 年よりたち五』を『民話』第11号に発表。原作のうち性愛の模写に関わる叙述は大幅に削除

昭和34年11月「土佐檮原の乞食」と改題して『日本残酷物語1 貧しき人々のむれ』に収める

昭和35年7月「土佐源氏」と『民話』の時に用いた題名に戻し、『忘れられた日本人』に収める

 

宮本が旅装の包みの中にあったという『チャタレイ夫人の恋人

土佐源氏』と比較してみるとき、彼我の文体の懸隔、構成の相違にもかかわらず、それが大きな執筆の契機となったことについて、私は確信にも似た思いを抱く。階級を超えた性の結びつき、社会における女性の地位や性の位置の問題、さらに 方言や大衆社会の貧困の問題など、その類同性は極めて細部においても奇妙に一致した事柄を見いだすことができる、と私は思う。

 

第二章 『土佐源氏』の欠落 強盗亀・池田亀五郎が語るもの

第三章 『土佐源氏』の実像 学ぶべきは何か

盲目の老人、山本槌造の実際の「ばくろう」生活は牛よりは馬を中心としたものであった。しかし『土佐源氏』の中では牛中心になっている。宮本の牛との関わりの深さからくるものか?

 

チャタレイ夫人の恋人』だけでなく、木村荘太(本名)の『魔の宴』も『土佐源氏のいろざんげ』成立の契機になっているのではないか?

 

柳田国男が見出し、高校国語教科書教材とした「おあん物語」(土佐に伝承した一老女の口語による昔語り(自伝))と『土佐源氏』との繋がりの可能性

 

『忘れられた日本人』という題名は、名取洋之助『忘れられた島』と有吉佐和子『私は忘れない』から来ているのでは?

 

資料編1 『土佐乞食のいろざんげ』

 

資料編2 下元サカエ嫗 聞書

山本槌造氏の三女の聞書記録

 

 

 

忘れられた日本人 宮本常一 著

忘れられた日本人 宮本常一著 大活字版 表紙

忘れられた日本人

宮本常一 著

岩波書店 発行

1984年5月16日 第1刷発行

2023年7月14日 第75刷発行

2025年10月15日 大活字版第1刷発行

 

対馬にて

少なくも京都、大阪から西の村々には、こうした村寄りあいが古くから行われてきており、そういう会合では郷士も百姓も区別はなかったようである。

 

対馬には島内に6つの霊験あらたかな観音様があり、六観音参りと言って、それを回る風が中世の終わり頃から盛んになった。男も女も群れになって巡拝した。佐護にも観音堂があって、巡拝者の群れが来て民家に泊まった。すると村の若い者たちが宿へ行って巡拝者たちと歌の掛け合いをするのである。節の良さ文句の上手さで勝敗を争うが、最後には色々なものを賭けて争う。すると男は女にその体をかけさせる。女が男に体をかけさせることはすくなかったと言うが、とにかくそこまでいく。鈴木老人はそうした女たちと歌合戦をして負けたことはなかった。そして巡拝に来たこれというような美しい女のほとんどと契りを結んだという。

 

村の寄りあい

兵庫県加古川東岸一帯には、村落の中に講堂と呼ばれる建物が極めて多い。四阿(あずまや)造りで三方吹放しになっており、一方だけ板壁になり、祭壇があって阿弥陀・地蔵・観音などのまつってあるものが多い。このような建物は、中世の絵巻物にも見えるところである。加古川東岸地方では、このお堂が多くの場合ちょっとした村寄りあいの場所にあてられる。例えば、道つくり、溝さらえ、水ひきなどの時には、このお堂の前に集まって話し合いをするのである。

 

万歳峠

愛知県の名倉村から山を越えて田口の方へ出て行く峠のことである。日清戦争の時まではその峠の頂上まで出征兵を見送って万歳を唱えて別れてきたのであるが、峠の上で手を振って別れると、送られる方はすぐ谷の茂みの中に姿が隠れてしまう。そこで別れ場所を峠の頂上より5丁あまり手前のところにした。そこで別れの挨拶をして万歳を唱え、送られる方はそれから振り返りながら、5丁あまりを歩いて峠の向こうへ下って行くのである。こうして万歳峠が峠の頂上から5丁手前に来たのは日露戦争の時からであったという。誠に細やかな演出ぶりである。こうしたことに村共同の意識の反映を強く見ることができる。

 

著者の今日まで歩いてきた印象からすれば、年齢階梯制は西日本に濃くあらわれ、東日本に希薄になり、岩手県地方では若者組さえ存在しなかった村が少なくないのである。それらは単に後進的だからそうだったとは思えない。社会構造を別にしたものであると思われるのである。

 

伝承者が東の方では女が多いが、西日本になると男の方が多くなってくる。

西日本では伝承せられるものが、家に属するものよりも、村全体に関することが多く、東日本ではそれが家によって伝承せられることが多いのではないかと思っている。

 

名倉談義

日露戦争の時も、日独戦争の時も、今度の戦争の時も…

(日独戦争というのは、第1次世界大戦時、ドイツの根拠地であった青島や南洋諸島を攻撃したことか)

 

子供をさがす

女の世間

土佐は鬼の国ちうて、恐ろしいところだと聞いておりました。なかなか宿も貸してくれるものもなかったということであります。それで女四国というのは土佐の国を抜いた三国でありました。それで土佐の国境まで行って、三津ヶ浜まで、今度は真直に歩いて戻って、それから東を回りました。

 

昔は若い娘たちはよく逃げ出した。父親が何にも知らない間に、大抵は母親と示し合わせて、すでに旅へ出ている朋輩を頼って出て行くのである。

 

土佐源氏

土佐の梼原村の目の見えなくなった、乞食小屋に住む80歳超えの老人の話。

博労をしていた。

 

わしらみたいに村の中に決まった家のないものは、若衆仲間にも入れん。若衆仲間に入っておらんと、夜這いにも行けん。夜這いに行ったことが分かりでもしようものなら、若衆に足腰たたんまで打ち据えられる。

 

どんな女でも、優しくすればみんな許すもんぞな。

 

土佐寺川夜話

梶田富五郎翁

対馬豆酘村の浅藻に住む老人の話

 

明治5年12月15日、ものすごい北の風が吹いて、44名が行方不明なってしまった。

その中には漁の神様と言われた勝右衛門もおった。勝右衛門は天気を見ること、潮を見ること、魚を見ること、漁のことなら何でも狂うことがなかった。その人さえこの時の時化で死んでしもうたので、今にこの時化を勝右衛門嵐と言っております。

 

その頃山口県の久賀ではハワイへ行くことが流行っての…。久賀で働きゃ1日が13銭しかならんが、ハワイなら50銭になる。

 

私の祖父

宮本常一の祖父宮本市五郎について

 

世間師(一)

日本の村々を歩いてみると、意外なほどその若い時代に、奔放な旅をした経験を持った者が多い。村人たちはあれは世間師だと言っている。旧藩時代の後期にはもうそういう傾向が強く出ていたようであるが、明治に入ってはさらに甚だしくなったのではなかろうか。

 

山本権兵衛の家へ仕事に行った時など権兵衛がひどくむっつりしていて大工どもにはろくに言葉もかけなかった。「この馬鹿たれ糞くらえ」と思ったそうだが、この人が後に海軍大将で海軍大臣にまでなってびっくりした。「ようまァあんな男が」と思って、どうも腹の虫が収まらなかったら、シーメンス事件で失脚した。「まァまァそれくらいの男じゃった」と伊太郎はよくその話をした。

 

世間師(二)

将軍の慶喜という人が真っ先に大阪城を逃げた。

後はまとまりもなく散り散りに逃げた。清水中納言という人は、和泉の方に領地があったので、その方へ逃げた。

1日中家の中に閉じこもっていては中納言様も退屈だろうというので、百姓たちが手踊りや歌を歌って慰めることにした。

富木の者は芸がなかったので、角力を取ったが、乱暴者が揃っていたので、土俵の上で殴り合いまでする。中納言様は「こんな面白い角力は見たことがない」と喜んだ。

徳川方は戦争に負けたけれども呑気であった。長州方も勝ったが、乱暴も働かなかった。

 

文字をもつ伝承者(一)

田中梅治翁は渋沢敬三先生の前で挨拶した。後で渋沢先生曰く、

「あの人はね、今挨拶するのに、普通の人なら手のひらを畳につけて挨拶するだろう、あの人は手を軽く握って、手のひらの方を内側に向けて手をついていたよ。律儀で古風な人の証拠だよ」

 

文字をもつ伝承者(二)

福島県の高木誠一氏

 

シンメイさま

長さ1尺足らずの棒の一端に人の顔、大抵は烏帽子をつけた男と垂髪の女の一対で、これに布を着せてあり、青森、秋田、岩手ではオシラ様と呼ばれるものである。それが福島県の中でも平付近に残存している。

 

高木さんとロシア人ネフスキー氏との交友なども美しいものであった。ネフスキー氏の手紙の一節に「今の不景気のためには、貴下もずいぶんお困りでせうと存じますから深くお察し申し上げます。不景気のために御神明様の数は附えてきたとの由、実に面白い事柄と思ひました」

 

解説 網野善彦

宮本常一氏の自伝的な文章

・『民俗学への道』に収められた「あるいて来た道」

・『民俗学の旅』

 

この本で注目すべきは、宮本氏が女性たちの誠に解放的な「エロばなし」をはじめ、ある種の性の「解放」について各所で触れている点である。

ルイス・フロイスが『日欧文化比較』で「日本の女性は処女の純潔を少しも重んじない」と言っていること、男や供を連れずに道を行く女性の性が「自由」だったがゆえに女性の一人旅がなしえたと考えられる点などから見て、ここで宮本氏が話者から聞き出した女性のあり方は、少なくとも西日本においては深い根を持っているとしてよかろう。

ただ「土佐源氏」の主人公が百姓はかたいもので、女性遍歴は「ドラ」のすることと言っているのも見逃しがたい。

 

歴史学の使命の果たし方

・歴史を対象化して科学的に分析探求する歴史科学

・その上に立って歴史の流れを生き生きと叙述する歴史叙述

民俗学の学問としての完成に達する方法

・民俗資料を広く蒐集し分析を加える科学的手法

・それを踏まえつつ庶民の生活そのものを描き出す民俗誌、生活誌の叙述との総合

 



柳田國男をよむ 日本人のこころを知る

柳田國男をよむ 日本人のこころを知る 表紙

柳田國男をよむ

日本人のこころを知る

後藤総一郎 編著

アテネ書房 発行

1995年3月3日 第1刷発行

 

柳田國男の著作百余冊の中から、主要著作54冊を選び、そのエッセンスを、平易に紹介しようとして編まれた本です。

あといわゆる「柳田本」も紹介されています。

この本で紹介されていない柳田本の中で、個人的に面白かった本は、

 

柳田国男とスイス 渡欧体験と一国民俗学

貴族院書記官長 柳田国男

柳田国男と事件の記録』(『山の人生』の冒頭の事件について詳しく調べている)

柳田国男外伝 白足袋の思想』内の「翻訳家としての柳田国男

 

です。このブログでも紹介しています。

 

古層の神々

後狩詞記 柳田民俗学の出発点

石神問答 柳田 民俗学の方法の出発点

柳田國男の学問の特徴は、すでに常識とされていることに問いを発するところにあると言われる。

遠野物語 忘れ去られた世界が甦る永遠の名著

山の人生 山人に伝わる不思議なはなし

大白神考 東北一円に広がるオシラサマ信仰

妖怪談義 天狗、河童、ザシキワラシなど不可思議への関心

妹の力 かつて女は尊い神であった

 

柳田民俗学の理念と方法

郷土誌論 平民が自分自身を知るための研究

青年と学問 「学問救世」「経世済民」の志

民間伝承論 日本民俗学初の概論書

郷土生活の研究法 民俗学存立の基本姿勢

婚姻の話 日本人の婚姻形態とその歴史

北小浦民俗誌 民俗語彙と民俗誌の収集

 

都市と農村の視座

時代ト農政 農村の近代化を目指した農政学の構想

都市と農村 都市と農村を包括した都鄙連続論

 

旅の民俗学

雪國の春 旅が生んだ 紀行文学

秋風帖 遠州から三河への旅

海南小記 沖縄の歴史と民族に触れる旅

豆の葉と太陽 村々を観察する辺土の旅

島の人生 島社会への同情と愛情

東國古道記 民俗学の方法を応用した風土記エッセイ

 

居・食・住の民俗学

明治大正史世相篇 常民の営む事実から生まれる 歴史

木綿以前の事 常民の女の暮らしのさまをみる

食物と心臓 食物に関する言葉や習俗

 

口承文芸の世界

民謡の今と昔

民謡 覚書

うたい継がれてきた人々の心情と生活

蝸牛考 方言周圏論の確立

桃太郎の誕生 小さ子神の物語の系譜

傳説 伝説の定義とその変遷

方言覚書 国語を豊かにする 方言 の再評価

昔話覚書 世界に共通する昔話

味噌買橋

笑の本願 民俗学と文学の接点

毎日の言葉 話し言葉の意味を歴史的に探る

口承文藝史考 旧来の文学史にはない常民文芸の歴史考

不幸なる藝術 日本文学の「不幸」を打った文芸批評

 

子どもの民俗学

國語の将来 柳田教育学の骨格

こども風土記 子どもが保持する伝承文化

火の昔 火を通じての生活と文化

村と学童 疎開児童に語った田舎の文化

「三角は飛ぶ」というユニークな題名の小論は、その当時 日本に来ていたフランス全権大使 ポール・クローデルの詩の各説の終わりの1行の「あゝ三角は飛ぶよ」に由来している。

村のすがた きたるべき社会構築に向けた提言

なぞとことわざ 群れの教育を支える武器

少年と国語 言葉の将来を考える

 

野の草と鳥の民俗学

野草雑記 草花の伝承とその歴史

名も無き草花、と私たちは不用意に口にする 。だが 、名のない草があろうか。 正確には、 私の知らない草と言うべきなのだ。

野鳥雑記 口承文芸、伝説、島の方言など

 

日本人の心意世界

日本の祭 祭りの意味とその変遷

祭日考

山宮考

氏神と氏子

(新国学談三部作) 日本人の神の原型を知る

先祖の話 日本人の家と祖先観

家閑談 「家」に対する多彩な視点

日本人〈編〉 日本人の心性への絶望

年中行事 覚書 ハレの日の風俗を考える

新たなる太陽 暦に秘められた日本人の心理

海上の道 生涯を通じて論じた日本人の起源

 

自伝

炭焼日記 戦時下の日常を知る貴重な記録

『故郷七十年』 柳田國男の秘められた発酵母

 

柳田國男論をよむ

柳田國男 牧田茂 未知の読者に紹介した柳田の伝記

論争する柳田國男 岩本由輝 独創的な農政理論を浮彫りに

柳田國男の思想 中村哲 柳田の祖先崇拝観にメスを入れる

柳田国男の世界 伊藤幹治 米山俊直 編著 立体的に構成された柳田学

一つの日本文化論 有賀喜左衛門 柳田の学問の内在的批判

柳田国男の青春 岡谷公二 いきいきと描いた青春時代

漂泊と定住と 鶴見和子 思想の可能性を眺望した柳田論

柳田国男と古代史 佐伯有清 柳田の古代史認識を明らかにする初の試み

社会記・序 内田隆三 柳田「日本人」論を解明した意欲作

柳田國男の思想 梶木剛 民族的心性に固着する柳田の姿

柳田国男論集成 吉本隆明 文体と方法に照準した根源的柳田論

山の精神史 赤坂憲雄 民俗学確立以前の思想の解明

柳田国男民俗学 福田アジオ 気鋭研究者の批判的検討

柳田國男 新文芸読本 テーマも論者も豊富な上質の入門書

柳田国男研究資料集成 後藤総一郎 編 千編余りの壮大な柳田論

柳田國男 色川大吉 柳田学の批判的継承

父との散歩 堀三千 娘の目から見た心優しい姿

柳田國男折口信夫 池田彌三郎 谷川健一 独創的な二人を論じる対談

柳田国男の思想史的研究 川田稔 農政学期から民俗学創成記の思想に迫る

柳田国男 後藤総一郎 柳田学へのひたむきな論考

柳田国男 後藤総一郎監修 柳田国男研究会 編著 「常民大学」活動の成果 

柳田の結婚においては、歌の取り持つ縁であり、柳田自身、相手の女性柳田孝の美しさに一目惚れしたという実状があった。それならば、謎というより至って自然な流れであったといえる。

 

旅の民俗学 宮本常一

旅の民俗学 宮本常一 著 表紙

旅の民俗学

宮本常一 著

河出書房新社 発行

2006年8月30日 初版発行

 

宮本常一を中心とする対談・鼎談集です。

 

旅と民俗学

土と生活と応用の視点

 

日本人の旅と文化の交流

悪人はいない日本の常民文化

with 筑波常治

 

柳田先生がよく言われたことで、私(宮本)もそういう体験があるのですが、商売というのは貧しい者への同情から成り立っているのではないか。

持てるものが持たざるものを救う、逆にいえば、持たざる者が、持てるものから救ってもらうのが当然であるという人と人のつながりが商売みたいな格好になっている。

 

歩く得 歩かぬ損 with 秋元松代

日本人で一番よく歩いた人は一遍だと思うのですが、あれほど歩いて、あれほど自分を虚しくした人はいない。

 

「人生は旅」の思想 with 丸谷才一紀野一義

西行は歌も上手だったが、戦術とか戦略にも相当深かった人らしい。だから西行はスパイという説がある。

 

日本人とは

その起源にさかのぼって

with 江上波夫・國分直一

 

縄文時代の言語は何らかの形で残っていないか。その残っている可能性が一番あるのは地名だと思う。

 

日本人は二つの、全くある意味では性格や伝統の異なる人間が、ごちゃごちゃにならずに、しかも日本民族ということで統一されていた。

フランスやドイツに行ってみても、何とも一つのものと感じる。

 

日本の原点 with 水上勉

 

旅の伝説に魅せられて with 松谷みよ子・松永伍一

 

高野聖と平家部落

日本人は悲劇的英雄がお好き with 杉本苑子

 

道の文化史 with 中西睦

馬と牛の運搬

昔の馬は小さく、運搬させるのは牛の方がよかった。

また馬は立ったままだが、牛は夜になると横になって寝る。それで野宿するとき、牛を二頭寝かせてその間に寝た。

 

新志摩風土記 

大浦と小浦

 

漁村と港町 with 河野通博

「泊」という字がつく地名のところは、必ず遠浅で、そういうところが最初の漁港になり、それが古い時代の日本の船を平底にした。

シナの造船技術を採り入れて船底に水切りがつくのは平清盛の頃からのことで、それから「津」という字のつく水深の深い港が発達し始める。

 

漁村部では末子相続が多い。播磨の家島など、一本釣りの漁村ではだいたいそうです。

 

瀬戸内海の港町を発達させたものというと、江戸時代の参勤交代が大きい。

 

日本に稲が入ってきたのは二つの流れ

朝鮮半島山東半島経由といってもいい)経由の実蒔

・南からの田植えを伴う稲

 

海と日本人 with 山崎朋子・茂在寅男

山口県の見島の漁師の話

船の帆を巻いて西南に向かって走ると、中国の浙江省の先にある舟山列島までわずか二日で行ける。

萩あたりから東南の風に乗ると、同じように二日間でウラジオストックまで行ける。

 

貴重な観光資源を保護する態度 with 荒垣秀雄

 

柳田國男の絵葉書 家族にあてた二七〇通

柳田國男の絵葉書 家族にあてた二七〇通 表紙

 

柳田國男の絵葉書 家族にあてた二七〇通
田中正明 編
昌文社 発行
2005年6月25日 初版

柳田國男が旅先から家族にあてた絵葉書の全容です。
国内篇は、明治二十三年から昭和二十六年にわたって投函された126葉。国外篇は、大正六年の台湾・中国への旅、および大正十一年から十三年の間に国際連盟統治委員会委員として滞欧した先々から投函された144葉です。

柳田民俗学のかくし味 鶴見和子(社会学) 
柳田民俗学のかくし味とは、柳田が心の中に隠し持たれたヨーロッパ体験の準拠枠である。p8
(柳田民俗学は一国民俗学といわれているが、ヨーロッパ体験はそのかくし味というより、民俗学が本当の学問になるための基盤になったような気がします)

 

国内篇
宛名を「孝子」としている。孝が本名で、遊び心が「子」を加えさせたものであろうか。同様な心情は三穂・千枝・三千・千津の四人の女児にもはたらいたようで、千津を除いてその例を認めることができる。 
なお“穂”とか“千”といった文字を用いたのは、柳田の“田”に合わせたもので、父國男の発想であった。p70 

『故郷七十年』より
一旦帰京してまたすぐ旅に出ようとした時、次女が病気で入院した。普段あまり文句をいわない養父から、この時だけは、「こんな時ぐらい旅行を止めたらどうか」といわれたので、さすがの私もすっかりへこたれてしまった。「秋風帖」の旅がたしか大正九年の十月で、それから一ヵ月ぐらいぼそぼそして家に居り、十二月末に九州の旅に出たのである。p72
(へこたれて、ぼそぼそして家に居り、という表現が面白いです)

 

国外篇
「本場の広東料理」より
日本はこれ迄種々のものを支那から学べるにも拘わらず、食事においてはとうてい支那と手をとって並び得なかったのは如何なるわけであろうか。自分は幾度か其の理由を見出だそうとして能わなかったが一言を以て云えば鰹節の束縛と云おうか、若しくはお茶のデスボジションと云おうか。日本の料理はサッと煮てサッと出す方が多い反対に、あちらの料理の一貫している原則は煮すぎなのである。p165

1921年6月、ニューヨークからフランスのブーローニュ=シュル=メールに入港し、イギリスには寄らなかった。ブーローニュから五時間ほどの汽車の旅でパリに到達p188-189

アナトール・フランスの著作には、特別な関心を持っていた。「ブランデスアナトールフランス論を読んでしまう」「アナトール・フランスのバルタザルも一読し了る」「アナトールフランスのタイスを英仏両文にて読みはじめ面白い為に外のことをせず」などと記されている。p191

 

滞欧時にはたくさんの本を収集して日本に送ったことが知られている。高橋治「柳田国男の洋書体験一九〇〇ー一九三〇」に詳しい。

1921年9月ストラスブールにて
「国際聯盟の発達」の中で「私は昨年九月末ナンシーから上アルザスを経て瑞西に帰った。此の辺も戦争中は肉弾戦の行われたに相違なく、その荒廃も仏国の戦場に等しいものがあったのに町の近くの道には人の往来が繁く野原に遊ぶ牛馬の群れは旅人に平和な感を与えていた。」p217

1922年6月、スエズにて
網干の中川欽之助に仏供送ることを絵葉書で依頼p237
 

ロセッティ「受胎告知」

 

1922年10月19日の絵葉書
イギリスのラファエル前派の画家ロセッティによる「見よ、われは主のはした女なり」ロンドン、テイト・ギャラリー
「此絵はロンドンの国立絵画館の神品にて日本にてもよく知られたる聖母夢想の図に候 右の端にある紅いツイ立てやうのも何ともいへずよい色に候」p262
(受胎告知系統の絵画にこのような作品があったのですね。構図といい、シンプルな服装や背景といい、何ともいえない聖母マリア様の表情といい、凄い新鮮で衝撃を受けました。まさに「神品」です。現代的な解釈による作品と言えます。柳田さんは右下の赤い衝立の色に感心していますが、確かにそこだけ妙に目立っていますね)

1923年2月ソルレント(ソレント)より
帰れソレントへ」の歌で知られている
詩人トルクワート・タッソー(1544-95)、イタリア・バロック期の最大の詩人の生まれたところp275
(ゲーテがタッソーについて書いていました)

絵はがきの心 柳田冨美子(柳田國男長男為正未亡人)

 

編者解説 柳田國男 旅と絵葉書
柳田は一生の間に、何回くらい旅をしたのであろうか
柳田國男写真集』の「年譜 旅の足跡」によると138回
ただし海外旅行と保養のための家族旅行は省いているので、実際はこれを凌駕している。
また一回ごとの旅の日数が長い。一週間から十日間は普通で、月を跨いで続けたり、旅先で年末年始を迎えることも一再ではなかった。p316-317
 
 

柳田國男 私の歩んできた道(前半)

柳田國男 私の歩んできた道
柳田國男 私の歩んできた道
田中正明 編
岩田書院 発行
2000年(平成12年)10月 第1刷 400部発行

柳田國男自身が記したり語ったりした自らの歩みや信条などと、更にはこれまで他者にとって公にされている記録の中から、家族や親族・近親者などが柳田について語ったことを取り纏めています。p6

一 自伝
年譜

柳田國男自伝

私の歩んできた道
歴史学はもう従来の人物主義の歴史から着眼点を変えるようにしなければならない。国を盛んにさせたのは人物だという考え方は、芸術や文学においてもこれは変えなければならないと思います。
彼らを生み出した時代というか、社会がこれを支えているのだという、それだけの見方の相違は今後つけてゆかなければいけないと思う。p23

 

民俗学的方向に進むにあたって、示唆を与えてくれた学者は?
それはフレーザー(1845年生まれ。イギリスの人類学者、民俗学者)です。我々に非常に大きな影響を与えてくれた。暇さえあれば『ゴールデン・バウ』(フレーザーの主著。邦訳「金枝篇」)を読んでいた。あれはフォークロア(民俗学)の直接の専門書ではない。ただ比較の必要なことを言っている。むしろエスノロジー(人種学)のために云っているのだが、あの中に我々に関係したことが幾らも出てくる。また日本のことを書いているのが、大変我々には楽しみでした。p33-34

ジュネーブにおいでの時は?
あそこでは非常に大きい影響を受けております。私のいたのは南部ですけど、スイスのフォークロアは非常に進んでいた。ナショナル・グローリー(民族神話)の話も詳しく知られていることがわかり、大変勇気づけられた。p36

遠野物語』の特徴は、ちっともどうとかしようとか解釈しようとかいう態度のないことです。これはヨーロッパの学者の気に入ったらしいね。イギリスで一時英訳させるという話がきたことがある。p37

 

村の信仰
日本でカミまたはカミサマというのは、英語のゴッズとそっくり同じかどうかは、向こうの言葉の意味も確かめなければならぬが、一方にはまたこちらでも十分にその成り立ちを究めて見なければなりません。
言葉は厄介な国の垣根ですが、これがあるために比較を精確にしうる利益もあります。
仏教は基督教と違って、最初からこの国ではカミという名を使うことを避けました。ホトケは仏または浮屠から出た語とはいいますが、その語源は実はまだ明らかではありません。ただ何処までも今までの神との混淆を差し控えたために、幸いにして我々は今も固有の神々の存在を知り得るのであります。p58

学校教育では試験というものがあるから仕方なく先生の結論について来るんです。それがひどかったのは私の知る限りでは穂積八束さんでしたね。自分の出した結論でないものを試験の時に書いたりすると、うんと点を悪くされたものです。だから不審があっても質問もしません。p70-71

日本の哲学についていいたいことは、どうも表現の技術が進まないということです。私はいわゆるプロフェッショナルな哲学が全滅すべきだとは考えていないが、日本の言葉を自由にし、クリアにする哲学が出来れば必要だと思います。そのためには単純な言葉でなければなりません。p73

 

(白雲と我身をなさば…)

私の歩んだ道

二 親・兄弟
(短歌三首)

童心画巻
松岡操の絵心に関した瑣事が主題

漱石の猫に出る名
智東風の由来
井上通泰の変名

(『南天荘集』跋文)
井上通泰の遺稿集

太平洋民族学の開創 松岡静雄

考へさせられた事
松岡映丘への追悼

 

三 読書
乱読の癖  

読書余談

童時読書

本について

柳翁閉談 書物

 

四 旅行
旅行略暦 

旅行の上手下手
日本はどちらかといふとよい旅行のし易い国である。例を隣の支那満州にとってみると、あの国で、あの平原の真中に住んでいては、どんなに上手に旅行をしようとしても、無駄な所を歩かねばならぬ。ところが京都、東京は周囲が直ぐにいい練習場である。p135

旅行史話 
戦中に私は山科言継卿の日記を読んで居て、あの中に幾つもの得がたい旅の記事のあるのを見て感動した。
その一つは岐阜へ信長に逢いに行った有名なものだが、なおその以下にも若い頃に、陸路近江の千種だが八風だがの峠を越えて、清須へ遊びに行った往復の道の記と、年をとって後駿府の今川家へ、叔母さんを訪ねて世話になりに行った際の日記などが、平凡な常の京都の記録の中に、挿まって光を放って居る。p144-145

 

昔の旅 これからの旅
旅は動機の上からこれを群の旅と一人の旅行との二つに分けて見ることができる。
群の旅行は主として信仰に発したもので道者が中心であり、熊野参りの道者などがその先駆者に数えられ、年百年中、沢山の旅人が熊野目指して集まった。富士や出羽三山の行者も型は熊野からとったものである。
この道者や行者の旅が段々庶民の間に弘まるようになると、当初は信心から始まったものであったが伊勢参拝や大和巡りが附加され、或は金比羅詣でや更に長駆して出雲大社太宰府天満宮あたりまで赴く者などが出てきて、遂には信仰だけでなく遊覧をかねてする方が強くなってきたのである。
近世になって八十八ヶ所とか三十三番札所の如く、信仰に引き戻そうとするものもあったけれども、どちらかといえば名所旧蹟に心惹かれるようになってきた。
個人の旅即ち一人旅は比較的近世になって起こったもので、この一人旅の始は「あきない」ではなかったかと考えられる。
後には越中富山の売薬行商の如く顕著な発達を遂げたものもある。p148-149



中央と地方の文化が旅行に依って交流した著しい例は足利時代中期の京都の衰微と旅行の関係に見ることができる。
応仁の乱により即ち文人墨客などは食えぬ京都を棄てて、続々地方行脚に出たのである。
歌や物語を地方の大名や豪家に土産として書いてやり、或いは連歌を興行し、帰りに金銀を土産に貰って来る一種の文化交易である。
地方文化は乱世のときに培養されるものである。p149-150

柳翁閑談 こども
大正十年正月沖縄への途中、奄美大島に数日立ちよった。わずかの印象で決めてしまうのは酷であるが、この島の子供は、全体におっとりしたところがないように見受けられた。奇妙な遊びの流行している時で、旅人とみれば「今何時ですか」と時計を出させ、わぁーっとはやしたてる。金時計か、銀時計か、さきに言い当てたものが勝ちになるらしい。なんというわびしい子供の遊びであろうか。もっと子供らしい遊びはないものであろうかと、ずいぶんさびしい思いをしたものである。p156
 

みんな昔はこどもだった 池内紀 著

イメージ 1

 

みんな昔はこどもだった
池内紀 著
講談社 発行
2018年3月20日 第1刷発行
 
手塚治虫林芙美子宮本常一柳田国男澁澤龍彦ら、大きな、個性的な仕事をした十五人の足跡を幼少期を中心にたどっていっています。
 
池内さんが小学5年の時貸本屋で借りた。
悪魔メフィストフェレスが神様と賭けをするシーン。大学者ファウストを魔法の力で地獄へ引きずりこめるかどうか。
「エッヘへへ ファウストだろうがセカンドだろうが わけありませんや」
長い年月が経って、ファウストを訳す池内オサムさん。同じ名前の手塚治虫版に立ちもどる。
幼い頃声に出して読んだセリフを、半世紀のちに同じセリフを口ずさみながら訳していく。
 
歩く民俗学者とあだ名された宮本常一
取材先の記録にあたり、小型カメラのオリンパスペンを愛用した。フィルムがハーフサイズ、一本のフィルムが倍に使える。残された写真は総計十万枚にあまったという。
小さなカメラ一つで後世のために、この島国の生活民俗的絵巻物をすくいとった。
 
柳田国男少年の福崎での世界
北 鈴ノ森神社
西 市川・駒ヶ岩
南 稲荷様
東 昌文小学校・妙徳山
のちの柳田民俗学の広大な広がりを煮つめていくと、この小さな四辺形に往きつく。
 
「海女部史のエチュウド」と題されたエッセイより
現・福崎町からだと車で30分も南に走れば、瀬戸内海に出るが、明治十年代には海までが異国のように遠かった。
十歳の時、山の上から春霞の中、初めて海と島を見る。(男鹿島か?)
田舎の少年は出世をして海を見て歩こうと思った。
 
昭和十一年前後、運命共同体となった日独伊。
日独、日伊の交換放送を熱心に聞く澁澤龍彦少年。
ずっとのちのある年、澁澤龍彦がローマのホテルに滞在していた時、フロント係がファシストの歌のメロディーを口笛で吹いているのに気がつく。
フロントで鍵を受けとる際、まねをして同じメロディーを口笛で吹いて見せたところ、イタリア人はにやりと笑った。
むろん、ネオ・ファシストでもなんでもなく、ほぼ同じ世代と見えたから、幼い頃に覚えたまでだろう。
イデオロギーはまったく関係ないのである。