柳田國男 私の歩んできた道(前半)

柳田國男 私の歩んできた道
柳田國男 私の歩んできた道
田中正明 編
岩田書院 発行
2000年(平成12年)10月 第1刷 400部発行

柳田國男自身が記したり語ったりした自らの歩みや信条などと、更にはこれまで他者にとって公にされている記録の中から、家族や親族・近親者などが柳田について語ったことを取り纏めています。p6

一 自伝
年譜

柳田國男自伝

私の歩んできた道
歴史学はもう従来の人物主義の歴史から着眼点を変えるようにしなければならない。国を盛んにさせたのは人物だという考え方は、芸術や文学においてもこれは変えなければならないと思います。
彼らを生み出した時代というか、社会がこれを支えているのだという、それだけの見方の相違は今後つけてゆかなければいけないと思う。p23

 

民俗学的方向に進むにあたって、示唆を与えてくれた学者は?
それはフレーザー(1845年生まれ。イギリスの人類学者、民俗学者)です。我々に非常に大きな影響を与えてくれた。暇さえあれば『ゴールデン・バウ』(フレーザーの主著。邦訳「金枝篇」)を読んでいた。あれはフォークロア(民俗学)の直接の専門書ではない。ただ比較の必要なことを言っている。むしろエスノロジー(人種学)のために云っているのだが、あの中に我々に関係したことが幾らも出てくる。また日本のことを書いているのが、大変我々には楽しみでした。p33-34

ジュネーブにおいでの時は?
あそこでは非常に大きい影響を受けております。私のいたのは南部ですけど、スイスのフォークロアは非常に進んでいた。ナショナル・グローリー(民族神話)の話も詳しく知られていることがわかり、大変勇気づけられた。p36

遠野物語』の特徴は、ちっともどうとかしようとか解釈しようとかいう態度のないことです。これはヨーロッパの学者の気に入ったらしいね。イギリスで一時英訳させるという話がきたことがある。p37

 

村の信仰
日本でカミまたはカミサマというのは、英語のゴッズとそっくり同じかどうかは、向こうの言葉の意味も確かめなければならぬが、一方にはまたこちらでも十分にその成り立ちを究めて見なければなりません。
言葉は厄介な国の垣根ですが、これがあるために比較を精確にしうる利益もあります。
仏教は基督教と違って、最初からこの国ではカミという名を使うことを避けました。ホトケは仏または浮屠から出た語とはいいますが、その語源は実はまだ明らかではありません。ただ何処までも今までの神との混淆を差し控えたために、幸いにして我々は今も固有の神々の存在を知り得るのであります。p58

学校教育では試験というものがあるから仕方なく先生の結論について来るんです。それがひどかったのは私の知る限りでは穂積八束さんでしたね。自分の出した結論でないものを試験の時に書いたりすると、うんと点を悪くされたものです。だから不審があっても質問もしません。p70-71

日本の哲学についていいたいことは、どうも表現の技術が進まないということです。私はいわゆるプロフェッショナルな哲学が全滅すべきだとは考えていないが、日本の言葉を自由にし、クリアにする哲学が出来れば必要だと思います。そのためには単純な言葉でなければなりません。p73

 

(白雲と我身をなさば…)

私の歩んだ道

二 親・兄弟
(短歌三首)

童心画巻
松岡操の絵心に関した瑣事が主題

漱石の猫に出る名
智東風の由来
井上通泰の変名

(『南天荘集』跋文)
井上通泰の遺稿集

太平洋民族学の開創 松岡静雄

考へさせられた事
松岡映丘への追悼

 

三 読書
乱読の癖  

読書余談

童時読書

本について

柳翁閉談 書物

 

四 旅行
旅行略暦 

旅行の上手下手
日本はどちらかといふとよい旅行のし易い国である。例を隣の支那満州にとってみると、あの国で、あの平原の真中に住んでいては、どんなに上手に旅行をしようとしても、無駄な所を歩かねばならぬ。ところが京都、東京は周囲が直ぐにいい練習場である。p135

旅行史話 
戦中に私は山科言継卿の日記を読んで居て、あの中に幾つもの得がたい旅の記事のあるのを見て感動した。
その一つは岐阜へ信長に逢いに行った有名なものだが、なおその以下にも若い頃に、陸路近江の千種だが八風だがの峠を越えて、清須へ遊びに行った往復の道の記と、年をとって後駿府の今川家へ、叔母さんを訪ねて世話になりに行った際の日記などが、平凡な常の京都の記録の中に、挿まって光を放って居る。p144-145

 

昔の旅 これからの旅
旅は動機の上からこれを群の旅と一人の旅行との二つに分けて見ることができる。
群の旅行は主として信仰に発したもので道者が中心であり、熊野参りの道者などがその先駆者に数えられ、年百年中、沢山の旅人が熊野目指して集まった。富士や出羽三山の行者も型は熊野からとったものである。
この道者や行者の旅が段々庶民の間に弘まるようになると、当初は信心から始まったものであったが伊勢参拝や大和巡りが附加され、或は金比羅詣でや更に長駆して出雲大社太宰府天満宮あたりまで赴く者などが出てきて、遂には信仰だけでなく遊覧をかねてする方が強くなってきたのである。
近世になって八十八ヶ所とか三十三番札所の如く、信仰に引き戻そうとするものもあったけれども、どちらかといえば名所旧蹟に心惹かれるようになってきた。
個人の旅即ち一人旅は比較的近世になって起こったもので、この一人旅の始は「あきない」ではなかったかと考えられる。
後には越中富山の売薬行商の如く顕著な発達を遂げたものもある。p148-149



中央と地方の文化が旅行に依って交流した著しい例は足利時代中期の京都の衰微と旅行の関係に見ることができる。
応仁の乱により即ち文人墨客などは食えぬ京都を棄てて、続々地方行脚に出たのである。
歌や物語を地方の大名や豪家に土産として書いてやり、或いは連歌を興行し、帰りに金銀を土産に貰って来る一種の文化交易である。
地方文化は乱世のときに培養されるものである。p149-150

柳翁閑談 こども
大正十年正月沖縄への途中、奄美大島に数日立ちよった。わずかの印象で決めてしまうのは酷であるが、この島の子供は、全体におっとりしたところがないように見受けられた。奇妙な遊びの流行している時で、旅人とみれば「今何時ですか」と時計を出させ、わぁーっとはやしたてる。金時計か、銀時計か、さきに言い当てたものが勝ちになるらしい。なんというわびしい子供の遊びであろうか。もっと子供らしい遊びはないものであろうかと、ずいぶんさびしい思いをしたものである。p156