「明月記」をよむ 藤原定家の日常

「明月記を読む」藤原定家の日常 表紙

 

『明月記』を読む 藤原定家の日常

山中智恵子 著

三一書房 発行

1997年2月28日 第一版第一刷発行

 

昭和19年、定家と同じく戦火の中、定家が日記を始めた同じ19歳で明月記を読み始めた筆者による明月記解説書です。

 

はじめに

マラルメヴァレリーリルケなど、西欧の詩人たちの日常もまた、定家に劣らぬ憂愁の日々だったことを、『マルテの手記』や『ドウィノ悲歌』、『海辺の墓地』などに想った著者p2

 

欠巻といえば、『明月記』は、いつも肝心なところが欠けていて、重大危機にある時の、限りなき悲嘆にくれている定家の心境を知ることができないうらみがある。p5

 

『明月記』まで

 

紅旗征戎吾事ニ非ズ

定家の宿痾咳病は、青春の頃かららしい。彼は、あらゆる病気に罹り、それをよく記録する。p25

(この本の中でも、やたら体調不良の話が出てきて痛々しい)

 

頼朝が伊豆に挙兵した。優美な貴公子平維盛が追討使となり東征する。

定家は、この乱世を、〈紅旗征戎吾事ニ非ズ〉と冷然と断言する。この時、すでに定家は、俊成の子として、歌をもって世に立つ決意をしたのだろうか。〈之ヲ注セズ〉としながら定家は、耳目を開いて情報をよく集めている。やはり重大な〈吾事〉であった。

 

定家は、月光症候群ともいえるほど、月によく反応している。9月15日の夜も、月光蒼然、青侍等を連れて、六条院の辺りに遊歩、大流星か、新星爆発かと想われる天象をまざまざと見る。天体に敏感な人である。p34

 

雨漸く滂沱タリ

 

花月百首のころ

 

良経に百首歌を詠進する

定家は、生真面目ながら生来ゴシップ好きである。まるで週刊誌の記者よろしく、さまざまな見聞を記す。p59

 

譲位した後鳥羽院は、若さにまかせて、稀代のホモ・ルーデンス(遊ぶ人)ぶりを発揮し始める。女車に身をやつして、京中ばかりか郊外を歴覧の毎日である。19歳だから、この解放感に酔うのも無理はない。p64

 

定家が騎馬で行くと、後鳥羽院の車が飛ぶように走ってくる。かろうじて逃げ隠れた。路頭で貴人にあった時の礼は、当時まことに厄介だった。p72

 

二世之願望已ニ満ツ

 

新古今集前後

後鳥羽院の歌

思ひつつへにける年のかひやなきただあらましのゆふぐれの空

丸谷才一曰く「まさしく時間性の情緒そのものを歌っているという点で、定家以上に定家的なのである。すなわちここには、重層性にかけても時間性にかけても、彼の恋歌の方法の若くして優秀な継承者がいた。この一首に接したとき定家おそらく、ついに自分の歌風が宮廷を制覇したと感じたことだろう」p129

 

後鳥羽院は水泳の上手だった。定家が書かなければ、後代の私たちは、貴族が裸で、裸馬に乗って、水練に行くことなど夢にも知ることは出来ない。定家の言の如く夢の如しである。p176

 

建永元年(1206)正月から五月初めまで、『明月記』を欠く。その欠落に、また定家にとっての一大事が出来する。良経の死である。p198

 

二月ごろから、三星相犯という、金星・木星土星が一列に並ぶ天象があり、人々を畏怖させていた矢先の良経の死(三月七日)だった。p200

 

良経を偲びつつ瓜を食う定家。p206

 

七月三日。後鳥羽院、昨日、川上船屋の中に、未練の者二十余名を籠められ、一度に川に流して興ぜられた。p207

(ひどい人ですね・笑)

 

吉富庄にて家司忠弘の下人、傀儡師と闘諍

傀儡師は、本来の芸能の他、馬・櫛などを諸国に遊行して売り歩いた。

農民よりは下の階級であるが、免税をふりかざして勢力があった。p232

 

為家両主好鞠の日に遇う

後鳥羽院順徳天皇は、ともに優れた鞠足であった。そしてこの両主とともに為家が蹴鞠の骨を得ていることにより寵が厚いのは、よろこびとともに、やはり歎かわしい。歌道の家に生まれた少年が、歌も作らず、楚々たる美服を着て、日夜鞠にふけるのを見れば、父定家の悲涙も当然だろう。

しかし皮肉なことに、為家は定家亡き後、壮年にして歌壇の覇者となり、その子孫は、歌をもって名を残した。p237

 

隠岐のかがり火

承久三年五月十四日、承久の乱が起る。

定家による『後撰集』筆写の写本に、再び〈紅旗征戎吾ガ事ニ非ズ〉の言葉

しかし19歳のそれは揚言であり、60歳のそれはなす術もない悲歎である。p250-251

 

暁の夢をはかなみまどろめばいやはかななる松風ぞ吹く

隠岐にあっても後鳥羽院ののびやかな帝王調は、いささかも崩れていない。こう思うのは、悲境に在って、帰京する術もない後鳥羽院に寄せる、私(著者)の感傷であろうか。p236

 

七月十五日。天晴

山ヲ出ヅル月、蝕ヲ帯ス(皆既)

月蝕を見る定家はいい。これは、月出帯蝕だった。p257

 

十九日。今度の月蝕、皆既。先々皆既といえども、今度の如きは月輪その在所を見ず。ひとえに消え失せる蝕の如し。

皆既月蝕にて、月は全く消失したように、銅色の影も見えなかったので怖れる。p262

 

十一月四日。夜天晴れ、奇星を見る。この星朧々として光薄し。その勢い小ならず。

天文方が、天象に関心を持つ定家に、いち早くこの異象を知らせてきた。客星とは新星のことである。p265-266

 

『明月記』は嘉禎元年(1235)十二月三十日で終わっている。絶筆か、散逸か。七十四歳である。p277

 

まさしく丸谷才一氏が言われるように、「定家と後鳥羽院は反目し対立する晩年において、実は最も深く互いに影響を与え合ったし、まるでそのためには長い歳をかけての熟成が必要だったように、あるいは孤独という条件が不可欠」だったのである。p280

 

あはれなり世をうみ渡る浦人のほのかにともすおきのかがり火 後鳥羽院

「あはれ」から「おき」までは執拗に重層的な意味を狙って雰囲気を濃密に盛り上げ、一転して結句の「かがりび」では単一の意味によってイメージを明確にしぼるあたり、恐ろしいほどの技巧と感嘆するしかない。

丸谷氏の名鑑賞を得て、はじめて後鳥羽院は瞑することが出来たであろう。後生畏るべし。p283-284