父との散歩 堀三千 著
父との散歩
堀三千 著
人文書院 発行
1980年7月30日初版第2刷発行
柳田国男の三女で、堀一郎と結婚した著者による、柳田国男を中心とした家族の回想録です。
『郷土研究』の最終号は、十四の論文全部が匿名を使った柳田国男の論文であることには、あきれるばかりである。
その中で桂鷺北という名は、自分の曾祖母の実家、姫路市砥堀の桂家を姓に、その土地が白鷺城の北にあったのを名にしている。p8
関東大震災が父の逡巡していた心を、本筋の学問のために起つという決心を、一挙に実行にふみきらせた。p46
「父は幸せな人であった」と私はかつて「父の思い出」に書いたことがある。長患いすることなく、長寿を全うし、自分の志す道に邁進した。これだけでもたしかに幸せな人だった。しかし私が「幸せな人」といったのは、母のような忍耐強い妻とともに、八十七歳の最後の日まで暮らすことが出来たということである。私の考えは今でも変わっていない。p55-56
父は本を読んでいて、注意すべき箇所があると、そのわきに、色紙の米粒大ほどをはりつける習慣を持っていた。父の読んだ本には必ずこの印がついている。p59
祖父たちをおかしがらせた言葉に「とても」があった。「たいへん」という意味に使われる「とても」は大正の終わり頃から東京でも流行し始めたようである。本来は否定につける言葉であったから、古い時代の人たちは奇異に感じられるものであったらしい。p72
父は地方の人たちの方言やなまりを笑うことをひどく嫌った。十三歳の時に播州から関東に出てきた父は、八十七歳で亡くなるまで、関西のアクセントを持ち続けた。p76
父は形式よりも心を重んずる人であったように思う。例えば親類知人が亡くなったような時に、すぐに弔問に行き、葬儀の列に加わるようなことをしない。母に対しても、「もう少し静かになって寂しくなってから、行ってあげなさい」などという。p83
紀州山中その他には、笑い祭という面白い習慣がある。祭りの頭がオコゼを懐に入れている。一座の誰かが、「貴殿御懐中のオコゼを見せてください」という。頭は「いやいや、見せることは出来ません。皆の衆はきっとお笑いになるでしょうから」と答える。そこで一座が口をそろえて懇願する。「決して笑いません。一目でよいから見せてください」そこで「お笑いになっちゃいけませんよ」と念を押してながら、頭は懐中へ手を入れて、袖口の端からオコゼをちょっと出す。すると満座がどっと笑いくずれる。
このようなやりとりを三度繰り返す頃には、祭りの儀式であったものが、本当の笑いにかわり、頭、一座ともども大笑いになる。p131-132
(とにかく明るい安村さんのギャグをなんとなく思い出してしまいました)
「遊海島記」の一節に次のような記述がある。
我少なくして愁多く、曾て独サーチャイルドが歌の巻を懐にして、西に夕づつの国に憧れ行きし日、図らずも此浦人の宿に留まりて、此処に時の間の幻影を楽しみし事ありき。
彼がなぜ伊良湖岬を選んだかは、知る由もないが、「西に夕づつの国に憧れ行きし日」とあるように、両親と幼い時を過ごした西の方へと、おのずから惹かれて行ったのであろうか。
父が伊良湖の二か月余の滞在の後、さらに西の方伊勢を訪れ、その後、大和を経て姫路、生野へまで足をのばしていることを、年譜は記している。p138
かつて橋浦泰雄氏は、このように書かれた。
先生を非情の人だと評する人々が若干ある。弟子の面倒をみてくれない。即ち就職とか、金銭上の援助についてである。先生が、「民俗学では飯は食えないよ」というのは、その予防線ではないか、という人さえあった。むろんこれは自立心の薄弱な人々の批言であるのはいうまでもない。p145
父の研究題目は多岐にわたっていた。一時は稗田阿礼に熱中していたことがある。父は稗田阿礼が女性であることを実証しようとしていた時であった。ついに私が「うちの稗田阿礼」というニックネームをもらった。それというのは、子供のころの私は、人の名と年月日に妙な記憶力を持っていたからである。p148