生野銀山と銀の馬車道

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生野銀山と銀の馬車道
清原幹雄 著
2011年5月20日 初版第1刷発行
神戸新聞総合出版センター 発行

明治の初めに生野鉱山から姫路の飾磨津まで、物資輸送専用の道路が建設されました。
今では「銀の馬車道」という愛称で親しまれています。
その成り立ちや歴史について、しっかりまとめられた本です。

初代生野鉱山局長、朝倉盛明
薩摩藩は留学生派遣計画をたてていた。しかしその頃は日本人の海外渡航は禁じられていたため、脱藩させ、一旦琉球渡航させ、琉球人として派遣させていた。
田中静吾(朝倉盛明)もその一人として英国に留学する。

生野鉱山の開発を託されたフランシスコ・コワニエ
もともと薩摩藩のお雇い鉱山技師だった。
鉱山開発に対する深い見識と薩摩における実績により、官営事業の一つであった生野鉱山の開発に携わる。

日本の煉瓦建築は、明治初期のお雇い外国人建築家の手によるものが少なくない。が、その多くは大正12年(1923年)9月1日の関東大震災で失われた。それ以後、構造材ではなく、装飾材として用いるようになった。
生野では、明治4年12月から明治6年2月までの一年余り、煉瓦積職人のアルホンス・パリスが雇われた。馬車道の終点にあたる飾磨津の物揚場倉庫(現・浅田化学工業)の壁の一部が残っている。p54

生野鉱山ではコワニエを代理人としてフランス人技術者を雇用したが、その数は計24人になる。
坑夫、土質家(鉱山技師)、煉瓦積職、医師、鋳物鎔鉄師、器械師、器械方、熔銅鉱師、焼鉱夫などの職種である。

設計家レスカス
生野鉱山での在勤は短かったが、馬車道のルート決定図に名を残したほか、外国人住宅の設計にも携わった。
また、地震発生時には、「煉瓦のみでは危険である」と指摘した論文を1875年にフランスの学会誌に発表している。

1874年(明治7年)のパリ市内を記録した写真。19世紀の馬車の時代を彷彿とさせる。
パリ大改造や、印象派の第1回展覧会が開かれていたとき、まさしく生野ー飾磨津間で馬車道が修築されていた。

大正年間のある日、パリの公園のベンチで、和田三造画伯に話かける老人
「君はジャポネだろう」
「そうです」
「但馬の生野を知っているか」
「私の故郷だ」
いきなり、この老いたフランス人は、抱きついて、物も言わず泣き出した。
老人は、コワニエと共に、青春の日を生野に過ごした坑夫の一人であった。p163