消えた国 追われた人々 東プロシアの旅 後半

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消えた国 追われた人々 東プロシアの旅 後半より

カリーニングラードはロシアの最も西の町である。1946年に誕生。前年までは「ケーニヒスベルク」といって、ドイツの最も東の町だった。1255年の誕生。
リトアニアビリニュスよりカリーニングラードまで340キロ、それを直通列車で七時間かけて走る。
列車内でのいざこざやホテルの誤予約で苦労する池内さん

ケーニヒスベルクは哲学者カントが1724年に生まれ、育ち、教え、死んだ街。終生、ケーニヒスベルクの町をほとんど離れず、東プロシアから一歩も出なかった。

川はメーメル川、町はメーメル。
やわらかな、やさしい響きの名前
かつてドイツ国歌の二番に使われた「南はライン、北はメーメル」
メーメルはクライペダ(リトアニア名)と改名される。
(この本の表紙の写真はこの町に建てられた「タラウの娘」です)
町の誕生七百五十年記念の儀式が予定されていたが、細かくわけると
ドイツ時代 六百九十二年
ソ連邦時代 四十四年
リトアニア時代 十四年
しかし厳密には、第一次世界大戦のあと、メーメル地方は、まさしく歴史のいたずらとでもいうしかない状況だった。
ヴェルサイユ条約でメーメル一帯が東プロシアから分離し、連合国管理下に置かれた。その連合国は「フランス・イギリス・イタリア・日本」を指していた。日本が多少ともヨーロッパの領土と関わりを持った最初で最後のケースである。
日本の軍人行政官も行ったはずだが、その間のことは何ひとつ伝わっていない。

ロシアの鉄道にこりた池内さん。カリーニングラードからビリニュスへの帰りはハイヤーにする。
すると今度は国境が閉鎖状態になってしまった。仕方なく国境の係員に袖の下を渡し、なんとか出国する。4時間の予定が9時間かかってしまった。

ラトヴィアの町リエパーヤ、旧ドイツ名だとリーバウ
リーバウを中心とした地域に1940年までの二十二年間、二つの民族の共同統治による小さな共和国が存在した。これはロシア人嫌いのラトヴィア人には、誇らかな名誉らしい。

ポーランドグダニスク、元々はダンツィヒと呼ばれる古い街
1920年には「自由都市」となる。
当時の海沿いを西から東へいくと、ドイツ・ポーランド自由都市ポーランド・ドイツ・リトアニアとなる。

第二次世界大戦後、ポーランドは約250キロ西へ移った。
まずドイツ人を追い出し、あいたところにソ連領となったところのポーランド人を移動させる。四年がかりの集団引っ越しになる。
それでも当時の生活水準に照らすと、少なからぬポーランド家族が、引っ越しによって夢のような住居にありついた。

(画像は1500年のヨーロッパ地図の、東プロシア辺りを写したものです。パリの凱旋門の中にある売店で買ったものです)