日本遺産と播磨

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「日本遺産と播磨」表紙

日本遺産と播磨
播磨学研究所 編
神戸新聞総合出版センター 発行
2020年9月10日 初版第1刷発行

この本は、播磨の日本遺産を総合的に概観する初めての書物、とのことです。
生野鉱山を発する「銀の馬車道」は播磨の中央部を縦断して飾磨津に至ります。
その飾磨津は高砂室津、赤穂(坂越)とつながる「北前船」の重要ルートを構成し、赤穂では「日本第一の塩」を生産してきました。
また、全国有数の古刹、清水寺一乗寺円教寺は「巡礼道」の中核を形成しています。
播磨では、日本遺産ゾーンが縦横に走り、交差して、特異な文化地帯を作り上げています。p320

 

銀の馬車道を設計したのは、フランス人技師レオン・シスレー
シスレー生野銀山再開発のために主任技師として明治政府に雇用されていたジャン=フランソワ・コワニェの義弟で、コワニェの要請によりお雇いフランス人技師となった。p62

コワニェファミリーは理系が多かったが、シスレーファミリーは画家のアルフレッド・シスレーやヤン・フランス・ファン・ダールや、絹織物、園芸関連など、芸術系が多く、対照的な家系だった。p75

コワニェらお雇いフランス人を通してフランスから得たものが、高島北海を通じて日本からの贈り物としてフランス芸術におけるジャポニスムアール・ヌーヴォー開花に影響を与えた。
銀の馬車道はフランスの美術にとって大きなカギを握るものだったのでは。p83

 

近代的な道路舗装を論ずる上で欠かせない工学者
フランス人技師トレサゲ(1716~96)
イギリス人技師テルフォード(1757~1834)
スコットランドのマックアダム(1756~1835)
マックアダムの考案したマカダム式が一番単純かつコスト的にも廉価で、のちに世界的に普及していく。p127
そして播磨の銀の馬車道にも使われる。
その後、石油燃料の副産物である、タールを使ったアスファルト舗装が普及し始める。当初はアスファルト舗装と呼ばれずにタールマカダムと呼ばれていた。
 
江戸前期の高砂には大型の廻船がたくさんあり、山形の酒田など遠隔地にも物を運んでいた。
運んでいたのは、主に「あらい」といわれる塩。荒井の塩は良質で赤穂よりも古く、周辺の的形や大塩、北脇、西浜それに高砂の塩も「あらい」という一種のブランドとして江戸に運ばれた。p185
 
山陽電鉄が神戸から姫路に延伸されたとき、運賃は他の鉄道会社の運賃よりも低価に設定されていた。
それは、大阪からの瀬戸内の回漕、旅船など船舶の往来が昔から活発であり、鉄道を利用するうえで、最大のライバルは瀬戸内海の海上交通だった。p211
 
羽柴秀吉が播磨を所有していた天正9年(1581)頃、小西行長室津を所領する。
小西はキリシタン大名だったので、室津キリシタン一大布教地となる。
フロイスシーボルト室津の美しい風景を絶賛している。p216-218
 
赤穂は海だったところが陸地化していった。
赤穂を流れる千種川の50キロメートル北の上流jには、佐用や千種という中世から製鉄が盛んだった地域がある。
砂鉄を採る過程で、山を削って土砂を川に流す「かんな流し」と呼ばれる方法。
このために、多量の土砂が下流に流れ、広い干拓地が出来て、塩田となった。p249