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第二次大戦下 ベルリン最後の日 ある外交官の記録
新関欽哉 著
日本放送出版協会 刊
NHKブックス 548
平成元年12月10日 第5刷発行
世界大戦勃発直前の1938年、外務省に入ってヨーロッパに赴いた著者。
リガおよびイスタンブールでの研究生生活の後、ドイツで三年半にわたり大使館員として勤務しました。
ヨーロッパでの最後の戦いとなったベルリン攻防戦の間もそのまま残留して、ナチス・ドイツ崩壊の有様を目の当たりに見たばかりでなく、その後シベリア経由で帰国し、二度目の敗戦を日本で味わいました。
第一章 大戦前夜のヨーロッパ
1 ロシア語研究員第一号
外務省が、なぜリガというあまり知られていない場所をロシア語研究員の留学地に選んだのかというと、本来ならばロシア語の勉強に最適と思われるモスクワが留学地として好ましくないと考えていたから。
1930年代のソ連は非常な混乱期にあり、政情が不安定だった。
そこで、かつてのロシアの領土であり、第一次大戦後に独立したバルト三国の中で一番大きい、ラトヴィアの首都リガが留学の地として選ばれた。
当時は欧亜連絡の航空路がまだ開けてなかったので、ヨーロッパに赴くにはシベリア横断の汽車の旅が最短のコースであったが、外務省の特別の計らいで、インド洋を経由して船で行くことになった。
2 バルト海のほとりで
リガはもともと13世紀初頭にハンザ同盟によって建てられた町なので、そのたたずまいは、ハンブルグ、ブレーメン、リューベックといった北ドイツの町並みによく似ていた。
リガでウォトカの杯を重ねているうちに、前後不覚となり、ぶっ倒れてしまった著者。
ウォトカは一気に飲み干したすぐ後、ザクースカという黒パンの切れっぱしにバターを塗り、その上にソ―セージなんかを乗せたものを丸ごと食べる。
このように、胃袋の中で座布団を敷くようなやり方で飲むと、何杯飲んでも酔わない
3 東欧諸国を歴訪
4 戦争の勃発
第二章 破滅の道をたどるドイツ
1 ベルリンで大使館勤務
2 ヒトラー作戦の失敗
3 奇妙な同盟
4 第二戦線とヒトラー暗殺計画
5 東西からの挟撃
第三章 ベルリン籠城
1 大使、ベルリンを去る
2 戦場と化したベルリン
3 ヒトラーの最期を知る
第四章 二回の終戦
1 ドイツの降伏
2 占領下のベルリン
1945年5月9日ソ連兵との話
・戦争の惨禍はひどい。今後戦争は絶対に避けるべきである。
・ベルリンの復興には百年かかるであろう。
・米国は強い。日本はかなわない。
・日本がいつまでも中国と戦争しているのは不可解である。
・日本がソ連に戦争を仕掛けなかったことはよいことだ。だが、日本がドイツと一緒にソ連を攻撃するようなことがあれば、ソ連は日本を叩きのめしていただろう。
3 ベルリンから東京へ
ワルソー(ワルシャワ)市の荒廃ぶりは言語に絶するほどで、ベルリン市東部の惨状にもひけをとらないものだった。
一面のがれきの中に崩れ残った建物の外壁が所々に建っているだけで、市街の90%以上が完全に破壊されており、かつて見たポンペイの廃墟を想い起したくらいであった。
モスクワからソ連国境のチタまで行くのに九日間を要したが、毎日同じような単調な景色で頗る退屈な旅だった。
横光利一の紀行文の中に「なんて馬鹿馬鹿しく広いんだろう」と書いてあったことを思い出した。
日本に帰って、徹底的に叩きのめされたドイツを見て、ドイツは再起不能でしょうと父に言ったが、父はドイツは必ず立ち直ると、三十年戦争のことまで引き合いに出して主張した。
著者は歴史的観点に立って冷静に判断するゆとりを持ち合わせていなかった。
ドイツでは、どの家にもある地下室が防空壕として利用されていただけでなく、ベルリンなどの大都市では、ブンカ―と呼ばれる防空壕が到る所につくられており、一般市民にも開放されていたが、日本に帰ってきてみると、庭先に塹壕のような穴が掘ってあって、それに雨戸や畳をのせ土をかぶせただけで、全く気休めにもならない状況であった。
第五章 よみがえる日本大使館
1 戦後の日本とドイツ
日本の場合も、もしポツダム宣言を拒否し、戦争を続けていたならば、米軍は九州から関東にかけて上陸作戦を行い、ソ連軍もこれに呼応して北海道を占領するに至っていただろう。そればかりでなく、第三、第四の原子爆弾が投下されていたかもしれない。
2 ベルリン日独センターの誕生
ソ連で「ベルリン陥落」という映画がつくられ、日本でも上映されたとき、日本の大使とおぼしき人が燕尾服の上に勲章をつけて立っているのを見て、同席した元公使が大声をあげて、「あれは僕のものだ」と叫んだ。
礼服・勲章ともトランクに入れて大使館の倉庫に残してきたそうで、それがそのまま映画の小道具に使われていた。