十五の夏(上) 佐藤優 著

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十五の夏(上)佐藤優 著 表紙

十五の夏 上
佐藤 優  著
(株)幻冬舎 発行
2018年3月30日 第1刷発行

1975年、十五歳、高1、当時は離れ島の中学校の英語教師になることを目指していた筆者。個人旅行でプラハワルシャワ、ブダペシュト(ブダペスト)、ブカレストキエフなどを旅した紀行文です。
十五歳で個人旅行で海外、特に難しそうな東欧、ソ連、を訪問する勇気、そして現地の人々と自然にコミュニケーションをとる姿に感服します。

第1章 YSトラベル 
旅行前の様々なややこしい手続き
安いエジプト航空を使いカイロ空港経由でチューリッヒに降り立つ。

第2章 社会主義国
スイスから西ドイツを経て、チェコスロバキアポーランドを通り、ハンガリーに入る。
同じ社会主義国でも違うお国柄。

ワルシャワユースホステルで出会った東ドイツの大学生。
東ドイツのことを常にDDRと呼んでいる。

ワルシャワの食堂で出会った四人の男。
自宅まで行き、ウオトカを飲まされる筆者。
ウオトカにもロシアへの対抗心を見せつける男たち。

プラハではホテルや切符の確保に苦労する。それに対してワルシャワでは地元の人々と触れあう。チェコスロバキアには住みたいとは思わないが、ポーランドだったら引っ越してもいいと思った。

第3章 マルギット島
マルギット島はブダペシュト(ブダペスト)のドナウ川の中洲。
ホテルやレストラン、ギャンプ場やプールもある観光地。

第4章 フィフィ
フィフィはブダペストに住むペンフレンド。
その家に泊まり家族とも交わる。
ハンガリーにおける反ルーマニア感情。

第二次世界大戦ではドイツと共に敗戦国のハンガリー。戦後、ドイツよりひどかったハンガリーのインフレ。

ブダペストの本屋で働く日本語の流暢な店員。大学教育ではなく、夜間学校で高いレベルの日本語を身に付けた。

第二次世界大戦まで、ハンガリー人は生活していくためにドイツ語の知識が不可欠だった。
戦後はロシア語が必修科目になった。
ハンガリー動乱で国民の圧倒的多数がソ連を嫌いになったが、知識人はロシア語やソ連事情について一生懸命に勉強するようになった。
ハンガリーが生き残るために、ソ連との関係が死活的に重要だから。

第5章 寝台列車
ブダペストからルーマニアブカレストに入る。
フィフィの父が言っていたようにルーマニアの税関職員は物を要求してきた。
ブカレストからキエフ行きの列車に、現地の中年男性が助けてくれるが、乗れなくなるハプニング。
駅の事務室の50歳くらいの上品な女性次長が助けてくれる。

ルーマニアソ連に対する感情はよくない。
それはベッサラビア(モルダビア)問題があるから。
もともとモルダビア人という民族はいない。それはルーマニア人。モルダビアとは、スターリンベッサラビアの併合のため人為的に作った民族。p373

ソ連に入国して一人になったのは、ホテルの部屋が初めて。
ソ連人は親切だと思ったが、別の見方をするならば、動きは厳重に監視させている。
もっともこういう不愉快でない、ソフトな監視ならば歓迎だ。p410

ルーマニアは別として、チェコスロバキアポーランドハンガリーはヨーロッパの国だった。まだキエフにしか滞在していないが、ソ連は雰囲気がだいぶ異なる。p416