ラファエロ ルネサンスの天才芸術家 第4章~終章

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ローマのパンテオン内にあるラファエロの墓

第4章 ラファエロをとりまく人々

ラファエロはローマで、背景に単色を用いる肖像画のスタイルを、北イタリアや北方の画家たちから学んだと思われる。

教皇ユリウス2世の肖像
髭には、ボローニャ奪還、ひいてはイタリアから外国勢力を追い出そうとする教皇の悲願というべき信念が込められていた。

美しい銀行家、ビンド・アルトヴィーティの肖像
18世紀にはラファエロの自画像に間違えられる。
19世紀中ごろに誤りが訂正される。

フォルリ―ナ」の女性のポーズ
伝統的な「ウェヌス・プディカ」(恥じらいのヴィーナス)の所作を踏襲した。

第5章 墓と遺産

聖堂として転用されながらも、オーセンティックな古代建築の形態を保存しているパンテオンの空間に永眠することをラファエロが望んだのは、古代芸術の薫陶を受けた彼ならではの選択だった。

ラファエロの墓碑の聖母子像は、古代世界で普及していた女神像の一つのタイプに属している。
中世来、古代の神々や英雄たちはキリスト教的秩序の一要素として再解釈されており、かつ古典古代の美術が尊重されていた当時の状況を考えれば、その選択は非常に時流に沿ったものだった。

ラファエロの墓は、当時から高く評価されていた人物にしては、比較的シンプルで、控えめなモニュメントとなった。
彼の墓の贅沢な点は、場の選択にあった。
パンテオンにはラファエロ以前に著名人の墓は設置されていなかった。

終章 後世の批判と再評価

ラファエロの最も代表的な批判者は、英国で19世紀中ごろに結成された「ラファエル前派」
ラファエルとは、ラファエロの英語読み
ラファエロ以前の芸術に立ち返ることを理念の一つにしていた。

ラファエロは単なる儚げな夭折した画家ではなく、若年の内から古今の芸術を熱心に学び、ステップアップした野心家であった。
宮廷の貴族たちと交流を持つ宮廷人であり、さらに周囲の芸術家をまとめる監督者、古代ローマの芸術と都市について調査を行う考古学者でもあった。p202