バチカン近現代史

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松本佐保 著
2013年6月25日 発行
 
バチカンの近代化は1648年、ウェストファリア条約の締結からである。
これは30年戦争の講和条約だったが、カトリックプロテスタントの同権が認められ、バチカンの権威回復のために動き始める。
本格化な近代化への挑戦は、18世紀末葉のフランス革命の時代からである。
フランス革命政教分離を行い、「平等」という理念によって土地・財産の共有化という考え方を提示したからだ。
またナポレオンの登場によって、教皇は追放や幽囚の憂き目にあっている。
ダヴィッドに描かれた「ナポレオンの戴冠」
本来教皇のピウス7世が授けるはずの冠をナポレオンが自ら手で頭に戴いた。
 
1878年のイタリア初代国王の葬儀は、カトリック教会ではなく、キリスト教以前の古代ローマ時代を起源とする「異教信仰」の神殿パンテオンで行われた。
以後、パンテオンは世俗化した王家の墓、神殿となっていく。
 
1929年、ムッソリーニとのラテラノ条約により、カトリックはイタリア唯一の国教とされ、バチカン市国の独立が承認された。
また、教会に属する権限と国家に属する権限が規定された。
これによって1870年のイタリアによるローマ占領から続いていた教会と国家との対立はひとまず終わることとなった。
 
ヒトラー教皇」とまで呼ばれたピウス12世
バチカンにとってはファシズムやナチズムが、共産主義の対抗組織としてソ連を倒してくれる希望を持っていた。
それゆえムッソリーニヒトラーとの政教条約にふみきった側面がある。
 
ヨハネ23世(1958年即位)は第二バチカン公会議の開催を決意した。
公会議とは、世界中の大司教や司教などの聖職者が集まって教義と教会規則について審議決定する会議。
ヨハネ23世が目指したものはエキュメニズム(教会一致)であった。
カトリック正教会プロテスタント、更にはユダヤ教会との対立を解消し和解をはかることであった。
 
本来キリスト教一神教だが、聖人信仰を取り入れているカトリックは「多神教」は、共産主義が推し進める「無信教」より遥かに信頼できるものだった。
「異教」や多宗派に対しても開かれた組織になることで、共産主義に対抗し、近代化を図っていった。
 
彼が支援してきたポーランドの「連帯」が共産党政権を倒し、その余波が東欧全般に及んで、ソ連圏にあった共産党体制を崩壊に導いた。
2011年、ヨハネ・パウロ2世の列福式が行われたが、この異例の速さは、奇跡を起こしたこと(教皇パーキンソン病の回復を祈っていた修道女のパーキンソン病が治癒した)だけでなく、信仰の自由を弾圧していた共産党体制を崩壊させたという世俗社会の功績が大きかったのだろう。
 
2013年2月、ベネディクト16世の突然の退位
高齢と健康上の理由だけでなく、教会での子供への性的虐待や、バチカン銀行のマネーロンダリング、また21世紀のさまざまな性の問題が、保守派の教皇には対応できなくなってきたのではないか。
 
近年、国際社会において、軍事・戦略的なハードパワーだけでなく、宗教や文化などのソフトパワーに注目する研究が盛んである。
そうして意味でもバチカンの影響力に改めて注目すべきだろう。