ラファエロ 作品と時代を読む(第3章~)

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第3章 激烈なるラファエロ へリオドロスの追放(1511年)

「署名の間」の色彩が明るく穏やかで
明るく澄んだ屋外で
優雅に落ち着いた人物表現なのに対し
ヘリオドロスの間」は色彩は暗く、深みのある褐色や赤が目立っている。
劇的な夜景や人工的な光源で照らされた神秘的な室内
人物像の身振りや感情は概して激しくなっている。
二つの部屋で違った雰囲気
注文主の教皇ユリウス二世の状況は?

1510年8月から11年6月 教皇の苦闘
ロマーニャへの遠征
その頃髭を生やしていたユリウス二世(ラファエロによる肖像画
髭をあえて剃らないという態度には、ある強固な伝統がある。それは痛恨の経験をした人間が懺悔の意を込めて髭を伸ばし、最終的には仕返しを果たすまでの誓いの印としていた。p142


1511年6月から12年6月 教皇の勝利

ラファエロが《ヘリオドロスの追放》と《ボルゼーナのミサ》を制作し、さらにおそらくは《聖ペテロの解放》を描き始めていたまさにその時に注文主である老教皇が死活を賭した闘争のただなかだった。

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第4章 ローマ第一の画家として 教皇レオ10世時代のラファエロ

《ボルゴの火災》において燃え盛る復讐のマルス神殿は戦火と教皇レオ10世の政治理念を暗示する。
戦火から逃れるアエネイスたちは、古代ローマの長い歴史と系譜の暗喩として、画面中央奥に展開する、教皇サン・ピエトロ大聖堂が端的に示す、キリスト教世界へと繋がっていることを示唆している。p178
「火災の間」における劇的な人物群と建築の構想の根幹には、古代神話及び教皇庁の歴史とを踏まえた理念が存在しているといえる。p179

レオ10世時代のラファエロの作品「火災の間」と「ラファエロのロッジア」の装飾には、教皇庁の目指した理念と、教皇の公私の態度が複雑に入り混じりしつつ、キリスト教世界の説話が豪奢に、かつ雄弁に表されている。p191

第5章 テヴェレ河畔の「愛の館」 ヴィッラ・ファルネジーナにおける古代神話画

美しいニンフであるガラテアの姿(この本の表紙)は、ラファエロによる理想的な女性美の典型例として語られてきた。
ガラテアはネオプラトニズム的理想の表象とみなされてきた。
またガラテアの上半身をひねる姿勢については、ダ・ヴィンチの《レダと白鳥》の女性像に学んだポーズとの類似が指摘されている。p201

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第6章 最後の大作 《キリストの変容》(1518-20年)

ラファエロの死の原因は教皇レオ10世時代のラファエロが抱えていた恐るべき仕事(教皇自身やフランス王のための作品やサン・ピエトロ大聖堂造営主任としての重責等々)を思えば、一種の過労死とも想像できる。
そのような状態でも、絶筆となった《キリストの変容》に限っては、ラファエロはほぼすべての描画作業を自ら手掛けた、とヴァザーリは述べている。p221

ナルボンヌ大聖堂のためのラファエロとセバスティアーノ(後ろ盾はミケランジェロ)による競作はミケランジェロが仕掛けたもので、その意図はなんとかしてラファエロをへこませるためだった。p229

《キリストの変容》の構想過程を見ていると、どうもラファエロは競作相手のセバスティアーノが自分の作品の内容を隠そうとしていたにもかかわらず、その内容をわかっていたようだった。

バスティアーノの主題「ラザロの蘇生」はキリストが死者を生き返らせる奇跡
一方ラファエロが追加した主題は悪魔憑きの少年を癒す逸話
これらの主題はいずれも「医師・治癒者としてのキリスト」という概念に関わっており、教皇レオと枢機卿ジュリオの出身家「メディチ」(医師の意がある)へのオマージュとなっている。p238

《キリストの変容》で描かれた二つの世界は、芸術家ラファエロの発展の縮図である。
上部は純粋で明澄なフィレンツェ時代の聖母子画のスタイルを受け継ぐものであり、
下部は「ヘリオドロスの間」の《聖ペテロの解放》に典型的にみられた光と闇の劇的な表現に連なっている。
二つの世界はまったく別々に切り離されたものではない。
悪魔憑きの少年はキリストを求めるかのように右手を大きく挙げている。
これと呼応するように、左側の赤い衣を着た使徒は、少年に向かって山上に浮かぶキリストを左手で指さしている。
弟子たちは少年を癒すことができなかった。
救済は唯一、キリストから来る。
この絵を見たゲーテが正しく看取したように。p240-241

ラファエロとセバスティアーノの作品は、ラファエロの死後に一度だけヴァティカン宮殿で一緒に展示された。
いずれの作品も高く評価されたが、競作の勝者は、疑いもなく亡きラファエロの方だと判定された。
そしてジュリオ・デ・メディチ枢機卿は《キリストの変容》をナルボンヌに送るのを取りやめ、《ラザロの蘇生》だけを送った。
ラファエロの芸術的遺書ともいうべき作品はローマに残されることとなった。
もちろん、1787年にゲーテがこの絵を見たのもそこである。p243